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 更に二年の月日が経った。


 ニナは毎日黙々と水仕事をし、粗末な食事を食べて灰色の服で過ごした。

 一年も経てば誰も密告する所が無いほど真面目に細かく仕事をして、いつの間にかブレンダが許していないのに他の使用人から話しかけられ始めた。放置していると男でも女でもニナの近くに寄って行こうとする。


 またぞろ誑かして、今度は使用人たちの中でちやほやされようとしているのね。


 学院時代を思い出してイリナは面白くない。二年目になると侍女として呼びつけるようになり、ニナは下級使用人と専属侍女との役割を担うようになった。


「足が疲れたの。マッサージしてちょうだい」


 マティアスとの婚約関係はイリナが十八になっても進まず、本人から『卒業するまで待って欲しい』と留め置かれている。大学部に進んだマティアスには数人のガールフレンドがいて、イリナはそこにすら交じらせて貰えなかった。三月に一度くらい短い逢瀬をして、不機嫌な顔で帰って来る。


「また今日もマティアス様と上手く話せなかったわ。もうずっと私のこと、子どもだと思って……! それにどうしてあんたのこと毎回聞いてくるのかしら!? ねぇ、まさか手紙のやりとりとか隠れてしていないでしょうね!?」

 マティアスはただ話題が無く『療養中の祖母が心配で退学と転居をした』ニナの安否を問うているだけだったが、イリナにはわからない。二年が経っても度々ニナを詰った。

 ただ首を振って返事をする。

 手紙を書く便箋もペンもない。

 たまに隠れて食べさせてくれたり、薬を都合してくれていた父は、いつの間にか殆ど屋敷に帰って来なくなった。どうも外で労働を割り当てられているらしい。

 ニナの手元には十三枚の最小貨幣のコインがあるだけだ。馬車にも乗れない。


 ブレンダはいなくなった夫のことなど露ほども気にしていない。宝石を纏い、美食を極め、小さな秘密の社交クラブを開催してはルーファスのような奴隷を生み出して遊んでいた。いつしか近隣の下位貴族たちはカヴァニスを『沼』と呼び、興味本位で近づいては腑抜けにされて絡めとられると噂した。ブレンダを前にすると恐怖から嘘が吐けない人々は尋ねられるままに秘密を口にし、弱みを握られ操り人形になってしまう。


 だがブレンダは決して高位貴族には手を出さなかった。機が熟すのを待っている。

 きっとイリナがクロイド伯爵家に嫁げば自然にその道が開かれる。

 イリナの子は信じられない位に可愛いだろう。さすれば侯爵や公爵……王妃に請われてもおかしくはない。その日の為に少しずつ足場を固めているところである。


 時折、遊びがつまらなかった時や何か自分の思い通りにならなかった日には昼間でも夜中でも場所を選ばずニナを呼びつけた。そのたび頬を叩かれ、髪を振り回された。

 それでも足りない日には鞭で背中を打たれたり、冬には火であぶった火かき棒を押し付けられる。

「お前は魔女だから、こうして印をつけておかないとなぁ」

 絶叫を聞きながら、巨体を揺らして笑った。


 気が付けばブレンダにとって、ニナは手放せない人形になっていた。

 きっかけは娘のイリナだったが、暴力を重ねるごとにブレンダ本人がニナに執着するようなっていた。じっと顔を見られるだけで底知れぬ苛立ちが湧き、自分の思い通りにしたくなる。だけどいくら貶めようが穢れない。それが酷く癪に障った。哀れなほどに泣いて喚いて縋り、気絶と失禁を繰り返すなど見せれば胸もすくだろうに。大体が静かに涙は流すものの、黙って気絶するまで耐えた。期待と真反対の気質は折れることが無い。

 ブレンダが本気を出せば誰でも二、三度で心と頭をかき混ぜられて気がふれたり自死を選ぶのだが、どういうわけかニナはそうならなかった。

 だから叩いて、叩いて、悲鳴を待ち、嬲って目が死んだようになるのを見届ける。それでようやく気分が晴れた。

 毎回壊し甲斐のある玩具。それが女にとってのニナである。


「イリナ、ニナはどこだい……あぁ、ここにいたのか」

「なぁに? 足のマッサージをさせているところよ」

「そう言えば、マティアス様はどうだった」

「………いつもと同じよ」

「そうか。婚姻までお前を大切にしてくださる気なんだね」

「さぁ、どうだか」


 近頃のイリナは少しずつマティアスへの興味が削がれていた。妄執と言って良かった婚約者への気持ちが無条件に長続きするには、イリナはまだ若すぎた。一ミリも自分を大事にしてくれない相手を待つのはエネルギーがいる。

 いつだってイリナは婚約者の気を惹く為に努力してきた。身体が大人になってからはより一層。デコルテと自慢の谷間を強調する服を着て、甘えた声で媚び、いつでも愛を精一杯に表現してきた。


 母に群がる男たちは誘ってもいないのにイリナの元へやって来て気持ちいいことをしていくのに、マティアスは全く乗って来なかった。

 長年続く片想いにも老いる時が来る。


「ねぇ、お母様。クロイド家以外に素敵な男性はいないのかしら」

「マティアス様じゃなくて良いのかい?」

「だって、もっと楽しく暮らしたいの……辛いわ」

「おお、イリナ……」

 一人掛けのソファで足を放り投げ、ふんぞりかえって涙ぐむ娘を抱き、ブレンダは悲しむ。

「しかし、婚約を破棄するとなれば、もう少し強い理由がいる。マティアス様から破棄して貰えれば話は早いが、御父上のクロイド伯爵様はのんびり構えて下さっているだけでイリナを嫁に迎えることを楽しみにして下さっているのだよ」

