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 己の可愛さ故に、自身を不幸に貶める時がある。


 可哀想、は時に多くの味方を生む。

 イリナは小さな頃からそれを知っていた。


 母は自分を目に入れても痛くないほど愛してくれていたし、その無条件の愛を疑ったことも無い。

 だけど母が自分以外に見せる恐ろしい顔も知っている。

 まだ十三だった兄がリーベルトの屋敷にいた頃、母と兄はそれは凄まじい喧嘩をした。二人の勢いは苛烈で爆発的で、とてもじゃないがその場にすらいられない。

 八つ年上の兄は身体が大きくて目つきが悪く、刃のような犬歯で食われそうな威圧感があった。あまり喋ってくれないし、身近に感じたことがない。ほとんど他人に近かった。彼の方もそうだろう。

 イリナは二人の喧嘩が始まれば、一目散に部屋に閉じこもり、怖くて大声で泣いた。

 そうすれば屋敷の使用人たちは決まって心配して自分の部屋を訪れる。

「お嬢様、大丈夫ですか」

「きっともうすぐ終わります」

「お菓子はいかがですか、お嬢様の好きなマドレーヌです」

「お外に散歩などいかがですか」

 普段は母だけに盲目的な使用人たちだって、泣いて可哀想な娘の日にはイリナを心配してくれる。


 ああ、今この人たちは私のものなんだわ。

 イリナは同情を引いて味方を手にする方法を会得した。わずかに六歳の頃である。



 まるで姉とマティアスの秘密の逢瀬を目撃したようなその日から、イリナは無断で高等部との垣根を越えて二人を探すようになった。

 マティアスは嬉しそうに婚約者の姉を見つけては近寄る腹積もりになっていたから、二人を見つけるのは容易かった。


「ねぇ、どうして君の御父上は僕の婚約者を君にして下さらなかったんだい? やっぱり君のことだから、もっと格上の家からアプローチがあるのかな?」

 想定外のニナは内心で『ある訳がない』とぼやきながら顔を曇らせる。

 両親の間にはひとつまみの愛もないし、他所に女がいる父は家ではすっかり後妻の言いなりだ。時々ブレンダに殴られているのも目撃して知っている。だから父の連れ子である自分がクロイド家より格上に嫁ぐなどある訳がない……などと明け透けに言おうものなら妹の婚約自体が破談になってしまうだろう。

 でも『そんなものはない』と言えば気を惹く意味にも捉えかねない。

 だからニナは口を噤むしかなくなる。

 その結果、憂いを帯びてしまう表情をマティアスは都合よく解釈する。



 そしてまた、寄り添い合う姉と婚約者を遠目に見る義妹も都合よく解釈した。

 ああ、ほら! やっぱりあの二人は私を裏切るつもりなのよ。


 見かけるたびに二人の様子を可愛らしいメモ帳に事細かに書きとめ、また学院の様々な友人たちから親し気に声をかけられる姉を見ては奥歯を噛んだ。あそこにいるべきなのは自分だったし、姉が色んな人間に囲まれるのを見るのは不快だった。あんな場所に野放しにしておくべきではない。



 そうして準備の整ったある日曜の夕方、イリナは大きく息を吸い込んだ後で爆発的に泣き始めた。

「どうしたんだい、イリナ!?」

 巨体を揺らし慌てて駆け付けたブレンダと、恐る恐る駆け付けた父、そして何か騒ぎかと顔を見せたニナ、数人の使用人たち。役者がそろった時点で、イリナは母の身体に縋りつきながら震える手でメモ帳をかざす。


