17
例えばそれは深海から聞こえる甘美な歌声。
目が離せない蠱惑的な美貌。
どろどろに溶かされる淫欲の身体。
回復を促す手のひら。
全てを忘れさせる吐息。
幸福を授ける祈り。
不運を呼ぶ呪文。
記憶を塗り替える朗読。
寿命を削ぐ手料理。
彼女たちは目に見えず曖昧で、だけど心を惑わせるスキルを持って生まれる。
それがただ美味しいだけの料理であれば。
人々を楽しませるだけの詩であれば。
気休めを与えるだけの祈りであれば。
「だけど、時々どうしてか現れる。尖った者がね。我々ガリアはそれを魔女と呼ぶようになった」
「魔女……」
虚脱したニナを抱え起こし、エドヴァルドが呟く。
「恐怖の魔女は言わずもがな、そこにいるニナとやらは魅了という名のスキルを持った魔女だ……その娘は今ここにいないね。鳥籠の中でも目覚めないとは……恐らく本体は深い眠りの中だ。呼びかけてやるんだよ、エディ」
「ぼん様、いつからニナに気づいてた?」
「二人の気配は最初から。屋敷中に二つのスキルが充満していたからね。だがそれがニナのものかどうかなんて分からないが。ただまぁ、地下に気配がある意味を考えれば自ずとわかる」
「………」
エドヴァルドが腕の中に視線を落とす。
ガラス玉になった瞳には、何も映らない。呼びかけても何の反応もなかった。腫れ上がった赤い頬と最初に見た時と寸分違わぬ褪せた灰色の服。片足首に残る血の輪が物語る事実が男の怒りに火をくべる。
エドヴァルドはゆっくりとブレンダを振り返った。
血相を変えてニナを探していた夜も、応接での時間も、この半日の間で既に三か月前同様の暴力が振るわれていた。イリナもこの女も歌う様に嘘を吐いていたのだ。きっと笑っていたのだろう、焦る俺を見ながら、ニナを打ち据えながら。
「なぁ……どう言うことなんだ? なにやってる? ニナをこんなにして……長い間、ボロボロの人形になるまでやり続けて? その、恐怖のスキルってやつを使って、お前が?」
真っ黒の風景の中、母はかつて産み落とした男を白けた目で見返した。
「ランディはカヴァニスの娘だよ。この屋敷で私が何をしようが他人のお前に口出しをする権利はない」
「何のためにやった」
ブレンダはそろりと白い首を撫で、イヤリングにした宝石をつまむ。
「さぁ、もう理由などない。可愛い玩具と遊ぶのに、理由がいるのか」
二人は無言で睨み合った。
エドヴァルドの胸が大きく上下する。怒りで体温が上がっていく。
「エディ、まだだよ。まずはニナに声をかけ続けてあげなさい」
「………ニナ…」
「話を戻そうか。少し落ち着きなさい、二人とも。幸運にも鳥籠の時間は永遠だ」
優雅にジュリアンは足を組む。
「魅了や回復、扇動なんかの民衆への訴求力を持つ魔女は時代によっては聖女とも呼ばれる。人間とは勝手なものでね。激しい戦いの時代には聖女と崇めて利用し、平和になれば争いを生む魔女と見做す。ガリアはね、その昔、苦しみ考えたんだ」
「何を」
ニナを抱きしめるエドヴァルドが主人を睨む。
「魔女が……彼女たちが幸せに生きる方法を。誰にだって等しく幸せになる権利がある。だが保護を目的に魔女探しをすればするほど、彼女たちは焼かれ、人違いの死人まで出た。いつだってこちらの意図から外れて探索は魔女狩りになるんだ。捕まえられた彼女たちの中には自らのスキルにすら気付かず死んだ者も多い。可哀想にね。ニナだってそうだろう。誰も気が付かなかった。だから私たちは口を閉じることにしたんだ。存在を教える者がいなくなれば、誰の目にも存在しないスキルになる。目論見通り長い年月をかけて『魔女』は実在をやめた」
ブレンダはどうでも良さそうに鼻を鳴らした。
「お前もスキルには気づいていても、自分が魔女だなんて思いもしていなかっただろうね」
「馬鹿馬鹿しい。勝手に名前を付けるのはお前らの専売特許だ」
