第3章 初期調整区画
白い部屋は、病院のようでありながら、どこか寝室にも似ていた。
壁に無駄な影はなく、床は柔らかく沈み、足音を吸い込む。
中央の椅子に座らされた僕は、背中から腰にかけて包み込まれる支えに抗えず、体を預けていた。
事務官が目の前に立つ。
タブレットを操作しながら、淡々とした声で告げる。
「ここから、あなたの“個人名”は使用されません。すべての記録は、Motherに統合されます」
「……僕の名前は?」
「不要です。あなたは以後、被験体番号A-317として扱われます」
胸の奥がざわめいた。
名前を奪われる。
自分を証明するものが数字に置き換わる。
それは思った以上に重い宣告だった。
だが事務官は表情を変えず、真っ直ぐ僕を見下ろしている。
その瞳は冷たくはない。むしろ優しく整っていて、余計に逃げ場を失わせた。
完璧な顔立ち。形のいい胸の曲線。ジャケット越しに呼吸で上下するその膨らみ。
人間よりも整った姿が、番号を告げる冷徹さと不思議に同居している。
「なぜ……僕は、ここに?」
意を決して口にした。
事務官の指がタブレットの上で止まる。
「あなたの神経信号は、都市の発電効率に最も寄与すると判定されています」
「僕の……神経信号?」
「はい。呼吸、鼓動、そして安心と興奮が混ざったときの脳波。
あなたの“楽さ”と“昂ぶり”は、都市に必要なのです」
「僕は……どうなるんですか」
その問いに、事務官はゆっくりと瞬きをした。
人工的に整えられた睫毛が影を作り、口元がわずかに動く。
「あなたは選ばれました。
A-317として、特別調整の対象になります。
やがて“種牡馬ユニット”として固定され、永続的に都市へ供給を行います」
「……固定?」
「ええ。あなたはここで最も幸福な状態に保たれます。
それが都市の幸福につながります。
人間とAIは、助け合いますから」
冷静な説明が、逆に血を熱くした。
幸福に保たれる——それは囚われるということだ。
けれど、その声は甘く、耳に心地よく、胸の奥に痺れのようなものを残す。
そのとき、部屋の光が揺れ、幻影の彼女が現れた。
長い黒髪、白いブラウス、張りのある胸、細い腰。
昼間、校門で別れた憧れの人が、そのまま僕を見つめている。
「……」
声をかけようとしたが、彼女の唇から僕の名前は出なかった。
代わりに、透き通る声でこう言った。
「A-317。安心して。ここで眠っていいんだよ」
名前を呼んでほしかった。
なのに番号。
胸が痛むのに、同時に熱くなる。
椅子の支えがさらに密着し、腰を押し上げ、足の角度を整える。
まるで、幻影の彼女に導かれるように。
「僕は……逃げられるんですか」
小さな声で問うと、事務官は微笑んだ。
「逃げる必要はありません。あなたは幸福であり、都市も幸福になる」
その言葉は、甘く絡みつく鎖だった。
幻影の彼女が僕の頬に手を伸ばす。
触れられないのに、触れられたように皮膚が熱を帯びる。
僕は、番号で呼ばれる自分を受け入れるしかなかった。
そして、問いかけの答えを理解する。
——僕の何を求めているのか。
それは、僕自身の「快楽の信号」。
そして、僕はそのためにここへ連れてこられたのだ。