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境界町の茶屋で、立ち止まる ― 何者でもなくていい時間が、ここにはある ―  作者: 森永あおば


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第10話 出られる人

 その事実は、誰かが告げたわけではなかった。


 ただ、ある朝、女性が茶屋に来なかった。


 いつもより少し遅れて、

 アルトが顔を出す。


「……来てないな」


「ええ」


「遅れてる、という感じでもない」


 私は答えなかった。


 昼を過ぎても、

 女性は現れなかった。


 代わりに来たのは、

 あの外套の人だった。


 今日は、靴が少し汚れている。


「……彼女は」


「今日は、まだ」


「そうですか」


 外套の人は席に着かず、

 立ったままだった。


「ここに来て、分かりました」


 低い声。


「彼女は、もう――

 出られる状態だった」


 アルトが、わずかに目を細める。


「気づいたか」


「はい」


 外套の人は、苦く笑う。


「条件は、全部揃っていた。

 後悔も、未練も、

 自分で整理していた」


「それでも」


 アルトが言う。


「待っていた」


「……ええ」


 外套の人は、拳を握る。


「私が、返事をしなかったから」


 しばらく、誰も話さなかった。


 午後、女性が来た。


 いつもと同じ歩き方。

 同じ席。


 だが、今日は違った。


 迷いがなかった。


「今日は、少し遅くなりました」


「ええ」


 外套の人は、深く息を吸う。


「……行けます」


 その言葉は、

 確認ではなかった。


「今なら、

 一緒に」


 女性は、湯呑みを見つめたまま言う。


「知っています」


 そして、静かに続ける。


「私は、

 もう出られます」


 アルトが、目を伏せる。


「それでも」


 外套の人は、

 言葉を選ぶように続ける。


「返事を、ください」


 女性は、初めて彼を見る。


 怒りも、期待もない目。


「あなたは、

 私を待たせました」


「……はい」


「私は、

 待つことを選びました」


 一拍。


「だから、

 これは――」


 彼女は、息を吸う。


「私の、決断です」


 外套の人は、何も言えなかった。


 私は、湯を注ぐ。


 今日は、少しだけ濃くした。


「行くのですか」


 アルトの問いに、

 女性は首を振る。


「今日は、行きません」


 外套の人が、

 わずかに身を乗り出す。


「……明日は」


「分かりません」


 それは、逃げではなかった。


「待つことを、

 やめる準備ができたら」


 女性は、そう言った。


「私は、行きます」


 その言葉は、

 初めて“未来”を向いていた。


 外套の人は、深く頭を下げる。


「……待ちます」


 アルトが、静かに言う。


「今度は、

 あんたがな」


 外套の人は、頷いた。


 夕方、女性は立ち上がる。


「明日も、来ます」


「ええ」


「……でも」


 少しだけ、微笑む。


「待つためでは、ありません」


 扉が閉まる。


 時計塔の針は、

 動かなかった。


 だが――


 止まったままの時間に、

 初めて“先”が生まれた。

本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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