「確かにそうだね。人は正体不明なものに名を付けて安心したがる……だが魅了というのは厄介な部類だったね。隠しても無理だったな。さすが超希少種なのに文献に残るだけある。恐怖も珍しいが、他国だが過去に会ったことがある。この屋敷は希少種の巣だな。
ニナに手を上げていたのは恐怖の魔女……お前の母親で、最初は単なる罰だったのだろう。恐怖で支配下に置き、心のまま手を上げるうち魅了され暴力が加速した……だけど真実支配されていたのはどちらだったのだろうね。ニナは手を上げる者ですら虜にし、お前まで」
「俺が?」
「始めは多分それほど強くないスキルだった。最初から強ければ、もっと分かりやすく魅了による混乱を招いたはずだ。強くなったのは激しく暴力を振るわれたせいだろう。どんなスキルでも死に瀕すれば、本能的に強くなる。お前も覚えがあるだろう」
エドヴァルドは思い出して頷く。何度も覚えがあった。
「ブレンダは手を上げるたびに魅了を強めるニナへの執着を募らせ、エディは魅了が最大限になる死の際に再会した。三者三様に最悪だ。手紙にあった最初の屋根裏での話は知らないけれど、どうせその時も既に暴力は始まっていたんじゃないのかい? どうだい、ブレンダ?」
「………」
エドヴァルドは複雑な気持ちで腕の中の女を見つめる。
この気持ちが魅了によって齎された偽物だとしたら?
「ブレンダ、お前はスキルに飲まれてしまったね。さっきみたいに意のまま恐怖で下して来たか。王太子の私にまで……はは、傲慢にも程がある。その滑稽なほどの図太さはスキルによって育まれたの? それともお前生来のものかい?」
怒りに顔を赤くした女が薄ら笑いのジュリアンを睨む。
「ねぇ、ブレンダ。恐怖を操らなくても生きていけるのだよ。お前だって赤ん坊の頃から恐怖を使いこなしていた訳ではあるまい。スキルに気が付かなくても一生は始まり、終わる」
ブレンダはその一生を想像し、軽く震えた。
艶やかな唇で重たい吐息を逃がす。
「始まれる訳がない。農家の五女としての石ころみたいな人生が始まって終わっても何も残らない。この恐怖の力が私に与えられた意味を考えろ。お前がスキルを放棄してこれからの人生を終われるのか? 仮定の話に意味などない」
「だが、その力の使い方で幸せになった人がいたのかい?」
ブレンダはあまりの滑稽な質問に失笑した。
「私に決まっている」
「本当に例えばだが、食べ物を得る手段としてそれを動物や漁に行使するとか。万の為に使う方法など百通りあっただろう。農家も農村も栄えたはずだ」
「なぜ私が、私を大事にしなかった者たちに与えるんだ」
寒村はいつも飢えが蔓延り、冷たい風が身体を蝕んだ。
暖を取るのは身体の強い者、役に立つ者、美しい者。そうでなければ我慢するしかない。弱者の家に生まれ、村の中では底辺の家に住み、増えるのは子どもと負債。一生をこのあばら家で、運が悪ければ大人になる前に無邪気に食料を奪われた挙句病気になって兄弟姉妹に殺される。
「与えられなければ、与えないのかい? 最初からお前は与えられた者だったのに」
「そうさ、だからあいつらに恐怖を与えた。本来の使い方だ。力の使い方など、自由だ。指図される覚えはないね」
心臓を睨んだだけで、暖を取る男たちは這いつくばって前を開けた。
ブレンダの前にはいつも食べ物があって、誰もが床に額づくようになった。
村長の養女になり村を出て、街の教会に身を寄せ憧れていた学校に通った。文字ひとつ知らぬ娘をさげすんだ教師たちは一年後に最高の成績を付け、次は神父の養女になった。そうやってひとつずつ下して、伯爵夫人になった。力の使い方は正しかったと言わざるを得ない。
エドヴァルドはニナを抱きしめながら自分を産んだ女の言葉を聞いた。
スキルなど持たなくても人は皆それぞれ違う。
力、頭脳、地位、環境、性格、外見、性癖。
覚えられない者、貧しさに喘ぎながら育つ者、逃げ遅れて殴られる者。
頭脳で圧倒する者、地位で押さえつける者、拳を振り上げる者。
それを囲む圧倒的多数の傍観者たち。
全員が弱者であれば何も起こらない。それだけはわかる。
