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 食べ終わったニナだったが、直ぐに粥を吐いた。

 暗いうちから起き出して何時間も水仕事をし、目の前で人が死んで、極限の緊張状態の中で逃げ出して一時間を走り切り、ふらふらになってようやくその生を終わりに出来る歓喜から義兄に見つかるという地獄に突き落とされた後、数年ぶりに口にした熱く多量の食事。


 もうとっくに擦り切れて、か細くなっていた糸がたった今、切れた。

 凄まじい脱力感が怒涛の勢いで襲う。


「ニナ、ニナ」


 亜麻色の乱れた頭は空になった椀を横に、動かなくなった。

 エドヴァルドはハラハラしながら壊れそうな身体を抱きかかえて早朝の街を急ぎ、昨晩泊まった宿へと引き返す。

「これはこれは。お帰りなさいませ、リーベルト男爵」

「おぉ。悪いんだが、出てった部屋、また今から使えるか。それと医者を、誰か叩き起こして連れて来てくれ」

「もちろんでございます。具合が?」

 街一番の宿ジュアス、支配人のゴールドウィンが即座に察して部屋へと案内する。

「ご病気ですか?」

「いや、病気かどうかは」

 熱っぽい気はするが、病気ではなさそうだった。だけどそもそもの健康状態が問題だ。

 あり得ない位に痩せていた。身体の隅から隅まで診てもらった方が良い。

「出来れば女医で、薬師も一緒に頼む」

「かしこまりました。男爵、お嬢様のお着換えなどは必要でしょうか」

「あ~、そうだな、頼む。えーっと、わからんが、これしかないし、もうこの服もいらん。全部、全部だ。数日分を適当に頼めるか」

「直ぐにご用意いたします。どうぞ、こちらへ」


 特等の部屋、ゴールドウィンが掛布を先に取ると、エドヴァルドがベッドへそうっとニナを降ろす。

「ひとまず鍵をどうぞ。では私はまた直ぐに参ります」

「あぁ、ありがとう」

 目を覚まさないニナの下履きを脱がせ、男は顔を顰める。靴の中は血だらけだった。恐らくサイズの合わない、このガバガバの靴で走ったからだ。湯から絞ったタオルで足を拭いてやり、灰色の薄汚れた服の中は一体どうなっているのかと腹立たしさにも似た気持ちを堪え、応接に座って静かに医者を待つ。


 ジュリアンが今の自分を見たら目を丸くするだろう。

「世話されるばっかりのお前が誰かの世話をするなんて!」

 とか言って腹を抱えて笑う様子が目に浮かぶ。


 だがそもそも、エドヴァルドはニナに求婚するつもりで来たのだ。一連の流れは彼にとってごく自然な行為だった。


 二人がまともに話したのは、後にも先にも数年前の屋根裏一度きり。

 それまでは顔を合わせたことはあっても家族がいたし、挨拶の域を超えない当たり障りのない会話だった。その後は直ぐに国を出て転々とし、会うことすらなかった。

 だけどエドヴァルドはニナと過ごした夜を何度も思い出した。

 山の中でひとり朝を待っていた時間も、夜の戦場で飲みながら星を見上げた時も、猫の鳴き声で嬉しそうに笑っていたニナが勝手に頭の中に現れた。何度も何度も。



 帰国後の先日、主人から結婚しろと言われ、真っ先に浮かんだのは義妹だった。

 だけどさすがにもうどこかに嫁いでいてもおかしくはない。確か二十一、二になる。だけど本人は否定していたが、男嫌いと聞いた覚えもある。諦め半分で確かめに来たのだ。昨晩遅くに街まで着き、今朝カヴァニスに赴くつもりであった。それが、まさかのこの事態である。


 ニナはなぜこんな有様になっているのだろう。

 やっぱり、嫁いだ後か? 酷い男に嫁いで、暴力を受けているのかもしれない。

 それか、まさかと思うがどこかの屋敷に奉公に出された?

 使用人として?

 それはないかと頭をガリガリ掻いた。カヴァニスは伯爵家で、一人娘を奉公に出すほど落ちぶれてもいない。がさつな自分や図太い実妹とも違う。ニナは生まれながらのお嬢様だ。




 昼が来て夜が来て、また朝が来てもニナは死んだように眠った。

 その間に医者が来て診察し、看護師が身体を拭いて着替えをさせても、時折エドヴァルドが抱えて水を含ませても、夢うつつに瞳を瞬かせるだけで、起きる様子はない。


「失礼ですが、男爵は彼女の雇い主ですか?」

「いや、違う。妹だ。義理の」

「……いもうと? 使用人や……奴隷ではなく?」

「そうだ、奴隷なんかじゃない」

 信じられない様子の女医が診察後に述べた所見は、まとめれば以下のような内容だった。


 二、三日このままで放置していたら、悪ければ死んでいただろう。


 見たままだが、ひどい栄養失調状態にある。数日や数週間ではなく恐らくはもっと以前からだと思われる。例えば髪や爪、肌はひび割れパサパサだ。切り出してみる訳にはいかないが、骨にまで影響を与えていると見て良い。長らく大変質の悪い食事環境にあると見られる。


 疲労が蓄積している。肌艶と眼下のクマ、慢性的な貧血サインから短時間であれ立ち続けるだけでも相当に辛いと推察される。自力回復できるだけの体力も見込めない。とにかく眠って滋養のある食事を心がけ、効率的に処方箋を投薬し回復を待つしかない。解熱して起き上がれるようになってからでもストレスのない生活をして、自分の咀嚼から栄養の詰まった食事ができるように導く必要がある。


