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境界町の茶屋で、立ち止まる ― 何者でもなくていい時間が、ここにはある ―  作者: 森永あおば


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第15話 立っている者の影

 閉店の札を下げたあと、

 茶屋には音がなくなった。


 湯の残り香。

 乾いた木の匂い。


 私は、炉の火を落とす。


「……座らないのか」


 声は、背後からだった。


 振り向かなくても、分かる。

 あの影だ。


「今日は、もう閉めました」


「知っている」


 影は、帳場の奥――

 あの席の近くに立っていた。


 光を受けず、

 闇でもない。


「この町には、

 座る者と、座らない者がいる」


「ええ」


「座らない者は、

 多くを見ている」


 私は、何も言わなかった。


「だが」


 影は一歩、近づく。


「見ているだけで、

 自分の時間を置いてきた者もいる」


 影の輪郭が、わずかに揺れた。


「君は、

 どちらだ」


 問いだった。


 逃げ場のない、静かな問い。


「私は、茶を出しています」


「それは役割だ」


「ええ」


「だが、

 役割は席ではない」


 私は、炉の横の椅子を見る。


 今日も、使われていない。


「ここは、途中の町だ」


 影が続ける。


「出る者もいれば、

 残る者もいる」


「ええ」


「だが――」


 声が、わずかに低くなる。


「立ち続ける者は、

 どこへ行く」


 私は、初めて影を見る。


 目があるかは、分からない。

 それでも、

 視線が合った気がした。


「……まだ、分かりません」


 影は、少しだけ間を置いた。


「正直だ」


 それは、評価でも、

 非難でもなかった。


「この町は、

 君を急かさない」


「ええ」


「だが、

 君が君自身を急かさぬ保証もない」


 影は、静かに言う。


「座らないことは、

 選択だ」


「はい」


「だが、

 選択し続けることは、

 留まることとは違う」


 意味は、すぐには掴めなかった。

 だが、

 言葉は胸に残った。


 影は、ゆっくりと後退する。


「今日は、これだけだ」


「……また来ますか」


 影は、答えなかった。


 ただ、

 影が薄れ、

 夜の町に溶ける。


 私は、一人になる。


 炉の前に立ち、

 あの席を見る。


 座らない。

 だが、

 目を逸らさない。


 その違いが、

 今夜は、はっきり分かった。


 境界町は、

 立つことも許す。


 だが――

 立ち続ける理由までは、

 与えてくれない。


 それを決めるのは、

 いつも、自分だった。

本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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