表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/19

18

 おかえり、の言葉で世界は再び絶望に転じた。

 馬車が横転して頭をぶつけた後で気が遠い中、猿ぐつわを噛まされた。もう叫び声もでない、舌を噛むことも出来ない。


「どれだけお前に会いたかったか、ランディ、さぁおいで」

「ランディ!! 帰って来てくれて本当にありがとう! 今までのことは全部水に流して、また新しくやって行きましょうね」

 愛し気な表情で義理の母と妹から交互に抱きしめられ、よくぞ帰ったと喜ばれた。次にまた灰色の服に着替えさせられ、抵抗も虚しく男手で運ばれて地下に鎖で繋がれる。


 食料を入れておく地下は冷たい石で作られ、窓もない。

 鉄の扉で仕切られた牢には白い清潔なベッドと、食事用の小さなテーブルとイス。仕切りと排泄をする箱の他には何もない。

「私は心を入れ替えた。死ぬまで此処で、お前の世話をする。ランディには掃除も買い出しも必要がない。私だけの人形なんだ。ずっと此処に、私の目の届く場所に……誠心誠意、お前の命を第一にして長くお前と付き合っていくと決めた」

 ブレンダは慈愛の瞳を潤ませ、三カ月ぶりの愛しい玩具に高揚した分厚い手のひらを振り上げる。


 最初の一発で吹き飛んだ。

 次の一発で懐かしい耳鳴りが始まった。

「ああ、ランディ! ようやく、ようやくだね!!」


 地獄に帰ってきた。

 帰って来てしまったのだ。


 ニナは急いで全てに蓋をした。自分を丸める。ぎゅうぎゅうに丸めて小さくなる。

 小さくなって蓋をして、隠れていればその内終わる――――



 石床の上、飛ばしていた意識が戻る。冷たい感触に薄目を開けると、鼻血と涙で顔がびしょびしょだった。

 肩で息をしたブレンダが盥の湯で手を洗っている。

「タオルと、氷水を持ってきな」

「はいっ」

 メイド長が飛んでくる。


 クスクスとイリナが腰かけたベッドから二人の様子を見ている。

「本当にやるの? お母様」

「ああ、そりゃあするさ。心を入れ替えたのだから」

「でも、どうせまた後で打ちに来るんでしょう? 無駄じゃなぁい?」

「そのたびにするのさ! 誠心誠意だからね」

 楽しそうに笑う声が、キーンと鳴る高音に混じって聞こえる。


 言葉通りに、ブレンダは宝物を触る手つきでニナの顔を拭い、絞った冷たいタオルで頬を冷やした。ニナの心は懸命に蓋を押さえる。どうしてかいつだって優しさの方が蓋が開きやすくなる。

 だけど間違えてはいけない、これは優しさではない。

 打ち捨てられた方がどんなにマシかわからない。

 まるで母のような手つきで触られて、数時間後には同じ手でまた打たれるなど尋常じゃない。

 この新しい地獄は狂っている。


「兄さま、今頃ランディを探し回っているのでしょうね。ふふ」

「どこを探してるのやら。畑の中かね! ははは。あてなどないだろうに」

「たった三か月ぽっち一緒にいたくらいで自分の物だと思っている所がすごいわ」

「ランディは私のものだっていうのに」

「あら、私のものでもあるでしょう!?」

「……まぁ、エドのものでないことは確かだ」



 エドヴァルド。


 耳鳴りの合間からでも拾ってしまうその音に、ニナはきつく眉を寄せる。聞きたくない。押さえた蓋の隙間から勝手に溢れそうになる名をねじ伏せる。

 だめ、今は思い出したくない。

 辛いのは嫌。嫌だ。

 もう嫌だ。

 また(から)になる必要があった。

 ニナは三か月前までの自分の心を思い出そうと試みる。

 空虚は波風がなく平坦で、落ち着くものだった。辛いことも悲しいことも、そこにいれば感じないで済む。短くない月日をかけて作り上げたその場所の存在を思い出したのだ。

 


 空っぽで良い。



 石牢に置かれた白く清潔なベッドに横たわった視界には、楽しそうに階段を上って行く母娘。

 ぼうっとしている内に話し声は消え、静かになった。いつのまにか耳鳴りも止んでいる。

 灰色一色に覆われた部屋で独りの時間が訪れる。


 目を瞑って、ニナは心の中にある空っぽを探し始めた。

 再びブレンダが降りてくる前に、完璧な人形でいなければ。


 目を瞑ると、すぐに優しい顔がいくつもいくつも浮かんでくる。

 胸が絞られるみたいな気持ちを追いやって、どんどん潜る。

 通り過ぎて行く、大量の笑顔。猫を呼んだ声、熱い粥、優しい手。

 違う。それも違う。あれも違う。

 私の空っぽはどこにしまってある?

