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 また更に一年が経った。


 その日は突然やってきた。

 いつものように夜明け前からトイレ掃除と風呂場の掃除を終え、洗った灰色の服を手に扉を開けた裸のニナの前に、息の荒いガウン姿の男が立っていた。

 ニナは身を固くし、風呂場へと逆戻る。

 ガウンの男はイリナが近頃よく連れ込んでいる気に入りで、どこぞの男爵家の三男だった。明らかに焦点がおかしく、まだ昨夜の乱交で口にしていた妙な薬が残っている気配がした。

「ランディ! お前、やっぱりな。変な化粧しているけど、本当は美人なんじゃないかって」

 言いながら、紐解いたガウンの下の興奮を見せてくる。



 ニナは疲れ切った心で抗う方法を探したが、どうでもいい気持ちもあった。

 ここで殴られて犯されるのか、殴られずに黙って犯されるのか、叫び声をあげて駆け付けた人々に全裸を見られた挙句に『ランディは男を裸で誘って唆した』と詰られて折檻されるのか。

 どれにしたって最悪に違いない。


 疲れていた。


 黙って犯される方が、朝食への最短コースのような気もした。

 いつの間にか厨房の者たちはニナにゆで卵と焦げたベーコンの切れ端を残しておいてくれるようになった。もうニナは見ていられない程にガリガリに痩せていた。

 頭の中にいつもの朝食が浮かぶ。

 舌なめずりをする男がこちらへと足を踏み出した。それをぼんやりと眺めた。


 ところが、ギラついた目で勢いよくやって来た男は濡れた風呂場で足を滑らせた。

 次の瞬間には、激しい音を立てた男が床に伏していた。

 靄のように、赤い血がタイルに広がっていく。


 静かに広がって行く赤色に、ニナは血の気を失った。


 まずい。

 折檻など生ぬるい。

 これはもう、殺される。


 裸で誘ったですって!? 風呂場でやり倒して、口封じに殺したんでしょう!?


 唇を半開きにして詰られる様子を想像した後で、微かに震えながら灰色の服に着替えた。懸命に髪を拭き、きつく結う。

 それから朝食を終えた皆が朝礼に参加しているのを確認した後、下履きに替えて玄関扉を抜け出す。幸運にも守衛も朝礼に出ているのか、外の守衛室も空だった。

 鍵の場所は幼少の頃から知っている。

 震える手で門扉の鍵を取り、鉄の錠前を開けた。



 ニナは屋敷を飛び出した。




 ◆


 走って、走って、走った。

 朝日が射す一本道を走り、途中から早めに横道へと逸れ、馬車が通れない小径を駆けた。

 息は上がっていたけれど、空腹でも穴の開いた靴でも、毎日の掃除でついた体力で思っていた以上に脚が動いてくれる。


 死体が見つかったら、気が付いたイリナかブレンダがきっと追手を寄越すだろう。

 見つかる前に大きな街へ出て紛れてしまえば。


 ニナはだが、あまり先のことまで考えてはいなかった。

 考えるような余裕は何ひとつ持っていなかった。はっきりと死を前にして、ブレンダの巣から抜け出した。折檻よりも逼迫した死の恐怖が勝った本能的な行動だった。

 街を出ても身ひとつだったし、行く当てもない。もう知り合いにだって何年も会っていない。大好きだった母方の祖母も死に、親戚と言えばルーファスを見限った侯爵である叔父がいるだけだ。