 最後に……相当な虐待が認められる。身体中いたるところに、目を背けたくなるような跡がある。

 恐らくいたぶっている人間は同じ。鞭と火傷、殴打、癖なのかそれぞれ纏まった場所に同じような跡が付いている。火傷の跡から見て、強い嗜虐性のある人間から虐待を受けており、恐らく栄養状態や疲れ具合も同一人物からの虐待の一環ではないか。


「彼女は本当に奴隷ではないのか? 奴隷は違法で、我々には通報する義務がある」


 医者はきつい眼差しでそう言った。


 聞いている途中から、よし、やった奴を殺そうとエドヴァルドは思った。

 例えばニナが酷い嘘つきだったり、盗人だったとしても、それは虐待の理由にはならない。人はみな平等で健康的に生きる権利を持ち、罪に対しては等しく(国が定めた)相応の刑罰を受ける……ジュリアンによる道徳授業で繰り返し言われたことだ。


 たまに『いいかな、こっちはイレギュラー、イレギュラーなんだよ!』と任務で妙な人間の処分を請け負うが、なるほど大体頭がいかれていた。人の皮が部屋に飾ってあったり、目玉や耳のコレクションがあったり、手足のない女や男を飼っていたり……。

 あの変態オークションと何が違うのかまでは、エドヴァルドには難しい面もあるのだが。


 人外な性分の人間というのは確かに一定数存在している。また猛毒や強奪、洗脳などの悪辣な種類のスキル持ちもいて、こればかりはどうしようもない。法の外の存在と言って良かった。牢に入れるか殺してしまうか戦時に重宝するか。全てはガリア家に御しきれるのかどうかにかかっている。御せない相手をするのがエドヴァルドたち私兵の仕事でもあった。

 はるか昔などは放っておけば『魔女狩り』などと民間イベントが勃発した。王家は古くからそういった調整を施してきたのだった。


 仮にニナがねじ曲がっていたら……とエドヴァルドは考えたが、たぶんそれはない。

 呼び集めた猫たちが最後まで去らなかった人間は、本当に少ない。


 手を上げていたのは、ニナが嫁いだ先の男だろうか。

 エドヴァルドは腕を組んで宙を睨む。

 誰だか知らないが、誰でも大丈夫、大体殺れる。

 ガストンだったら手こずるが、十中八九あいつじゃない。あいつは愛妻家。

 ジュリアンか王なら無理だが、違うだろ。


 ニナが起きたら誰がやったのか聞かなくてはならない。


 医師からはひと月は安静にし、熱が下がってもとにかく身体を休ませるよう厳しい指導があった。今無理をすると奇跡的に繋がっている命が消えると言われた。息をすることさえも今のニナには過労になった。


 二日目の夜になっても眠り続ける義妹に薬湯を飲ませ、エドヴァルドはそれからも一歩も宿を出ることなく見守った。翌日から大量の汗をかいてうなされるようになり、おろおろしながらも思いついて赤ん坊を眠らせるリズムで背中を優しく叩いてやった。手を休むと途端に険しい顔になる。色々試して最後は自分も一番リラックスできる方法で、小さく歌いながら叩いた。

 三日目になると、排泄もない様子にいよいよ心配になり、無理矢理起こしてホテルのシェフに作らせた滋養の高いスープを薬と共に胃に流し込んだ。これまた赤ん坊のように片手に抱きかかえ、少しずつ少しずつ飲ませては口を拭く。最初は噴水のように吐いたが、エドヴァルドも次第にコツを掴んで上手く量を調節できるようになった。


 そんな生活が二週間続くと、背中を叩かずともエドヴァルドが側にいればニナはうなされなくなった。米や野菜をすりつぶしたスープを飲ませ終えると腕の中で寝てしまう。ゴールドウィンはその様子を見て『まるで親鳥と雛ですね』と笑っていた。


 三週間目にはたまに目を開けるようになり、固形の食べ物を吐き戻したりしながらもだんだんと受け入れられる身体に戻ってきた。


 エドヴァルドが呼べば少し顔を上げるようになった。

「ニナ、リンゴジュースとオレンジジュースどっちがいい?」

 返事がなくとも何度でも語り掛けた。残念ながらニナには何の要望もなく、声に出して主張するほどのことがなさそうだったが。ベッドに転がって、静かに寝ている時間が一番幸せそうに見えた。

「誰から酷い扱いを受けていたんだ?」

 二度尋ねたが、二度ともニナは呼吸の仕方がわからなくなったようにパニックを起こした。身を固くして呼吸を荒げた後、ベッドから這い出し、扉に向かって逃げようとする。何とか宥めて安心させ、どこにも行かなくて良い、怖い目にはもう合わないと繰り返し言って落ち着かせた。


 結局エドヴァルドはニナの口から聞くことを諦める。思い出させてはダメになる。

 どうせそのうちわかるだろう、と根拠のない結論に至った。


 この辺りの段階でようやく一息ついたエドヴァルドは、カヴァニス家の誰にもニナのことを知らせていなかったことに気が付いた。アッと声を上げて頭を掻く。

「しまったな。伯爵はとんでもなく心配しているだろう」


 エドヴァルドはカヴァニス伯爵に向けて手紙を書いた。

 偶然街で具合を悪くしたニナに会い、ホテルで療養していること。

 どうやら長期間に渡って誰かから激しい暴力を受けていたこと。

 ニナの様子が以前とは全く違い、どうやら死への願望があること。

 一体、婚姻先はどこなのか? 死にたくなるような相手とは離縁させる方が良いと勧め、自分が引き取りたい旨を記載してゴールドウィンに預けた。


 翌日の昼、ゴールドウィンが部屋の扉をノックする。

「男爵、お客様がいらっしゃいました。イリナ・カヴァニス伯爵令嬢です」


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