19
頬を撫でられ、長い睫毛が持ち上がる。
薄暗闇の白と黒の部屋の中、黒髪の男はしっとり濡れたまま半裸で適当な寝衣姿、珍しく肩で息をしながらこちらを見ていた。どうやら大変焦ってきたらしい。
「エデ!」
もぞもぞ急いで腕を伸ばす。
エドヴァルドが無言で強く抱きしめた。
「エデ、エデ……あ、あ」
「ごめん、ごめんな、ニナ、ひとりにした。俺のせいだ」
「んん、んん!!」
「俺があの時判断を間違えた。焦ると負けるって言われていたのになぁ。どうしてもお前を婚約者に取られないようにって、そっちにばかり気が……全部嘘だったのに。怖い思いをさせただろう? もう痛くないか」
「だいよ、ぶ」
「大丈夫? 痛くはないのか? 頬が腫れてただろ。見せて」
身体を離してお互いの顔を見る。ニナの両頬はまだ腫れていた。
エドヴァルドは改めてまた後日殴りに行こう、と心に誓う。
「エデ、だぃよぶ?」
「俺なんか大丈夫だ、全然。矢が百本刺さったって死ねないんだから。
それよりあんなババァは放っておいて直ぐ来たら良かったのに、ニナの様子を見たら頭に血が上って、やっぱりちょっとどうしても……収まらなかった。百六十二回目に殺した後で呼ばれている気がして、やっぱりニナの顔を先に見ようと思いなおした。ダメだな、来てみたら遅すぎた気がする。鳥籠は現実じゃないけどあちこちドロドロだったからそんな錯覚したままココには来れないしって、風呂に入ったりして更に遅くなった!
また間違えたか。なんだ、また焦ってたのか? わからんな」
ふふふ、とニナが笑った。
エドヴァルドが言ってる内容はよくわからなかったが、とりあえず最後に首を捻っているのが可愛い。
首に頬を擦りつけて、力の限りしがみついた。それから顔を近づけて二人は延々口づける。
「はぁ」
そのまま兄がごろんと横になって、ニナを身体に乗せたまま目を瞑る。
「めまぐるしかった」
エドヴァルドはかれこれ一日半寝ていない。
「だぃ、じょうぶ?」
「ん~……途中で、ぼん様……殿下からニナが魔女だと聞いて驚いた。それから俺もお前に魅了されているって。ちょっと衝撃だった。俺の気持ちが嘘なのか?って。
あの屋根裏で見たニナを可愛いと思った気持ちも、俺があの後何回も何回もあの夜のことを思い出した時だって、それが全部魅了の力のせいだって言われてもなぁ。訳が分からんかった。
でもよくよく鳥籠の中でババァをタコ殴りしながら考えたんだ。希少って言ってもわからないだけで他にも魅了の魔女がいるかもしれないだろ? もしかしたらいっぱいいる土地だってあるかもしれない。俺の他にガストンだっているんだ。気づかれなかったらただのモテモテで終わる。どっからスキルの好きでどっから自然の好きかなんて誰にも判別できないし。でも中身は同じだ。気づかなかったらそのままで……つまり普通は一生誰にも判定されないんだ。それならそれで良い。その方が幸せそうだ。最終的には俺が幸せならそれで良いし、ニナがそれで良いならもっと良い。つまり、どっちでも良くなった」
「ん……ふふふ」
「なぜ笑う」
「すー、き」
「俺は大好きだ」
「! だ、だぃすき!」
「にしし」
ニナは満面の笑みで魅了する。エドヴァルドは可愛いニナを包み込む。
「もっと早くに気づいてやれれば……時間を巻き戻したい」
謝るつもりにもなれなかった。自分は家族だったのだ。
「………」
過ぎてしまった時間だけはどうしようもなかった。だが唯一どうにかしてやれたエドヴァルドの後悔は大きい。
ニナが胸の中から顔を出し、辛そうな顔をした兄をじっと見る。
細い指が眉間の深い皺を撫で、背中に回した手がポンポンと優しく叩き始めた。
切れ切れの小さなハミングが男の後悔をじんわりと温める。