 土埃をあげて、小径から見下ろせる国道を馬車や馬が時折走って行く。

 息せき切って走っている人間は自分くらい。


 白黒の世界で、朝日の白が黒い葉を楽し気に揺らしている。

 生きていても、良いことなんてなかった。

 ただ、あの家で痛くて辛い思いをして終わるんじゃなくて、最後にちょっとだけ良いことがあってから自分で終わりにしたかった。


 それは、例えば好きなだけ眠ったりとか。

 好きなだけぼうっとしたりとか。

 一日で良い。休みたい。


 それだけで十分だった。

 自分で自分を大事にしてあげてから終わりたかった。



 一時間程走った後で、足先のまめがたくさん潰れてぬめり、走れなくなった。走るのを止めた途端、滝のような汗が噴き出てくる。拭う布切れ一枚もない。

 自由になっても儘ならない。

 だけどひたすらに街を目指して引きずる足を動かした。

 見覚えのある民家が増えだして、街が近いことに気が付き、国道へと再び降りる。


 しばらく歩いていると、どこからか声がした。


「ニナ?」


 ニナはため息を吐いた。

 ああ、もう見つかった。呆気ない。

 のろのろと立ち止まり、声のした方へ首を動かす。


「やっぱりニナだな?」

「………」


 エドヴァルドは馬上から義理の妹を見下ろした。

「何してるんだ? どうした、その恰好」

 選りによってリーベルトの人間に見つかってしまった。

 ニナは咄嗟に街に向かう言い訳を口にしようとしたが、言葉は出てこない。もう長らく話していなかった。言葉の紡ぎ方を忘れてしまっていた。

「………」

 エドヴァルドは眉を顰める。

 何の飾りも無い、冗談でも綺麗とは言い難い色褪せた灰色の服と白い親指が覗く靴、乱れた髪、びしょびしょの汗。化粧っ気ひとつない様子は尋常ではない。


 最初にすれ違って素通りしたが、その人間離れした動体視力が確実にニナを捕らえた。

 見たことがある、いや、あれは……ニナじゃないか。

 そう思って直ぐに引き返し、呼びかけたニナは見る間に顔面が蒼白になった。

 エドヴァルドの勘が言う。彼でなくとも思っただろう。

 これで何もない方がおかしい。

「朝早くに供も付けず、そんな……無防備な恰好でうろつくのは良くない。街に用事があるのか?」


 ニナは視線を彷徨わせた。

 義兄とはあの屋根裏以来、数年ぶりになる。ずっと帰ってこなかったのに。間が悪いにも程があった。


 どうしたらまた一人になれる?

 だけどもう長く言葉を発しておらず、言葉の代わりに出るのは汗ばかりである。

 エドヴァルドは義理の妹の顔をじっと見つめた。

「ニナ、街に何か用があってきたのか?」

「………」


 全く帰る気配がない。ニナは取り合えず頷き返しながら、何とか離れたい一心で考えた。

 やっと終われるのだ。早くちょっと休んで、全部終わりにしなければ、間に合わなくなる。


 対して、エドヴァルドは観察の末に膨大な疑問が湧きおこっていた。

 目の前の女は手ぶらだった。伯爵令嬢が奇妙なくらいに粗末な服を着て、何か用があるのに恐らく金さえ持っていない。ツケで支払うこともあるだろうが、それにしたって籠や袋の一枚も持っていない。大量の汗は屋敷からここまで足を使って来たことを指している気がする。男の足でも一時間以上かかるはずだったが。いや、しかし屋敷から来たのかはわからない。


 虚ろな目、唇は渇いて白く薄皮が浮き、黒いクマ、乱れた亜麻色の髪には艶もなく、縮れた白い髪が目立つ。爪先は黄色く黒く硬そうで、手指は明らかに使い込まれたそれだった。

 道端に蹲れば物乞いの女が出来上がる。自分の記憶の中のそれとはあまりに違う、衝撃的な姿だった。


「ニナ」

 掠れたような声で呼びかけた義兄は、頼みもしないのに馬から降りた。

「朝飯は?」

 どうやって逃げようかと考えているニナは、小さく首を振る。走って逃げて、人ごみに紛れるのが最も手っ取り早そうだったが、馬が気になる。街の手前までなら直ぐに追いつかれて屋敷まで連れ戻されてしまう。逃げるのであれば街中に入ってからの方が良さそうに思うが、そもそも街中へ入る前に捕まるのではないか……。

「じゃあ、食いに行こう」

「………」

 エドヴァルドは街の方へ顔を傾けて促した。ニナは相変わらず焦点の合わないような瞳で見るともなしにじっとしている。

 少し躊躇ったが、エドヴァルドはニナの手を取った。

「行こう、喉も乾いただろ……あ、そうだ、水はある。ほら」

 手が離されると馬に積んだ荷物の一つからぶら下がっている水筒がニナの方に突き出された。それでも反応なくじっとして動かない。焦れたエドヴァルドがキャップを回して口元にあてた。

「良いから、とにかく飲め」

 唇に水があたり、喉の渇きを思い出してニナは口を開ける。

 大きな音を立てて喉に水が入った。

「……はぁ」

 思っていたよりもずっと乾いていた。沁みる。だけど三口ほど飲んで水筒を返した。口の端から溢れた水を伸びてきた手が拭き取る。

「もっと飲め」

「………」

「汗をかき過ぎてる。昼間は暑いし、脱水するぞ」

 返した水筒が戻り、真剣な目でじーっと見られてまた水を飲んだ。

「その水筒はやるから持ってろ。肩から下げて」

「………」

 言われるがまま、されるがまま紐を肩から斜めにかけられ、少し重たい水筒を下げる。エドヴァルドは触った身体のあまりの薄さに冷や汗が出た。

「俺が言わなくても、喉がまた乾いたら飲むんだ。いいな?」

「………」

 男はダラダラと垂れる汗を拭いてやる。よく見ると背中はすっかり汗で灰色から黒に変色していた。一体どれくらい走ったのだ。


 うんともすんとも言わない無反応な様子に困惑しつつ、再びエドヴァルドはニナの手を取り歩き出した。聞きたいことが数多あったが、焦ると碌なことは無い。ジュリアンは昔よく『お前は馬鹿だから焦ると負ける』と言った。何よりニナは怯えている。