 

 心をどんどん降りていく。

 それじゃない。

 これでもない。

 もっと、平坦な場所が欲しい。

 こんな胸を動かされるようなのじゃなくて。


 あなたの笑顔じゃなくて。


 瞼の裏に溢れている笑顔をかき分けて、一生懸命に空っぽの場所を探した。

 キノコをひっくり返して、湖の中で目を開けて、動物たちの群れに入って、シャンプーの泡を弾いて、シーツの隙間をぬって、耳元で囁かれた低い声をかき分けて探した。


 だけどその結果に、ニナは息を止めた。

 大変、空っぽがない……



 全部の場所を探しても、どこもいっぱいになっていた。



 長い睫毛がゆっくりと持ち上がる。

 開けたそばから次々涙が落ちて流れる。



 ああ。

 三か月前までの私には考えられないことだった。


 私がひとりで誰かを想うこと。あなたの温もりを知っていること。名前を呼ばれるだけで震える喜びを感じたこと。そのどれもが生き生きとして輝いて、私が生きていたことを教えてくれる。

 私の人生は虚しくて、私という存在は無い方が幸せだったはずなのに。


 もう、二度と空っぽにはなれない。


 どうしよう。

 生きたい。

 まだ、生きていたい。

 会いたい。


 再開したばかりの地獄で絶望しながら、一方でかつては考えられなかった希望に気づく。

 目を閉じればそこにエドヴァルドがいる。

 

 次に会える時まで、眠っていられたらいいのに。



 気が付けば、ニナはニナの背中を優しく叩いていた。


 あら、じゃあずっと夢の中にいればいいじゃない。

 久しぶりね、ニナ。

 思ったより元気そう!

 でもちょっとまた、始まっちゃったね。

 大丈夫よ、きっと大丈夫。

 いつかきっと、楽になれる日が来る。

 素敵な思い出もできたし、あの人を思い出しながら夢の中にいましょうよ。

 そうしたらもう、ずーっと幸せしかないわ。


 ニナはニナの背中を叩いて、優しい歌をうたってくれた。

 さぁ、眠りましょう。きっと幸せな夢が待っているわ。



 それから始まった夢の中は真っ暗で、何もない。

 だけど今度こそエドヴァルドが自分を抱きしめてくれていた。感触と匂いで分かる。うれしい。

 どうしてか身体が言うことを利かず、兄の顔を見ることは出来ない。

 見たい、見たい、会いたい。エドヴァルドに会いたい。夢だから仕方ないのかもしれない。

 誰だか知らない男の声と、ブレンダの声もした。

 ぼそぼそと聞こえる声に混じって、何度もニナ、と耳元で呼びかけてくる甘い声。

 エドヴァルドが私を呼んでいる。うれしい。ずっと、ずーっとここにいよう。

 どうか、覚めないで。





「だめだ、さぁ、起きるんだよ、ニナ」



 ◆


 ぐわっ。


 意識が突然、無理矢理に浮上させられる。

「……んっ……ん、ん……っ」

 抱き込まれた首から上が動かず、手のひら同士絡ませ合って繋がれ揉み揉みとリズム良く動かされる。唇には誰かの唇があって、それは目前にある美しい優し気な瞳でエドヴァルドじゃないことだけはわかった。