 正確に言えば楽しみにされているのは持参金ならぬ山の採掘権であったが。


「もう良いわ。気長に待ちます」

「お前は本当に我慢強い、いい娘だねぇ……ニナ、わかるかい? お前もこうあらねばならないんだよ」

 小さく頷く。

 艶やかな手入れの行き届いた脚をオイルでマッサージし、母娘の会話を聞くとはなしに耳に入れ、淡々と頷く。

「あ、そうだ。今度開く社交クラブに若くて話しやすい男を増やしておこう。気晴らしに少し遊ぶと良い」

「本当に? ありがとう、お母様! ドレスを新調しようかしら」

「羽目を外し過ぎてはいけないよ。子どもが出来たりしたら大変だからね」

「あらいやだ、お母様ったら。分かっていますわ、ふふふ」

「ニナ、その社交クラブの準備で注文に行ってきな。焼き菓子とケーキだよ。デクスターに金と注文書を用意するように言ってある。一緒に行ってきな」

 言われるがまま、頭を下げて急いで部屋を出た。


 ◆


 カヴァニス家で小さな秘密の社交クラブが開かれる。

 庭園やホールで音楽が鳴り響き、おかしな甘ったるい香りが充満すると、そこかしこで爛れた男女の睦み合いが始まる。

 使用人たちはうんざりしながらも酔っぱらいの介抱や吐しゃ物の掃除、ぐちゃぐちゃになったシーツの交換に駆けずり回り、苛立ちながらも厨房で余った残り物を盗み食いして仕事に追われた。


 ニナは立ち尽くして、イリナの部屋で二人の男との行為を見ていた。

 イリナはそうやってニナに見せるのが癖になっていた。

 こんなものを見せられるなら会場を掃除しているほうがマシなのに。


 三人は煙のようなものを吸っては絡み合い、身体中をぬめった液体でどろどろにして舐め合って、イリナは何度も声を上げ恍惚とする。あのぬるついた液体は後で洗濯するのが大変なのに。自分を見ろとイリナが叫ぶ。赤黒いそれらに吐き気を堪えて目をやるしかない。


 いつの間にか、またニナはニナを見ている。


 大丈夫よ、見るくらい。痛くもない。なんてことない。

 そうだ、色味を抜いて、白と黒だけにしてみればどう?

 気持ち悪さも半減するわ。ね、どう?


 ニナは長い睫毛を何度もパチパチと瞬いた。

 白黒の世界はいくらか楽な気がした。


「ニナ! ちゃんと見なさいよ。あんたは一生経験できないだろうから、見て満足するしかないのよ! ふふっ、はははははは」


 大丈夫、そのうち疲れて終わるから。

 前もそうだったじゃない。永遠になんて続かない。

 いつか終わる。

 きっと、全部終わる。

 あ、ほらまた、あの猫の鳴き声、思い出すのはどう?


「イリナちゃん、そのニナって子も交ぜるのはどう? 可愛いじゃないか、四人でしよう」

 男のひとりが提案した。

「良いな、それ。やろうぜ」


 ニナは焦点の合わない目でじっとしていた。

 イリナは笑い飛ばす。

「馬鹿ね、そんなことの為にアレを呼んでるんじゃないわよ。こんなご褒美やる訳ない! あの男好きにお仕置きとして気持ちいい所を見せつけてやっているだけなんだから。やりたくてもやれないのよ、辛いわ。いい気味! ふふふふふっ」

「うわ、ひどいな」

「なんでそんな? 何か悪いことしちゃったの? ニナちゃん」

「だって私の婚約者を横取りしようとしたのよ」

「あ~、それはダメだな!」

「それで、ニナ…あ、違うイリナちゃんは」

「ああんっ、ニナなんて呼ばないでちょうだい! 一気に冷めた!」

「悪かったよ、似た名前だからつい……ごめんて、ほら」



 翌日、イリナが不機嫌に言い放った。

「お母様、ニナの名前を変えてちょうだいよ」

「名前?」

「昨晩、名前が似てるって、間違えられたの。最悪だった。あの子が物欲しそうな顔で見ているから、ボーイフレンドの子たちが気にしちゃって」

「名前ねぇ。イリナって名の方がずっと気品があって素晴らしいよ?」

「だって似てるんだもの。それに侍女と似てるって恥ずかしいわ」

「そういうもんかね」


『名前が似ている罪』で蹴られ、腹を押さえながら床に転がっているニナを前に、イリナがブレンダにねだり、結局可愛い娘の我儘が押し切られることになる。


 ニナは戸籍の名を『ランディ』に変えられた。


 イリナは気に入って『ランディ』を大声で呼びつけ、わざわざ青みがかった口紅と滑稽なほど赤いチークをランディに塗る。おかしな色の服を着せて街中を連れ回し、奇妙な侍女は通りすがりの人間にまでひそひそと笑われた。人気ショップでは若い令嬢たちに囲まれて大笑いされる。



 学院も卒業できず、生活を一変され、外界との連絡を遮断され、閉ざされた屋敷で肉体的、精神的に辛い仕事と飢え、貧しい食事。激しい折檻、父と母が付けてくれた大事な名前を取られ、遂には知らない人々から嘲笑される辱めを味わう。


 色が死んだ白と黒の世界で、ニナは人形になった。


 もうニナを見るニナもいない。

 ニナの心は空っぽになった。


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