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境界町の茶屋で、立ち止まる ― 何者でもなくていい時間が、ここにはある ―  作者: 森永あおば


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第16話 一度だけ、座る

 昼と夕方のあいだは、境界町がいちばん静かになる。


 客が途切れ、外の音も遠のき、茶屋の中には湯の気配だけが残る。

 私は炉の前に立ち、湯を見ていた。


 特別な日ではない。

 何かがあったわけでもない。


 ただ――足が、重かった。


 立っていられないほどではない。

 だが、立ち続ける理由も見つからなかった。


 私は、炉の横の椅子に手をかける。


 この町に来てから、そこに腰を下ろしたことは一度もない。

 癖のように、避けてきた。


 椅子は、少し軋んだ。


 それだけだ。


 私は、ゆっくりと座る。


 身体が沈み、重さが抜ける。

 思ったより、静かだった。


 何も起きない。


 時間が戻ることも、

 記憶が溢れることも、

 町が揺れることもない。


 湯は、変わらず沸いている。


「……そういうものか」


 誰に聞かせるでもなく、そう呟く。


 座ったからといって、

 終わるわけではない。


 立っていたときと同じように、

 町は途中のままだ。


 しばらくして、扉が開く。


 アルトだった。


「……座ってるな」


「ええ」


 それだけの会話。


 アルトは驚かない。

 責めない。

 意味づけもしない。


 ただ、茶を飲む。


「悪くないか」


「悪くありません」


「立ち続けるより?」


 私は、少し考えた。


「比べるものではありません」


 アルトは、納得したように頷く。


「だな」


 私は、立ち上がる。


 座っていた時間は、短い。

 だが、戻るのは容易だった。


 椅子は、そこに残る。

 使われても、使われなくても。


 境界町は、

 座ることも許す。


 そして、

 立ち続けることも、禁じない。


 どちらを選ぶかは、

 誰にも決められていなかった。


 私は、湯を注ぐ。


 今日も、ぬるめだ。


 それでいいと、

 初めて思えた。


本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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