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 まだ暗いうちから、使用人仲間がニナを揺さぶる。

 ささいな揺れでも軋むベッドで目を開けて、疲れの残る身体を無理やり起こすと壁にかかった灰色の洋服に袖を通した。

 メイド長室に挨拶に向かう

「おはよう、ニナ」

「おはようございます」

「午前中はいつもと同じで」

「かしこまりました」


 タイルに水を撒き、洗剤をスプーンで振りかけたら排水溝に向かってブラシで擦る。

 ザシュ、ザシュ、と泡立つ床を滑る音だけが繰り返し響く。

 男性用のトイレをたわしで磨き、水を撒いて乾いたタオルで拭き上げる。女性用のトイレも同様の手順で清めた。

 各階の使用人用のトイレと住人貴族用のトイレを順に回って進める。

 朝食時間までに四つの持ち場が終わると、次は使用人用の簡素だが広い風呂場の掃除が始まる。

 トイレ掃除後に、ニナ自身とついでに風呂場を掃除して、それからやっと食堂に足を踏み入れることを許可される。


 朝までに着た服も風呂場で洗い、また別の灰色の服を着る。誰もいない食堂に座り、屋敷中の朝食が済んだ後の残り物を食べた。

 籠に残ったトーストは冷えて硬くなり、ゆでたまごはたまに有るかどうか。スープの具は浮いたカスだけで、例えばフルーツやベーコン等の肉類が有ったのか無かったのかは後から聞いて知るくらい。


 千切ったトーストを口に放り込み、腹に入れる。

 スープ皿の色の付いた水をゆっくり飲み干したら、厨房へ持って行き食器を自分で洗った。

「ごちそうさまでした」

 気まずそうに目も合わせないコックや見習いたちに挨拶をして、ニナは一度使用人として与えられた自室に向かう。次は十時からの店の開店に合わせて買い出しに行くのだ。


 買い出しには行きたくない。

 床掃除をしている方が良い。

 自分のベッドに腰かけて、クマの深く入った瞳で窓の外を何とは無しに眺める。


 学院に行かなくなって、三か月が経った。

 イリナから自分はもう退学になっていると聞いた。

 あれから毎日メイド長に掃除を習い、いわゆる下級使用人として皆が嫌がる水仕事ばかりが与えられた。

 トイレ掃除じゃなければ洗濯、手が空けば皿洗い、夜には風呂の湯運び。

 メイド長以外の人間は誰も口をきいてくれない。ひとり黙々と身体を動かした。


 最初の三日で熱を出した。

 熱い息を吐きながら、気を失うようにベッドで寝ていた午前、仕事をサボったと報告を受けたブレンダがやってきて、頬を打たれた。

 肉厚の手は容赦なく往復する。

 頬が腫れ上がるまで続けた後で、トイレを掃除するように言われた。

 ニナは泣きながらブラシを持った。


 かつてのカヴァニス家と違い、ブレンダが取り仕切る屋敷の使用人たちに横の繋がりは無い。仲間を売る類の告げ口は歓迎され、主人から手当てが貰えた。ただし虚偽が分かれば鞭うたれるが。そういう意味でニナは恰好の的となった。だって、誰も虚偽だと証言しない。

 告げ口の度に嬉々として巨体を揺らした女がやってきて、雑巾みたいになるまで打たれた。

 場合によっては凄まじく怒っている時もあり、条件反射のように恐怖で失禁するのが癖になった。腫れた頬で自分の粗相を始末する。


 この世は地獄だ、と思うようになった。

 経験したことのない痛みの先には何もない。

 屋敷を出て行くことも考えるが、父娘は互いを人質に取られて身動きが出来なかった。その為二人は会話も禁止されている。だが何よりもブレンダの言いつけを破るのが怖かった。どうしてかわからないが、言いつけは絶対だった。


 別の地獄も知った。

 買い出しにいくと否応なしに食べ物が目に入る。高級な食材から、普段口にしていたお菓子まで。伯爵令嬢だったニナは、その全ての味を知っていた。

 給金を貰えないニナは、皆がその菓子などを買って味わっている様子を少し離れた場所から見るしかできない。

 たまに父がこっそりと金を都合してくれたのだが、あかぎれの薬を買っていただけでも告げ口をされて頬を張られた。その後は金を巻き上げられたので、もう何かを買う気にはなれない。だが満足な食事が出来ず、早朝から夜まで働いた身体で見る甘い菓子は何度も何度も心を折った。

