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ニナ・カヴァニスは十七になった。
カヴァニス家は父の再婚以来、大きく様変わりした。
新しい母であるブレンダは使用人全てを入れ替えて、家のことだけでなく領地経営、事業にいたる全てを掌握した。実際、財力も伝手もあり、加えて伯爵夫人の肩書を手にした彼女に向かう所敵は無く、地を這っていた経営は瞬く間に盛り返した。領民たちも、修繕されていく橋や道路、安定し出した生活に喜び、女領主に感謝した。
ブレンダは化粧の匂いを振りまき、巨体を揺らして酒やけした声を屋敷中に響かせる。
その様は百年以上前から彼女が女主人だったと錯覚するほど圧巻だった。
だけどニナは新しい母を前にすると、いつもお腹がひゅっとなる。なんだか怖くて顔を上げられない。特に厳しいわけではないが、優しくもない。
ブレンダが結婚後に購入した山からたまたま宝石が産出されることがわかった。これによりカヴァニスはより一層潤い、それまで見向きもされなかった貴族たちから夜会の招待状が届くようになる。ブレンダ・カヴァニスは一躍時の人となった。
「カヴァニス伯爵家は何もしなくたって五代先まで安泰ね」
と学院でも嫌みのように言われたことがあるくらいだ。
だが、別に何もかもが安泰な訳ではなかった。
時の人になったブレンダの陰で、父は日を追うごとに痩せ、口数が減った。近頃まともに話した覚えも無い父の身体には、なぜかあちこちに青痣があった。だけど元気のない様子の割に外出を繰り返し、屋敷にいない夜が増える。たまに見かける朝、身に纏う酒と香水がニナの鼻をかすめた。
「お父様、昨夜はどちらに?」
と尋ねると、
「友達のロビンスのところだよ」
と嘘をつく。
聡いブレンダもわかっている筈だ。だから殴られるのだろうか……それとも殴られるから癒しを求めたのか。父には他所に女がいる。
ブレンダと共にやって来たイリナは二つ年下で、姉ができたと無邪気にニナに懐いた。
一人っ子だったニナも妹が嬉しくて、少し我儘な性分だとは感じたが、女同士の買い物やお茶を楽しんで三年の日々を過ごした。
ブレンダからは『無理に母と思わなくても良い』と言われ、それなりの距離感で付き合っている。母とは対局とも言える気性のブレンダと父がよく再婚したものだと思わずにいられないが、そこは二人にしかわからない大人の事情だろうとニナは一人納得をした。
女主人は目に入れても痛くない程に娘を溺愛し、イリナは甘えん坊に育った。愛情深い母親なのだと思ったが、彼女には実の所、息子もいる。
数度、王都の騎士団寮に住まう義兄のエドヴァルドがカヴァニス伯爵家を訪れたことがあった。
この男はニナより六つ年上で、両親の再婚時には既に独り立ちをしていた。騎士団の一員として各地を赴いて忙しいようだった。仕事に機密事項も多いと内情は語られなかったが、任務の為に一切の面倒を見る時間が持てず、男爵領を返上したと説明していた。
ブレンダは後から小言で『あいつはおかしな奴なんだ。どうせ領地経営なんて無理だよ』とボヤいていたが。
あまり喋らない男だった。他に知り合いがいないからわからないが、騎士とはそういうものなのかもしれない。特に共通の話題もないし、エドヴァルドにはカヴァニスに馴染む気が無さそうなのは見ればわかった。何度か挨拶程度を交わしたことはあるが、来ても用事を済ませれば直ぐに帰って行くのだ。だから二人で話したこともない。
親子にもいろんな形があるのだろう、ニナはそう納得していた。
◆
貴族の子女が通う王都の学院へは、二つ年下で十五のイリナと共に馬車に乗る。
往路の車内、のんびりしたニナと違ってイリナは弾丸のようにお喋りを続ける。
彼女は母親に似て饒舌で、盛られている気配があったが話は面白かった。
いつもニナはクスクスと笑い、イリナは得意げに話を締めくくる。
「ねぇ、姉さま、高等部でマティアス様にお会いしますか?」
「ええ、お会いすることもありますよ。何か渡したいものがあれば届けましょうか」
