14
ひと月近い滞在の後、本格的な雨のシーズンを前に一行はジュアスに戻った。
「おかえりなさいませ」
昼前、にこやかに出迎えるゴールドウィンに『た、だぃま』とニナが返すと、口髭の支配人は口を開けて息を止めた後で目を潤ませた。
精神的なショックによる二年に渡った失語期間は長く、一言が出たからと言ってすらすらとは続かない。思ったことをそのまま話そうとすると言葉と音が弾け、繋がらなくなった。
何を言っても相手に届かず、どう言えば誤解が解けたのか、ニナの喪失感と失った言葉は同じ量だけあった。気が安らげる相手のみ、短い単語や挨拶だけがなんとか音にできた。試しに筆記ならと試みたが、いざペン先を置くと同じように文字と音が弾け、動悸がして手が震える。無理をするなと止められた。
「別に焦って話さなくても良い。話さなかった間でも大きな支障はなかったんだから」
たまにもどかしく吐きそうな顔をするようになったニナに義兄はそう言ってくれるが、根が真面目なので心の折り合いをつけるのが難しい。
「すごいですね、お身体に安心感が出て来ましたね。よく頑張られた」
荷物の指示を出しながら、ロビーで佇むニナを見てゴールドウィンが感心する。実際、棒切れだった身体には三か月近くの間にかなりの厚みが戻った。
「そうだろ。山で毎日歩いて、食が太くなった」
タヒチも男爵の声に頷く。なぜか二人とも得意げである。
「そうそう、毎回ちょっとずつ頑張ってね、量を増やそうとしっかり食べておいでです。辛いもの以外なら何でも口にされますしね」
「一年も経てばすっかり見違える」
「それは楽しみですねぇ」
三人とも想像してにやにやした。
「タヒチは一年後のニナ様にもお目にかかりたいです!」
「ん~、覚えておこう」
相変わらずヨーゼフからの花が届けられ、先々週から本人が届けに来ていると告げるゴールドウィンが特別室の扉を開けた。噎せ返るような花の香りが兄妹を迎え入れる。
「た、だぃ、ま!」
「お。部屋に戻ってきたな。別に家でも何でもないけど妙に懐かしいような。嬉しいか?」
にっこりして頷いたニナを、エドヴァルドがぐしゃぐしゃと撫でまわす。
「おかえりなさいませですねえ! さぁ、お荷物を戻しましょう」
「ん、ん!」
タヒチが荷解きを始める。
ニナも側にしゃがみ込み、手伝う様子を見せた。ゴールドウィンが妹を見つめるリーベルト男爵の顔を見る。
ジュリアンから言い渡された結婚相手を探すための猶予期限は三か月である。
だが主人は五月蠅いので、先日既に手紙を飛ばし、ニナのことは伝えてあった。騎士団寮は出て王城近くに生活拠点を置く予定を記したので、勝手な主人のことである、恐らく帰れば新居の用意も済んでいるだろう。信のおける使用人まで手配済みでもおかしくはない。
「……一週間以内に、宿を発つことになる。医者やタヒチやら面倒をかけた。世話になったな」
「とんでもございません、いつでもお帰り下さいませ」
「はは」
まだ早い別れの言葉にゴールドウィンが淋し気な顔になった。
「素晴らしい宿だったと、王にも伝えておく」
「お、王? 国王陛下のことですか?」
「それ以外におらんだろ」
目を丸くしたゴールドウィンが愉し気に笑い出した。
「これは恐悦でございます! 是非、御贔屓にとよろしくお伝えくださいませ」
「ははぁ、嘘だと思ってるな?」
本当に伝えるんだけどな~、と思いながらエドヴァルドはうんうんと相槌を返した。
「まぁいい。あ、そうだ、ヨーゼフとやらがまた宿に来たら呼んでくれ」
「かしこまりました。お声をおかけいたします」
「ああ、ありがとう」
残りの一週間のどこかでニナと伯爵を会わせ、エドヴァルドは結婚することを伝えるつもりだった。婚約者には諦めてもらうしかない。伯爵家の子息というのが面倒だったが、まぁ、なんとかなるだろと高を括る。
肝心なのは復讐であった。
ニナを痛めつけた奴を置いて王都には戻れない。
同じ分量、あるいはそれ以上の責め苦を与えるか、四の五の言わずに殺してしまうか。迷う所である。
しかし、肝心の相手が誰なのかわからなかった。
ニナに問いただす訳にもいかず、街中で端から尋ねても知っている者がいるのかどうか。公開処刑ならまだしも伴侶を外で鞭うつ奴はいないだろう。後ろ暗いことは閉じた屋敷の中で行われると決まっている。
調べ物を生業とする者を雇って調べさせるのも一つである。頼むのであればと王都にいるプロ数人が思い浮かぶ。
テラスから外を見ていたエドヴァルドの服が後ろから引っ張られた。振り向くと同時にニナが身体に絡みつく。