「強いと、厄介だ」
自分の大きく分厚い手のひらを見て呟く。やろうと思えば、大体誰だって殺せる。
「そうだね、エディ。強さとは傲慢だ」
イラつくブレンダが声を荒げた。
「馬鹿馬鹿しい! 弱く生まれた者が不運だっただけだろう。自分の力でのし上がってどこが悪い? なぜ遠慮して生きる必要がある? 飢えれば死ぬ。弱ければ叩かれる。救いの手なんてどこにもない。高尚なことを言うが、お前だってガリアの恩恵で食っている癖に!」
「ふふ。そうだね、耳が痛いよ」
「なぁ、ぼん様。もう殺しても良いか。この話になんの意味がある」
「まだだよ、エディ……私たちはいつだって対話を忘れてはいけないんだ」
「………」
「ねぇ、ブレンダ。私は思うんだ。いつだって自分で自分の顔を見ることはできない。だが他人と交われば自然と知る、あるべき姿をね。美醜ではなく、表情の話だよ……目の前に泣いている人がいれば悲しいし、笑っていれば一緒に笑う。共に生きるんだ。スキルも同じだよ。己が持つもの全て、それがどれだけ全貌のわからない力でも、誰かと生きていく為に使うんだよ。独りでは生きられないのだから。
笑っている人に突然殴り掛かったら、それはもう一緒に生きることを放棄しているのと同じだろう」
「くだらない。お前は神父か。そう言うのは散々聞いたよ。言いたいことはそれだけかい? 所詮お前は王族だからそう言えるのさ。お前たちが共に生きる我が子は税金を納めてくれる神様だ。私にはそんな便利な子はいない。持たざる者を見下して説教とはね。高みから見る景色は壮観だろうよ」
「だがこうして社会でのし上がり暮らしているのは、お前にも大事なものがあるからだろう? 地位? 金か? それは結局社会の集合体なのだよ」
「そんなものじゃない。私が大事なのは娘だけだ」
「あの嘘つきの娘か。私の可愛いエディじゃなく?」
ジュリアンの脳裏に哀れな娘が浮かぶ。
「嘘くらい誰でも吐く。エドはダメだ、こいつは最初から違った。産まれた時からいつまでも違和感が消えない。他と違い過ぎるんだ。だがイリナは違う! 可愛くて可愛くて仕方がない。あの子を幸せにする為なら私はなんでもするだろう」
「その為にカヴァニスに来たのかい?」
「当たり前だろう。それ以外に何が有る……ランディは意図せずこうなったんだ。最初は何も感じなかった。まるで予期できない存在だったが、時をかけて生涯手離すつもりはなくなっていた」
「魅了されたのだよ。なぜニナを手酷く扱う?」
「これが魅了の力だろうとなかろうと、もうどうでも良い。
手酷く扱うのはどうしようもないさ。ランディを見ているとイラつくんだ。なぜだかいつまでも私のものにはならない。欲しくて欲しくて堪らないのに。可愛い玩具をどう扱おうと私の自由だろ。殴り倒して悲鳴を聞いて初めて手に入るんだから。今までだって自分で手に入れたものは全て好きにしてきたんだ、とにかく邪魔をするな。私の娘と玩具を取り上げるなど何人も許されない」
完全に魅了が裏目に出ていた。支配欲の高いスキルとの親和性は低いのかもしれないとどこか冷静にジュリアンは分析する。
「しかし許さないって、お前はもう詰んでいるだろうに」
「詰んでいる?本当に? そんなものやってみないとわからないだろ。さっきは上手くいかなかっただけさ。あぁ、もうお前の御託は飽きた! これ以上は時間の無駄だよ」
はぁ。
ジュリアンは悲し気に息を吐き、暗い天を仰いだ。
善悪は交わらないから善と悪なのだ。
だがジュリアンの悪はブレンダにとっての善である。交わらないのに重なる不条理。
「それすら人の理とでも言いたいのかな」
「何をごちゃごちゃ抜かしてる!」
懲りずにまた唸り声を上げながらブレンダが金眼の心臓目掛けて腕を伸ばした。
「まだやる? 頑張るねぇ。仕方ないか……まぁ、図らずもお前のような者がいるからこそ、我々が存在している。血の気の多い親子だなぁ。さぁ、エディ、出番だよ。今回は特にお前の特性が役に立つようだ」