「お母様、お母様! イリナはもう学院には二度と行きたくない!!」

「学院に? それはまたどうして」

 ブレンダは小さな娘の背中を宥めながら首を傾げた。

「マティアス様をお見掛けするのが辛いのです」

「マティアス様を? お前の婚約者のクロイド様をかい?」

「ええ、ええ」


 扉の近くでそっと見ていたニナは、何となく嫌な予感がした。

「喧嘩でもしたのかい」

「うう……喧嘩ができるくらいなら、嬉しかったのに……だけどもう、マティアス様のお心は別の女に盗まれたから」

「女!? どういうことだい? マティアス様が浮気している所を見たとでも?」

 イリナは悲壮な高い声を絞り出すようにして涙を流し、ブルブルとメモ帳を母に差し出す。

「わた……私の口から今この場で言う訳には……お姉様が……」

 豊満な胸の間から戸口の方をチラリと見遣る。

 ブレンダの眉間にぐっと深い筋が入った。

「ニナが?」

「とにかく読んで、読んで下さい、お母様!」


 ニナはこれから何が起こるのか瞠目して待つしかなかった。

 何があっても、どうあっても自分に疚しいことはないのだが、言葉の端々から近頃連日のように付きまとってくるマティアスとの関係性に誤解が生じている気配がしてならない。

 父が難しい顔でニナをちらりと見る。

 ニナはゆるゆると首を振ることしかできない。


 小さなメモ帳がブレンダによって捲られていく。腹が冷えるような空気がイリナの豪華な部屋を満たしていく。

「あの……」

「おだまり! ニナ」

 小さくあげた声は大声で遮られ、紐が絡まり始めたこの状況を止められない。

 ブレンダの顔がじわじわと赤くなり、蟀谷に青筋が立ち始める。

 目玉をひん剥き、奥歯を噛みしめるような口元になる。


 ニナとマティアスは高等部で頻繁に逢瀬を重ねていること。

 イリナを呼び出した挙句、それを見せびらかすように見せたこと。

 その晩は辛くて悲しくて号泣したこと。

 屋敷では変わらずニナは良い姉の顔をすること。

 マティアスのニナを見る目はどんどん甘ったるいものへ変化していること。

 その変化をニナはまるで困惑したような顔で見ているが、結局突き放したりもしないこと。きっとそれすらも彼女の思惑通りであること。

 人間不信になりそうなこと。

 マティアスからパッタリと手紙が来なくなったこと。

 ニナは高等部で友達をたくさん持ち、マティアスの他にも大勢の取り巻きがいること。どうも女でも男でも誰彼構わずニナは仲良くしている。つまり色んな男が寄ってくる。だから何も妹の婚約者を側におく必要などはない。にもかかわらず、用事など何もないのに毎日のようにマティアスと寄り添って話をしていること。

 だけど往復の馬車の中では楽し気にマティアスの婚約者である自分とお喋りをする。

 ニナは息をするみたいに嘘を吐いて人を騙す。大勢の男を誑かして尋常じゃない。本当は童話に出てくるような人の心を惑わす魔女ではないだろうか?

 メモ帳にはカヴァニスの屋敷とは比べ物にならない随分と華やかなニナの学院生活が記されていた。可哀想な妹を貶めてこっそりと婚約者の心を奪う……それはきっと、姉より先に素晴らしい縁談を組んでもらった義妹への当てこすりに違いないと締めくくられる。



