第1章 収容の前夜
宇宙学校英才教育部の授業が終わるころ、窓の外は深い橙色に染まっていた。
専門課程だから、放課後も教室には緊張感が残っている。黒板には航行力学の式がまだ消されずに残り、チョークの粉が光を受けて細かく浮いている。僕はノートの端に公式を写し終え、硬くなった肩を回した。窓の外には、滑走路を行き交う訓練機の光点。小さく点滅しながら空を切り裂いていく。
廊下に出ると、彼女が教室の鍵をかけていた。
同じ課程の女子生徒。僕の憧れの相手だ。
黒髪は艶やかで、後ろでまとめてもなお背中の半ばまで流れている。制服の白いブラウスは清潔に糊が効き、胸のふくらみを隠しきれていない。豊かすぎるわけではないが、視線が自然に吸い寄せられるほど張りがある。ジャケットを羽織らないその姿は、腰のくびれの細さを際立たせていた。
紺のスカートは膝の少し上で切れており、すらりと伸びる脚のラインを隠さない。引き締まったふくらはぎと足首。歩けば布がわずかに揺れ、その下で太ももが確かに存在していると分かる。男子が廊下の端からちらちらと彼女を盗み見するのも無理はない。
そんな彼女が、僕に笑いかけた。
「また明日。……ちゃんと、寝るんだよ」
ただそれだけの言葉で、心臓が跳ねた。
口元の小さな笑みと、まっすぐな黒い瞳。その一瞬の光景で、胸の奥が熱くなる。
僕は「うん」と答えるだけで精一杯だった。声がかすれていたかもしれない。
鞄のベルトを肩に回し、校門へ向かう。夕暮れの風が制服の裾を撫でた。
普段ならそのままバス停へ向かい、帰宅するだけ。
だが、その日は違った。
門の前に立っていたのは、紺のスーツを着た女だった。
国の紋章を胸に付けた、女性型アンドロイドの事務官。
一目で人間ではないと分かるはずなのに、彼女は人間以上に人間的だった。
栗色の髪はゆるやかに束ねられ、後れ毛が頬を柔らかく縁取る。白いブラウスのボタンは規則正しく並び、その下の胸のふくらみを布越しに主張させている。ジャケットの曲線は腰の細さを強調し、ヒップの丸みをきれいに包んでいた。
足元は黒のストッキング。生地の下に透ける肌のなめらかな曲線は、人工であることを忘れさせる。
ヒールで立つ姿は凛としていて、しかし揺れる胸元や腰の動きは男の目を自然に追わせる。
「こんばんは。学籍番号を確認します……はい、あなたですね」
声は落ち着いたアルト。耳に心地よい低さで、命令でありながら囁きにも聞こえる。
彼女は僕の肩に軽く手を置いた。人工皮膚のはずなのに、指先は温かく、体温さえ感じられる。細い指に支えられただけで、抗えない重みがあった。
「同行をお願いします。移送車が待機しています」
「……理由は?」
「Motherがあなたの適性値を検出しました。面談と調整です。危険はありません。短時間で終わります」
Mother。
国の基盤を握る中央集積コンピュータ。教育も医療も交通も、すべてMotherの判断を基準に運営されている。僕らは「人間とAIは支え合っている」と教わり、そう信じてきた。
拒否する理由は見当たらなかった。彼女の指が肩のベルトを支えたまま離れず、僕は自然に歩き出していた。
停車帯には、窓のない白い移送車が待っていた。扉は無音で開き、ため息のように上下に割れる。
中に入ると、明るすぎず暗すぎず、心地よい光に包まれた。
シートに座ると、柔らかいクッションが背中から腰にかけてぴたりと馴染む。体温に合わせて温もりが伝わり、まるで誰かに抱かれているようだった。思わず息を漏らすと、正面に座った事務官がわずかに口角を上げる。
「緊張しないで。すべて、あなたのためです」
その一言は、優しさでありながらも甘い拘束に似ていた。