「なんで? ぼん様だって大丈夫なんだろう」
「馬鹿を言え。私にはスキルを無に帰すような能力はない。鳥籠に入れることはできるけどね。つまり、この籠の中でもスキルは健在。もし恐怖を掌握されたら普通は支配されてしまう」
「ん? 支配されなかっただろ」
「まぁ、それは無理と言うものだ。あの程度は効かん」
「ふーん」
「興味のない返事はおよし。だけど私の細腕ではそこの巨体を一回殴っただけで折れてしまう。仕置きにもならない。籠から出せば可愛い近衛たちも恐怖に飲まれてしまうだろう? まぁお前らくらいに強ければいけるかと想像していたんだが」
激しい汗を流しながらブレンダが心臓を握り込む。
「心臓の調子はどうだい? 知らないだろうが、お前が産んだ息子にはバトルスキルという稀に見る力が与えられていてね」
ブレンダはひたすらに目を細めて握り続ける。
「私がその能力を見つけて、私兵としてエディに仕事をしてもらっているんだが、恐らく話を総合するとバトルスキルはお前に不利なんじゃないか。お前はずっとエディに違和感を感じていた。度し難いと思っていたんじゃないか……心臓が視えないと、お前、何も出来ないんだろう? ブレンダ」
金眼の心臓はぷるんと震え、ブレンダの手の中で馬鹿にしたようにくつくつと笑い出す。
「ねぇ、エディ。怖いって思ったことはあるかい」
「……こわい、がわからん。嫌ってことか?」
子どものような返しにブレンダはぎくりとする。
エドヴァルドとは粗暴な男である。
生まれてから一度も、怖いと思ったことがない。
「恐らくお前やガストンからは恐怖そのものが最初から装備されていないんだよ……だって考えてみてごらんよ? 馬鹿みたいに突進して死の淵でもなお戦おうとする奴らだ。バトルスキルを活かすには怖いなんて邪魔だもの。はははは、傑作な親子だね」
恐怖を支配する母親の腹に恐怖を置いてきた。
エドヴァルドは最初からブレンダの支配からずれた場所に身を置いている。
「つまり、ブレンダにとって、お前は天敵というわけだ」
「そりゃあ、いい」
にぃ、と笑ってエドヴァルドが立ち上がる。
ブレンダが大量の汗をかきながら必死の形相でジュリアンの嗤う心臓を握り込んだ。
「諦めろ、ババァ」
「エド、ようく考えてごらん! お前を誰が産んだ、産んでくれた」
「何を今さら。馬鹿なのか、産んだのはお前自身だろうが」
「馬鹿はお前だろう!! 来るな、来るな、来るな!!」
「あ、そうだ。さっきお前『もう殺して良いか』と聞いたが、できないよ」
ジュリアンがのんきな声で教えた。
「は!? ……あ、違う。そうだ、そうだった」
エドヴァルドが思い出したように納得すると、ブレンダがあからさまに肩をなでおろす。
「お前は直ぐに忘れるね、エディ。ブレンダは初めてだから教えておいてあげよう。身体は鳥籠の外なんだよ。現実の身体はさっきの場所で変わらずに生きている。寝ているだろうけどね。この鳥籠は実体を伴わない世界だ。つまり法の外でもある……あ、ただし五感は同じだよ。痛みはある! 要はね、何度死のうが元に戻るということだ。そうだね、エディ」
「おー、そうだ。忘れていた! 俺も数えきれんくらい此処で死んだのに。何回でも遊べるんだ、お前がニナを遊んだようになぁ、ブレンダ!」
ブレンダが手を降ろし、青褪めてじりじりと後退を始めた。
「いいぞ、逃げろ。これから始まる地獄に免じて百くらい数えてやる。ぼん様、ニナを」
「ああ。私は先に戻るよ。ニナを起こさなければならないが、暴力は見せられない。お前は好きなだけやったら私を呼びなさい。鳥籠の時間は永遠だが、食事も睡眠も必要はない……ああ、お前はよく知っているか」
「………」
私兵は肩を竦めてからニナを主人に託した。
後ろを振り返ると、暗闇の中で小さく光る巨体が視える。
じっと百を数え切って、すーっと獣みたいに走り出した。あっという間に追いついていく。
「さぁ、行こうか、ニナ」
ジュリアンはニナと共に鳥籠から出た。