「やだ、そんなつもりではありません!」
「ふふ。赤いわ。クロイド様は教室が離れているから、普段からお見掛けするわけではないけど、婚約者の姉だからでしょうね、廊下ですれ違えば話かけてくださいますよ」
イリナは大好きな婚約者、クロイド伯爵家長男マティアスの話を聞いて真っ赤になる。
「えっ!? どんな話!?」
「それは勿論、可愛い貴女の話を」
ニナが砕けた様子で首を傾げると、イリナは悶えて脚をばたつかせる。
「まぁ、イリナ。淑女はそのようにバタバタしませんよ。いつでも淑やかに」
「あ、あ、そうですわね! 姉さま。私ったら……あの、あの、マティアス様を遠目でも良いから拝見したいなぁと思うのです。いつもお手紙ばかりで」
ニナは可愛い妹の様子に目を細めた。
「そうですね。最近クロイド様はお忙しいのでしたか」
「はい。お茶にお誘いするのですが、近ごろは狩りに夢中になっていらっしゃって」
年頃の男性が、十五の少女との茶会よりも狩りを優先させても何ら不思議はない。
ニナは可愛い妹の為にひと肌脱いでやろうと思った。
数日後、ニナは昼食後に中等部と高等部の垣根がある中庭へ、マティアスを誘う。
「あなたから誘われるなんて珍しい。光栄だな……」
マティアスは上気した顔で婚約者の姉を見る。
「光栄などと、勿体ないお言葉で……あ、クロイド様、どうぞあちらに」
クロイド家は同じ伯爵でも家格は上である。カヴァニスよりも遥かに長い歴史があった。だがブレンダが後妻に入ってから、カヴァニスは今や飛ぶ鳥を落とす勢いがある。クロイドは芸術面での造詣が深く、ブレンダの山から採れる原石に大きな興味を持ったのだ。
両家の子息女が縁を結んだ背景にはこうした理由がある。
まさか差し出されるのが、婚約者を持たない姉ではなく、当時十四の妹だとは思いもしなかったが。
マティアスはニナが手のひらで案内した方向に顔をやる。
「……やぁ、イリナ」
「マティアス様!」
白い柵越しに顔を覗かせる陽気な笑顔にマティアスが手を振った。
「あの、あの、お元気でしたかっ!?」
「はは、元気だよ。手紙にも書いたじゃないか」
「ええ、そうですね! だけど、なかなかマティアス様のお顔を拝見できなくって」
「先月お茶にお邪魔したばかりだ。良い天気で、お庭の薔薇が素晴らしかった」
「だけどもっとお会いしたいのです」
「君が学園を卒業したら、もっと会えるよ……そうだ、ニナ」
マティアスはニナの隣から一歩も動かず遠く離れたイリナと会話をし、隣へと顔を戻した。
マティアス様、とイリナの小さな声が聞こえる。
「あの、クロイド様、是非もう少し、イリナの側へ行ってやって下さいませんか」
聞こえぬように小さな声でニナが頼むと、マティアスが首を傾け近づいてそれを聞く。
「だがもう、用事は済んだ」
「用事? 用事ではございません、逢瀬でございます」
「ぷっ……逢瀬!? 十五の子と?」
屈託なく大袈裟に笑うその顔に、ニナは困惑し、遠目にイリナは驚いた。
「ニナ、イリナはまだ子供だよ。僕たちとは違う。それに彼女は特に……正直に言って、幼い。逢瀬はもう少し話ができるようになってからで良いと思っているよ」
「そんな、妹はもう立派に貴方に気持ちを」
「ニナ、君からそんなはしたない話は聞きたくないな」
「あ……申し訳ございません」
イリナには聞こえぬように配慮したトーンで、ぼそぼそと話す二人。優しい表情のマティアスがニナを見つめる。
「今の僕には君くらい大人な方が余程話しやすい。君は頭も良いしね。どうにしたって将来僕たちは家族になるんだ。もう少しお互いを知っていても良いと思わない?」
思わないかと聞かれれば、無下にすることも出来かねた。小さく首を傾げながら頷くに留めたが、マティアスは綻んだ顔になる。ニナが一歩下がれば、マティアスは一歩前に出る。
それらのやり取りは、柵越しにまるで似合いの男女が睦言を囁き合っているように見えた。
イリナは見ていられなくて、フラフラとその場を離れる。
小さな胸の奥には、じっとりとした火がくすぶりはじめた。