エドヴァルドは黙って妹の歌を聞いた。
「ニナ、歌が出るじゃないか。急にすごいなぁ。ぼん様の呼び寄せの効果かな……歌ってもらうと懐かしい」
「?」
「こうやって背中を叩くのも、歌も、死んだ父がやってくれた。ブレンダは俺を産んでから一度も俺を抱かなかったが、全てを父が賄ってくれた。仕事で船に乗っていたから忙しい人だったけど、帰ってくれば必ず俺と過ごして……よく俺に謝っていたなぁ。何のことかさーっぱりわかってなかった。
きっと結婚したことにも後悔しかなかっただろうし、惚れた女に恐怖で支配されるなんて想像もしてなかっただろう。あの頃から俺には恐怖がわからなかったから、大人になってもあの謝罪を本当の意味で理解してやれなかった。あの人も辛かっただろうな……俺は本当に馬鹿だ」
「………」
「力の使い道やら自分のスキルのことやら、深く考えたこともなかった。だけど今日ほど後悔した日はない。俺には力を持っている責任があったのに。もっと自分を、周りを知らなければいけなかった……俺の持っているコレをどうやって使うのかを、ちゃんと考えて。だからぼん様はしつこく俺に教えた。
結局その意味もわかっていなかった。力があっても容易く使うべきものじゃなかった。簡単に使えるからこそ、用心深くならなければいけなかったんだ」
「……エデ、エデバァト」
「うん」
ニナが一生懸命に黒髪を撫でた。
優しい手の動きが大きな父の手を思い出させる。
エドヴァルドが壊さぬよう、ギュッとか細い身体を抱く。
隙間なく強く抱かれるとニナに極上の安心感が訪れる。
小さな身体にまた増えた新たな傷を想って、エドヴァルドが囁くように歌う。
自分が知っている癒し方は、傷つけ方に比べると遥かに数が少なかった。百六十二通りの殺人を犯した後で、今できるたった一つの歌にエドヴァルドは情けなくなる。
世界一安らぐ場所で、ニナはすやすやと幸せな眠りについた。
◆
「じゃあ、ニナ。落ち着いたら手紙をおくれ。居場所はエドヴァルド殿に書いて貰うんだよ。あとはこの便箋に『〇』だけで良い。そうしたら、私がそちらまで会いに行くから」
「ん」
渡された便箋と封筒を受け取って、父と娘はハグをする。
「長い間、本当に済まなかった」
耳元で震える声にニナも少し泣きながら父を強く抱いた。
「ではカヴァニス、後のことはカスパーが来てから。それまでにお前もゆっくり休むといい。屋敷の采配もあるだろうが、家族を大事にしてあげなさい」
「はは。ありがとうございます!!」
ジュリアンの言葉にルーファスが頭を垂れる。ブレンダが持っていた資産は全てルーファスに移譲されることになった。全ての後始末の為、一週間後に事務官たちが派遣される。天変地異によって問題のおこってしまった土地に対して国が何もしていなかった責任があると判断し、沼地の整備の為の専門技師など、これからカヴァニスの領地には相応の手が入る方針をジュリアンがたてた。
父は最悪の年月を支えてくれた平民の女性と再婚し、息子を跡継ぎにする。
一台の馬車と大きな荷車、鉄の檻に入れられたブレンダの巨体と小さく縮こまるイリナを乗せた車が連なって動き出す。
ブレンダはあれからずっと鳥籠の中に閉じ込められているので、イリナがいくら泣いても呼びかけに答えなかった。イリナは二択を決められないまま、次は王城の地下牢に入れられる。もしかするとずっと牢にいることを選ぶかもしれないな、とエドヴァルドは少しだけ妹を不憫に思った。
イリナは恐怖と魅了両方の犠牲者でもあった。
渦中にあって我を忘れなかった図太さは称賛に値するが、その属性を悪に寄せてしまった弱さを知る必要がある。罪のない赤子や夫との厳しく好奇の目に晒される生活か、慎ましく律された修道女としての生活の中で自分が犯した過ちを知らなければいけないと主人は言う。いずれにしても『逃げられない』苦しみをイリナは知らない。