「んーーーーーーっ」


 ぷはっ


「うん、いいね。戻った! おかえり、ニナ」

「!」


 ニナはソファに座るジュリアンの膝の上に抱かれ、熱烈な接吻によって強制的に覚醒を促された所である。

「古今東西、お姫様が目覚めるのは王子様のキスと決まっているんだよ。なぁ、カヴァニス」

「!?」

「ニナ、ニナ!!!」

 横から突然聞こえた叫び声に跳ねるとジュリアンに優しく肩を抱かれる。見れば父が涙を流しながらニナの手を握っていた。

「こらこら、粗忽に来るんじゃない。お前の娘は現に戻ったばかりだよ、もっと静かにしなさいよ」

「……エ、エ」

「ん?」

「エ、エデ」

「……エディかい?」

「ん、ん」

「ニナ、お前、言葉を失ってしまったのか」

「………」

「娘はもう、長らく話をしなくなっていました。声を聞くのも久しぶりで……うぅ……」

ルーファスがニナの手にチクチクと痛い顎と頬を擦りつける。

「ふぅむ。私には呼び寄せまでしか出来ないな」

「エ!」

「あ~、エディなら、ちょっと今仕事をさせている所だよ。あいつは私の私兵なんだ。これから私のこともよろしく頼むよ、ニナ。長い付き合いになる」

「?」

 ニナが少し困惑していると、横からルーファスが説明した。

「ニナ、この御方はジュリアン王太子殿下であらせられる。誰も知らなかったんだが、リーベルト男爵……エドヴァルド殿は、ジュリアン殿下が直々に雇う特別な仕事に就いているそうだ。その縁で屋敷に来られた。お前を……私たちを助けて下さったのだよ……うう……」

「もう泣くのはやめないか、めそめそと。

そう。私はガリアの人間だ。ほら、わかるだろう、髪と瞳は何色だい?」

「………」

 わからないのでニナはフルフルと首を振る。

「何が違う? ん?」

 瞳や髪を指して首を振る。

 しばらく間があって考えていた後で、色がわからないのか?といとも簡単にジュリアンは答えを導きだした。

 ニナは頷く。

 ルーファスが再び俯いて号泣しだした。ジュリアンも言葉に窮する。


 おいで、とニナは再び王子様の胸に抱かれた。頼んでいないが。

 目をぱちくりしているが、背中を叩いてくる感じがエドヴァルドそっくりで不思議に思うもののじっとしておく。



「若いお前が失ってしまったものの大きさを考えると……」

 ニナは胸の中から天使のような相貌を歪めるジュリアンを見上げた。

 

 そんなことはなかったのだが、言葉にはできない。

 私の胸にはものすごくたくさん詰まっているのに。

 失ってしまったものはあったけれど、今はもう溢れている。どれだけ絶望したって、空っぽには到底できないほどに。


「もう、今日からは本当に大丈夫だよ。ブレンダは今エディが懲らしめている。二度とお前に手を上げることもないし、近寄れない。私が責任を持つ。カヴァニスから籍を抜かせるから、君の父上も自由になる。この屋敷の使用人たちも皆、自由だ」

「ありがとうございます!!」

 ルーファスが絨毯に額づいて礼を言っていた。ニナは俄かには理解できず、絵空事を聞くみたいに目の前で動きまくる口元をぼんやりと見つめる。

「あ~……可愛いね。もう一度キスをしても? あ、だめ? そう。

 イリナはお前が入っていた牢に入れてある。牢の中で腹の子の父と結婚するか、修道女になるか決めさせている。腹の子は毎晩きつい媚薬を使い過ぎて少し頭がおかしくなった商家の次男だ。離婚や別居は許されない。気配を見せれば即投獄。もちろん修道院も逃げられない。どちらを選ぶのか楽しみだね」

 優しい手が背中を叩き、亜麻色の髪を梳く。

「エデ」

「ふふ。エディに会いたいかい? 妬けるなぁ……ニナ、私の子を産まないか? え? 産まない? そう? ちょっと考えておいてくれ。掛け合わせが見たいんだ。ガリアの血に魅了が入ったことがないからね。あ、そうだ、まずお前のスキルについて話をしなければ。カヴァニス、ちょっと話をするよ。紅茶を淹れておくれ。甘い菓子もね」

「ははっ」

 父がすっ飛んでいく。


 それからニナは長い時間、何度も口説かれながらジュリアン殿下直々にニナが『魅了』のスキルを持っていること、魔女の歴史、他の魔女たちのこと、エドヴァルドのバトルスキル、ブレンダの恐怖のスキルについて説明を受けた。