 つらつらと書かれたメモ帳を瞬きすら忘れて読み、ブレンダは心拍数が上がって行くのを抑えられなかった。

 毒にも薬にもならぬはずの夫の連れ子が、まさか愛娘にこんな悪事を働いていたとは思わない。飼い犬に手を噛まれたとは正にこのことであった。

「おかぁさまぁ……」

 可哀想な娘はホロホロといたいけな涙を流し、母の手に撫でられながらウットリと目を閉じる。

「イリナ……私の可愛いイリナ……お前は学院でこんなにも辛い目に? たったひとりで……どうして今まで黙っていたんだい」

「それはだって。お姉様だから。大好きなお姉様が私を嫌っているなんてそんなこと、信じたくなかった」

「イリナ!」

 ブレンダは娘の慈悲深い心に感極まって強く抱きしめる。


「あの……一体何が書かれているんだい?」

 ルーファスが頃合いを見計らって口を開いた。

 自分の実子が犯した失態なら、知っておかねばならない。父である自分がカバーできる内容であれば、と挽回する気持ちで尋ねた。


 ブレンダは夫を一瞥した後で、ゆっくりとその奥に立つニナを睨み上げる。

 途端、部屋の空気が実際に三度ほど下がった。

 その場にいるブレンダ親子以外の全員が凍り付いたように動きを止め、ニナを見つめる。

 ニナは針にも似た目線に捉えられると恐怖で呼吸さえも苦しくなった。


 ブレンダとはそういう人間である。この女の怒りに触れて無事だった者はいない。

 ある時、彼女が気に入りとする花瓶を割った使用人がいた。蒼白になって床を這い謝罪したが、無言で睨み下ろされるうち発狂し、屋敷のバルコニーから飛び降りた。

 ある時、彼女が口にした食べ物に羽虫が混在していた。コックと給仕が涙ながらに責任を押し付け合った結果、二人はナイフを手に戦いを強いられて半死の思いをした。

 ある時、イリナが履いた靴のヒールが取れて、怪我をした。下足番の男は鞭で百回打たれた。


 ブレンダが怒ると、心臓を握られているような、頭の中を掻きまわされているような、根源的な恐怖でいっぱいになる。なぜか誰もがその場に縛られて逃れることが出来なくなった。屋敷は蜘蛛の巣と同じだ。逃げ出すことを考えるだけで恐怖で足が動かなくなる。テリトリーに入ったら最後、皆が彼女を恐れ奉った。


「ニナ、お前、とんだ女だったようだね。まさか魔女とは……私は思い違いをしていたようだ。すーっかり騙されたよ」

「………ぇ」

「マティアス様に横恋慕しているって? 高等部では随分とうまいことやって派手にしているようじゃないか。なぁ、妹の婚約者が好きなのかい?」

 ニナは恐ろしくて声も出ない中、懸命に首を横に振った。

「ははは。そうか、ではやっぱり、イリナが先に婚約したことへの嫌がらせで? 好きでもないのに誘惑したわけか」

 更に首を大きく振る。

「メモ帳には、賢いイリナがちゃあんと日付と時間と場所を書いているよ。偉いね。そうやって書いていれば、周りへの確認も取りやすい。よくやったよ、イリナ」

「うん、だって、嘘をついているって思われたくなかったから……!」


「ニナ、本当なのか?」

 ルーファスが脂汗を浮かべながら、何とか恐怖を捩じ切ってニナを振り返った。

 ニナは半泣きで首を強く振り、父と娘は見つめ合う。

「信じて下さい、お父様……! 誓って、誓って誘惑などしません! 逢瀬など一度も」

「………」

 ルーファスが知っている娘は自分から男へアプローチをかけられるような、そんな社交性や器用さはない。性悪なイリナの嘘だろうと察しはついた。だが、状況的に自分の出方が更に心証を悪くする可能性もある。そして、何より目の前の後妻から放たれる得体の知れない黒い恐怖が喉をカラカラにさせた。

 いつもそうだ。

 いつもブレンダが怒ると、ルーファスは何も出来なくなる。

 ただ丸太みたいに突っ立って、太い指に抓られて平手で打たれ、木刀で殴られ、カラカラなのに恐怖で目から涙を流し、最後は水のことしか考えられない。


 ルーファスは大きな口を開け、乾いた喉奥から妻に何か言おうとするが、やっぱり空気しか出てこない。

「ニナ、あんたを無害だと思っていた私の落ち度だよ。娘とは言わないが、可愛いイリナの姉として扱ってやったのに……これはもう、仕置きなどというレベルじゃないね。一から躾が必要だ」

「ブレ」

「お前は黙ってな! ルーファス!! いいかい、ニナ、お前と私の可愛い娘は違うんだ。人間としての価値がね。それをわからせてやらないと」

「ブレンダ様、ブレンダ様、誘惑などしていません、どうか信じてくだ」

「お前を信じる? 嘘つきで男好きの魔女を信じる奴がこの世のどこにいる!?」

 大声で怒鳴られて、ニナは気絶しそうな恐怖に身を縮めた。


 ブレンダはイリナの居ずまいを正してやり、父娘を憐憫の目で見る。

「いくら由緒が有ろうが、カヴァニスは無能で意地汚い人間の血に成り下がっていたようだ。父といい娘といい…私たちの血で洗浄してやろうと言うのだから、先祖は感謝しても足りないだろうさ。ニナ、明日からは学院に行く必要はないよ。まず己の歪んだ汚い心根をしっかり綺麗にするんだ。屋敷中ピカピカに磨き上げて、綺麗にするということが何なのか学ぶことだね……まずはその、みっともないお漏らしの始末から始めな」

 イリナが目を丸くしてニナの足元を見る。

 若草色の絨毯は小さく濃い緑に濡れていた。


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