 最初から知らなかった方がどんなにかマシだっただろうと想像する。

 二度と戻らないかつての贅沢に触れることが、とにかく惨めだった。


 身体の地獄と心の地獄は一体どちらが辛いのか。


 始めのひと月は涙が止まらなかった。

 ベッドの中で丸まり、声を殺して泣いた。

 けれど三か月も経てば、もう涙は乾いて出ない。


 伯爵令嬢だったニナは少しずつ、掃除する人形になった。

 窓の外を見るうち、カクンカクンと船を漕ぎだしたお掃除人形は、ひと時の休息時間に入る。



 ◆


 使用人としての生活が十か月を超え日常となった頃、ニナはメイド長室に呼ばれた。

「お呼びでしょうか」

「ええ、ニナ。今晩からあなたは自室に戻りなさい」

「自室、とは……?」

「客間五番のことです」

「!」

 それはかつてニナが令嬢だった頃に使用していた『自室』であった。

 急にどうしたのだろう!? 誤解が解けて……。


「ああ、誤解するんじゃないよ。明日からエドヴァルド様がお帰りなるからだ」

 喜びに傾きかけた気持ちが急速に萎んでいく。

「お前は自室に置いてある服を着て、夕食に参加し、一泊してエドヴァルド様の出発をお見送りする。その後はいつもの仕事に戻るんだ。お見送りの後で指示を出すからここに来るように」

「かしこまりました」


 その夜、長年過ごした自室に戻ったニナは久しぶりに泣いた。

 家具も壁紙すらも、もうあの頃に自分が気に入っていたものではなかったけれど、見覚えのある天井の模様や、揺れるランプ、窓からの景色が……久しく忘れていた小さなひとつひとつが、エルサがまだ生きていた最も幸せだった頃の記憶を呼び起こした。

 ふかふかのベッドも暖かな掛布も素晴らしかったが、あまりに感じ入るとまた後が辛くなる。

 涙の後はいつも通りに身体を丸め、ベッドの端で眠った。



「おかえり」

「おかえりなさい、兄さま」

「久しぶりだね、男爵」

「世話になります」

 義理の父と息子に大した面識もない。再婚時から既にエドヴァルドは騎士団幹部に就いていて気安い要素もなく、互いに他人の感覚に近い。

 両親と妹二人、使用人たちが出迎えた午前、帰宅した長男は大きな馬から降りる。男は巨体のブレンダより更に大きく厳つい。眦は鋭利で、切創のある割れた耳や全身に残る傷が見るものを圧倒する。騎士ならば盛装用にとある程度の長さが求められる黒髪もいつも適当に短くて、規律から外れても許されるような存在であることを物語っていた。

「おかえりなさいませ、お兄様」

「お前、ニナか?」

「はい」

 兄はまじまじと久しぶりの義妹を見た。

「あの、何か」

 ドレスの着用は十か月以上ぶりだった。どこかおかしかっただろうかと不安が襲う。

「何か病気をしたのか?」

「いえ、病気はしておりません」

「エドヴァルド、ニナも年頃なんだ、そうジロジロと見るんじゃないよ」

 ブレンダが横入りした言葉で一度口を閉じ、そうかと兄は屋敷の中へと入って行く。見送った後でブレンダがニナを振り返った。

「いいかい、余計なことを言うんじゃないよ。あいつは馬鹿だが敏い。早く帰らせるから、それまでは得意な嘘を吐き続けるんだ。お前もだよ、ルーファス」

「わかっております」

「……かしこまりました」

「良かったわね、ニナ! 今日は素敵なドレスとまともなお食事が頂けて」

 母親に絡まるイリナがニコニコとかつての姉を見る。

 二人が先に屋敷に入った後、ルーファスが娘を見る。普段から会話ができず、父の隣に立つのも数か月振りであった。

「痩せたなぁ、ニナ……」

「お父様こそ」

 見る間にルーファスの目が赤くなる。

 こうして以前と同じようなデイドレスを着ていると、あまりの娘の変わりようがまざまざと胸に迫った。自分はどういうわけで娘にこのような苦行を強いているのか。当主である筈なのに実子一人のことすら儘ならない。

「なにか、欲しいものはないか…ポケットに隠せるような小さなもので」

「大丈夫です。そんなことをすれば、またお父様も折檻されます」

 ぱさぱさの髪、乾いた肌、艶のない指先。いくら化粧をしても誤魔化せない疲れが十八の娘の有り様だった。こんなことで良い訳がない。良い訳がないのだが、数か月に及ぶ娘の虐待を未だ止めることが出来ない。

 何度もブレンダに嘆願するのだが、すぐに心臓を掴まれたみたいになって恐怖で声が出なくなった。情けないことに、男の自分がその後であの巨体に殴られる。

 殴られても娘が不憫で頻繁に嘆願を続けたのだが、最近では恐怖を超えて心臓が苦しくなる日もあり、だんだんと間遠になった。ブレンダが奪い取った領主としての仕事はルーファスの執るそれと雲泥の差があり、その実力は火を見るよりも明らかで、プライドなど既に粉々だ。加えて数か月に及ぶ暴力と恐怖が父親としての最後の芯まで折ろうとしている。

 ルーファスはフラフラと女の元に逃げ込んでは安寧に浸り、後ろめたい思いを抱えて深夜に帰宅する。床を這う娘から目を背けるようになってしまっていた。


 だけど辛く、苦しく、恐ろしい。

 娘だって愛している。捨てることなど出来ない。

 なぜ、こんなことになってしまったのだろう。


 人形のように笑わなくなった娘の後ろ姿を見送りながら、死ぬことすらも許されない境遇では気がふれたほうが余程マシだと思った。


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