本当に目が覚めたら、きっとニナに謝りに来るだろう。
そうしたら、また次のことを考えてやればいい。
ジュリアンがそう言うので、期待せず待つことにした。
「ニナ、エディの所ばかりいないで、こちらにもおいで」
広い立派な王家の馬車で、天使の微笑みを浮かべた王太子が自分の横にニナを呼ぶ。
「行くわけないだろ」
「そんなことはないよ。ねぇ、ニナ」
「………」
「ちょっと先に出会ったからって、お前はずるいね、エディ」
「良いだろう。はははは、ってぼん様には妃がいるじゃないか。怒られるぞ」
「そんなのどうにでもなる。寧ろニナの取り合いになる気が……ああ、これから大変だぞ! お前。基本的に目を離さぬようにしないと。何か保護する名目を与えて迂闊に取り合えない状況も必要だ。放置なんかしてみろ、国さえ傾く……だから考えたんだが」
猿芝居を始めたジュリアンが喜色満面でニナの手を取った。エドヴァルドが半目でその手を見る。
「しばらく王城に来なさい」
「はぁ!?」
「?」
ニナが不思議そうな顔をする。
「良いかい、エディ! 住むところは慎重に決める必要がある。貴族街だろうと市井に住ませるわけにはいかない。かと言って山の中ではお前の仕事に響く。だから城だ!」
うぇ〜、と顔に書いたが、自分の仕事中にニナをどうするのかは確かに大きな問題だった。
「俺も住むからな」
「お前は勝手にしなさいよ。
そうだな、ひとまず女性で非力な侍女が要る。誰にしようか……気の良い、出来れば口うるさくない年寄りなんかが良いな。あ、日中は教皇に渡りをつけておくからニナはどうにかしてスキルをコントロールできるように学びなさい。なるべく教皇は魅了してやるなよ。とにかく自分をよく知ることがお前を守る。いいね?」
「あ、あ、はい」
「言葉もその様子なら自然に戻るだろう。何でも焦らないことだ。本当に必要ならきっと自分の中から自分がどうにかしてくれる。言葉も色も、自衛の為に手離したものなんだから。ま、エディの目の色なんか見えたって可愛さは増えないけどね」
「失礼な。その、侍女のことなんだが」
「ん?」
「アテがあると言うか、もう既に頼んである人がいる。彼女を城に呼び寄せても良いか」
「ほぉ」
「城のマナーとまではいかないが、高級宿で支配人の覚えもめでたいベテランのメイドだ。この三か月、ずっとニナの世話をしてくれた女性で、歳の頃も良い。ニナ、タヒチが良いなら嬉しいだろう?」
「!!!」
ニナが喜んだ顔をするので、ジュリアンもそれならばと頷いた。城と聞けば驚くかもしれないが、ある程度の事情を汲んでいるタヒチならば安心して任せることが出来るし、今から思えば恐らくタヒチも最初からニナに入れあげていた気がする。普通、あんなにいっぱいのぬいぐるみを数日世話しただけの成人した女に買ってこない。
来てくれるだろ。まぁ、なんとかなる。
ニナが今も手にするぬいぐるみの猫とエドヴァルドの目が合う。
「エドバァド」
「ん?」
揺れる車窓からは雨期の晴れ間、のどかな田園風景が見えた。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
大丈夫でしたか?
最初はちょっと読んでて『ひゃ~』となった方もいらっしゃったかと。
今作はテイストというか、括りとしては『レンブラント』と同じ童話的な話になります。
時々無性にこういうのを書きたくなる。
少し重たい話だったかもしれませんが、最後まで読んで頂けて幸せです。
それではまた、良ければ☆でどうだったか教えてください。
またお会いできますように!