 スキルなど身近に持っている人がおらず、領地の祭で見た大道芸の男や母に連れて行ってもらった歌い手のステージくらいである。自分がその一人だと今言われても、全く実感が湧かなかった。ブレンダが買い集めさせていた焼き菓子をジュリアンが半分食べ、その半分を口に入れられ、もぐもぐ口を動かしながら他人事のように話を聞く。ついでに口の端に落ちたクズを嬉しそうに舐め取られる。

「あ~、エディにくれてやるのは惜しいなぁ! なぁ、カヴァニス? ガリアにくれるか」

「ははっ……あ~……いや、」

「あほう。さすがにエディが泣くぞ。泣いた顔も見てみたいけど……ニナ、エディに嫌気が差したらいつでもおいで。疲れたら鳥籠にお前を入れてあげよう」

「と?」

「さっき少しだけいた所だよ。真っ暗で、エディがいただろう? 覚えてないかな。今回は真っ暗にしたけど、どんな籠でも作れる。ずっと青空、花畑でも甘い菓子でも、お前が好きな世界でいくらでもゆっくり過ごせる。恐らく魅了の者は時々生きることにも疲れるだろう。人が信じられなくなるかもしれない。エドヴァルド関係なく、疲れたらおいで。籠に入れてあげるから」

「ん……あ、あり、がと」

「!」

 聞いたか今の!?

 ジュリアンは後ろの護衛に思わず叫ぶ。護衛は顔を赤らめて口を押さえて頷いた。

「え……可愛いですね。え、これが魅了というものなのですか?」

「わからん! はははは! なぁんだこれ、外に出したらだめなやつじゃないか?」

「さっきの恐怖の時間も凄まじかったですが、エドヴァルド様や殿下も通常とスキルを出される時とで切り替わるような気がします。魅了というのはそうでもないのでしょうか?」

不思議そうに護衛が尋ねた。

「さぁ、どうなのだろう。だが端から魅了されたら敵わんな。国が傾く……案外この屋敷に閉じ込められていたのは良い面もあったのかもしれないね。ん~む」


 既に魅了されている自覚のあるジュリアンだが、それ自体は構わないので横に置く。ガリア家に魅了の血を入れられるのであれば本望である。ガリアの人間は恐らくスキルを受け入れやすい器を持って生まれる。どこかのタイミングで特定のスキルを持つ血が入っていればその内受け継いだ子孫にスキルが発露するだろう。王家の求心力の為にスキルは増える程に良い。


 だがニナ自身の生きやすさを考えれば、スキルをコントロールできる方が良いに決まっている。


 ジュリアンが考えている間に雨が止み、夜が訪れ、穏やかな食事をして皆が床についた。カヴァニスの屋敷の使用人たちは突然の恐怖からの解放と王家の人間の登場で、永遠に夢の中にいるような一日を終える。


 その夜は父が献身的に世話をしてくれた。ニナの自室だった部屋に預けてあった母からの手紙を持ってきて抱きしめてくれる。何度も何度も謝罪されたが、父も被害者だった。女と逃げることだって出来ただろうに、最後まで娘を捨てずに居残ってくれたことにニナは改めて感謝をした。翌日に長らく行けていなかった母の墓を訪れることを約束し、父はゆっくりおやすみと部屋を出る。



 ニナはふかふかのベッドで、気持ちの良い寝衣で、令嬢らしい大きなベッドで一人横になった。見覚えのある天井を眺めて過ごす。


 ようやく、本当に終わったのだ。


 いつまでも実感が湧かなかった。だってニナはまだ一人だった。

 わかっている。今、一生懸命、何をどうしているのかはわからないが兄はブレンダを怒ってくれているのだ。ニナの為に。

 でも会いたい。エドヴァルドに会いたい!


「エ」

「エデ」

「エデ、エデ、バ、ト」

「エデバァト」


 一生懸命名前を呼んだ。

 早く戻ってきて。会いたい。会いたくてたまらないのに。


 エドヴァルド。



 目を瞑って名を呼び続け、うとうと寝入ってしばらく後、ニナの部屋の扉が開いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