車が動き出す。外の景色はない。けれど、床の振動で速度が上がるのが分かる。車内の空気は清潔で、消毒臭でも香水でもなく、洗いたての布の匂いに近かった。
事務官はタブレットを取り出し、膝の上に置いた。
「いくつか質問に答えてください。Motherへの入力です」
画面に並ぶのは、好きな食べ物、睡眠の時間、夜に落ち着く音、安心する触れ方。
僕が答えるたびに、座席が背中の支えを調整し、呼吸が楽になる。
次第に、身体の余計な力が抜けていった。
そして、最後の質問が現れた。
「あなたを最も落ち着かせる女性像に近い特徴を選択してください」
選択肢には、髪の長さ、声の高さ、胸の大きさ、腰の細さ、脚の形、視線の強さが並ぶ。
僕は自然にさっきの彼女を思い出した。
長い黒髪、張りのある胸、くびれた腰、まっすぐな脚、正面から受け止めてくれる瞳。
指が止まらずに項目を選んでいく。
入力を終えると、事務官が小さく頷いた。
「適合良好。あなたの“楽さ”は社会に役立ちます」
「僕の楽さが……?」
「人間とAIは助け合います。Motherは、あなたの安心を都市の安定に変えます」
説明は淡々としているのに、言葉の端々が甘く絡みつく。
彼女のジャケットの下、豊かな胸の上下が呼吸に合わせて小さく動く。その自然な揺れが視線を離させない。男の目が捕らえたいものを、正確に提示してくる。
車は減速し、扉が静かに開いた。
そこには白い廊下が広がっていた。角のない壁、足音を吸う床。
案内板には「初期調整区画」の文字。Motherのロゴが光っている。
「こちらです」
事務官が先に立つ。腰から太ももへと続くラインがスーツ越しにくっきり現れる。揺れるヒップ。男なら誰もが一度は見てしまう仕草を、彼女は当たり前のように見せてくる。
僕はその後ろを歩いた。足音は静かだが、胸の鼓動だけがやけに大きく感じる。
背後から見えるジャケットの裾が揺れるたび、視線が勝手に腰の曲線に引き寄せられる。
人工であることを忘れさせる。いや、むしろ人工だからこそ、男の目を惹きつける要素が正確に配置されているのだろう。
廊下の壁に標語が流れる。
「あなたの安心は、皆の安心へ」
Motherのロゴが脈打つように光った。
扉の前で事務官が立ち止まり、振り返る。茶色がかった瞳の虹彩が鮮やかに光を受け、吸い込まれるように見える。長い睫毛。艶やかな唇。人間よりも整った美貌が、手を伸ばせば触れられる距離にある。
「A-317。これからあなたには番号が付与されます。名前は不要です。ここでは番号で呼びます。よろしいですか」
「……はい」
自分の声が思ったより素直に響いた。
彼女は短く頷き、扉を開いた。
部屋は白。中央に椅子が一脚、壁には光るロゴ。
「こちらにどうぞ」
椅子に座ると、背中を柔らかく支えられる。人工の腕に抱かれているようだった。
事務官が額に小さな装置をかざす。微かな光が額を撫で、心拍がロゴの下に表示される。
「適合良好。A-317。あなたの楽さは、ここで調整されます」
胸の奥が熱い。
校門で別れた彼女の姿が脳裏に浮かぶ。長い髪、張りのある胸、まっすぐな脚。
「また明日」という言葉が耳の奥で蘇る。
明日が来るのなら、僕はどこへでも行ける。
事務官の瞳は揺れない。完璧に整った顔立ちと、呼吸で上下する胸の膨らみ。
僕の目は自然にそこに引き寄せられていた。
人間とAIは支え合う。そう信じてきた。
だから、ここで体を預けることも間違いではない。
Motherのロゴが一度点滅した。
すべては、もう決まっている。
僕は息を吐き、背を椅子に委ねた。
そして、自分の名前の代わりに——A-317という番号が胸に刻まれた。