第1話 ぬるめのお茶が、ちょうどよかった
人生には、
どうしても立ち止まってしまう瞬間がある。
走り続けられなくなったとき。
役目を終えたとき。
次に進む理由が、分からなくなったとき。
境界町〈はざままち〉は、
そんな人たちが、なぜか辿り着く町だ。
ここでは、急がなくていい。
何者かにならなくてもいい。
ただ、ぬるめのお茶を飲みながら、
今日をやり過ごせばいい。
それが、救いになる人もいる。
境界町〈はざままち〉では、朝と夕方の境目がいちばん長い。
空が完全に明るくも暗くもならない時間が、ゆっくりと居座る。
茶屋の戸を開けると、木の軋む音が一つ鳴った。
いつもと同じ音だ。
それが少しだけ、安心できた。
「……今日も、変わりはなしか」
返事はない。
この町では、それが普通だった。
湯を沸かし、茶葉を入れる。
強く蒸らさない。
この町の客は、熱すぎるものを嫌う。
最初の客が来たのは、昼前だった。
扉の前で立ち止まり、入るかどうか迷っている。
背は高いが、姿勢が妙に遠慮がちで、鎧はところどころ欠けている。
「……ここ、開いてるか?」
「ええ。座れますよ」
それだけで、彼はほっとしたように肩を落とした。
男は名を名乗らなかった。
この町では、名は急いで出すものじゃない。
湯呑みを差し出すと、彼は両手で受け取った。
「ぬるいな」
「そうですね」
怒るでもなく、褒めるでもなく。
男はしばらく湯気を見つめ、それから小さく笑った。
「……昔は、熱いのしか飲まなかった」
「そうなんですか」
「ああ。急いでたからな」
それきり、男は黙った。
こちらも、何も聞かなかった。
しばらくして、男がぽつりと言う。
「俺は――勇者だった」
その言葉は、誇らしさよりも、疲れを帯びていた。
「世界を救った。魔王も倒した。仲間も生き残った」
そこで言葉が止まる。
「……で、終わりだ」
「終わり、ですか」
「物語としてはな。だが、俺は終われなかった」
男は湯呑みを見つめたまま続ける。
「皆、次の人生に進んだ。王は新しい時代を語り、仲間は家族を持った。俺だけが……役目を終えたまま、立ち尽くした」
茶は、もう冷めかけていた。
「ここに来た理由は、分かりますか」
そう聞くと、男は首を振った。
「気づいたら、この町にいた。剣も、称号も、置いてきたらしい」
「それで、いいと思います」
男は少し驚いた顔をした。
「……いいのか?」
「ここでは、役目は必要ありません」
沈黙が落ちる。
外で風が鳴った。
やがて男は、湯呑みを置いた。
「ぬるめの茶が、ちょうどよかった」
それだけ言って、立ち上がる。
「また、来てもいいか」
「ええ。急がなければ」
男は笑った。
初めて、少しだけ軽い笑いだった。
扉が閉まり、町の静けさが戻る。
私は湯を捨て、新しい茶を用意する。
今日も、誰かの物語は終わらない。
そして、始まりもしない。
それでいい。
境界町では、それが日常だった。
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