 あの夜はあんなに笑っていたのに。

 だけど皆が自分を恐れるのは百も承知なので、久しぶりの再会がそうさせているのかもしれないと思い、残念さ諸共グッと腹に収めた。

「何が食べたい?」

 暫く歩くと街に着いた。朝の出勤で国道から流れ込んだ人々が忙しなく二人を追い越していく。


 もちろんニナは逃げることしか考えていないので返事をしない。

 沈黙があって、結局エドヴァルドは朝市エリアにある露天の飲食店街へと向かった。外で食べる方がニナも怖くないだろうと配慮した。

 街の入り口で馬を預け、手を引いて迷わず進んでいく。飲食店街へと近づくとそこら中に良い香りが立ち込めていた。


「ニナ、どれなら食べる?」

 食が細かった記憶を呼び起こした男が尋ねるが、逃走路の確保に忙しいニナはキョロキョロと目をやり、沢山の経路から人の出入りが多い道に当たりを付ける。

「アレなら良いか」

 エドヴァルドは粥の店を選んで並んだ。痩せ切った身体に朝から肉こってりの食事は逆効果な気がしたのだ。

「鶏の粥と……海老の粥を。あと、その小鉢を三種類くれ」

 注文し、店主が金額を告げる。エドヴァルドはニナを掴んでいた手を離してポケットから紙幣を取り出そうとした。その時。

「ニナ!」

 パッと駆け出したニナに気が付いて殆ど同時に手を伸ばす。


 ニナは一瞬で再び捕まってしまった。表情に変化は無かったが、エドヴァルドが掴みなおしたその腕に力が入っているのがわかる。


「………」

「あ~……腹が減ってなかったか?」


 内心で逃げたな、と思ったが、深追いせずに片手で全てを済ませて端っこのベンチへ促した。先に座らせて、隣に腰を下ろすとニナの向こう側まで手を伸ばして座面に手をつく。囲われた亜麻色の頭が一瞬ぴく、と動いた。

「ニナ、別に取って食いはしない。腹が減ってるだろ? さっきから鳴ってる」

 良い香りがしてきた頃から少しずつ鳴っている細い身体の悲鳴がエドヴァルドの耳にはしっかり届いていた。腹が鳴るのは良い。この搔き消えそうな身体に鳴らせるだけの力がまだあるなら。


「はい、おまちどうさま!」


 湯気の立つほかほかの粥と三種のトッピング小鉢が目の前に並んだ。

 ニナに鶏を置き、食べられるか尋ねたが、やはり返事はない。エドヴァルドは片肘をついて妹を覗き込む。これだけ腹が鳴っているのに、食べない理由がわからなかった。


 一方のニナは億劫でしかない。

 もうすぐ全てを終えることができるのに、今更に食事など要らなかった。

 一刻も早く疲れた身体に休みが欲しい。だがそれすらも叶わない。手が離れた瞬間に最後の瞬発力で飛び出したが、ものの見事に無様に捕まってしまった。

 本当に最後までついていない。世界中の悪運を寄せ集めたような人生だった。


「口、開けろ?」


 とんとん、と背中を指でつつかれて差し出された匙に気が付いた。

 ぼんやりしたニナの口元に、焦れて回り込んだ太い指が下唇を摘まむ。

「ちょっとだけ、開けてみ。旨いから。お前はなんて言うか……絶対、食べた方が良い」

「………ぁ」

 指が歯列を割って、ニナの口をこじ開けた。

 ふー、と吹いて冷まされた粥がそろりと口内に運ばれる。

「熱いから、気を付けろ」

 口の中まで息を吹きかけながら匙が傾けられて、ニナの舌にとろっとした温かい味が広がる。


 どばっと分泌された涎が一目散に粥を包み、ニナは気づけば口を閉じて飲み込んでいた。あまりの熱さに生理的な涙が浮かぶ。

「ちゃんと噛んだか? 熱いだろ、ゆーっくり」

 またふぅふぅと湯気の立つ匙をゆっくり運んできた義兄が小さく震える口を開けた妹に食事をさせる。

「ちゃんと噛んでから飲み込め。腹を下す……持って食べるか?」

 黙って匙を受け取って、ニナは自分で冷ましながら、やがて無我夢中で食べた。


 温かい粥、出来立ての食事。実にこの隣に座るエドヴァルドと食事をしたあの晩以来の温度だった。


 美味しいとか、温かいとか、ニナは何も考えられなかった。

 ただ必死で熱いものを急いで食べた。

 なぜそんなに急いだのかはわからない。


「うまい……?」


 エドヴァルドがその様子を見ながら眉間に深く皺を寄せる。尋ねたって返事はないし、明らかに惨めなほど夢中で食べていた。無表情で何か取り憑かれたような顔で、だけどニナは泣いていた。涙と鼻水を時々拭いてやりながら、エドヴァルドは粥で腹がくちていく義妹を見守った。


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