「エデ」
「うん? あ、久しぶりのドレスだなぁ。その色も良い。今晩は街のレストランに行こう。個室を頼んである」
「ん、ん」
「今晩はタヒチとゴールドウィンも一緒に食事だ」
「!」
「ふふふ、タヒチもお相伴に預からせていただきます」
満面の笑みを見せるニナの頬にエドヴァルドが口づけた。
夕方になり、頼んでいた馬車に乗り込もうとしているとゴールドウィンがエドヴァルドを呼びに来た。
「男爵、ヨーゼフ・アードラー様がお越しです」
「今?」
「ええ、ロビーでお待ちです」
馬車に乗せたニナが奥からエドヴァルドとゴールドウィンを見る。
「タヒチは?」
「恐らく彼女も出発の準備をしている頃かと思います。私たちも出る予定でしたので」
エドヴァルドは迷ったが、早く婚約者を追い払いたい焦りが勝った。いつまでもこれ見よがしに花を贈りつけてくるのも気に入らない。今決着をつけられるならと考える。
「そうだな……ニナ、少し待てるか? 話をしてくる」
馭者の男に少し待っていてくれと伝えると、ゴールドウィンが誘導し、エドヴァルドが宿の中へと消えて行った。
ニナは窓からの景色を見て、じっとして待った。
外には手を繋いで歩く親子や楽しそうな友達と連れ立って歩く人々が見える。
自分も今から久しぶりの街でエドヴァルドと食事に行くのだと思うと楽しみがあり、歩いても良かったかもしれないとのんびり考えた。
ガタッ
揺れと共に大きな音がした。足音が数度響く。
どこからかくぐもった男の声が聞こえ、ニナが顔を上げて視線を彷徨わせた直後、馬車が突然走り出す。
エドヴァルドはまだ乗っていないのに。
ニナはみるみるうちに蒼白になり、心臓が強く脈打ち始める。
呼吸が乱れ、息が荒くなる。
馬車は止まらない。むしろ酷く揺れながら猛スピードで街を飛び出して行った。
◆
「これが、婚約者である証拠です。法的に偽りもありません。リーベルト男爵、このままではあなたを訴えるしかなくなります。早く私の婚約者を返していただきたい」
エドヴァルドは机に広げられた数種の公的証書を見て、ふぅん、だの、ほぉ、だのを繰り返すしかない。
「だがまだ夫という訳でもないし、俺が彼女を保護する権利だってある。リーベルト籍だが義理の兄だ」
「ですが、事実あなたは一日も一緒に暮らしたことはないでしょう。それなのに保護など言えますか? 体よく誘拐していると疑われてもおかしくはない」
「おかしいだろう。俺が誘拐してどんな利がある。大体、婚約者だと大きな顔をするのなら、なぜニナが駆け落ちして直ぐに草の根を掻き分けてでも探し出さなかった? 俺に噛みつく前にしなければならないことを何一つしていないだろ」
ヨーゼフという男は淡々として、理詰めでモノを言うエドヴァルドの苦手なタイプだった。正反対で話が合わず、受け付けにくい。
「何度も申し上げたでしょう? いくら探しても行方は知れませんでした。
地下牢や離れにでも閉じ込められてしまえば人間一人隠してしまうことなど容易い。探しても、探しても、見つからなかったんだ。ほら、これがその当時出した捜索願です。それと婚約が履行されている間の権限については条例の第三項を読んで下さいよ。ここですよ、ここ。義理の兄などよりも私が与えられている権限の方がずっと多いんだ。訴えられて困るのはあなたですよ、男爵」
「通常の婚約者であればそれも良いかもしれないが、ニナの場合は心身に大きなダメージを負っていた。お前は遅かった。ニナの心もお前にはない、手を引いてくれ。そもそも貴殿のことは知らないと言っている。他に女など伯爵家であればごろごろいるだろう? 今後については俺からカヴァニス伯爵に話をする予定だ」
ゴールドウィンがロビーを采配しながらも離れた場所からこちらの様子を窺っている。痺れを切らしたエドヴァルドがいつ合図しても良いようにボーイを後ろに控えさせていた。
「失礼だが、男爵……当家は二十代続く伯爵家です。それをこうしてコケにされたとあっては今後が」
「今後が何だ?」
「言えね、皆迄は言いませんが……貴族社会は横で繋がっている。わかるでしょう貴方にだって」
「わからないなぁ。俺はそういう繋がりの外で生きている人間だ」
「では彼女にも社会の外で生きる人生を歩ませると?」
「ああ、ニナはそれが良い。お前にはわからない」
「分かる訳がありません。良いでしょう、そんな社交の無い淋しい婦人としての生活で良いのか彼女に直接聞いてきて下さいよ」
「聞かなくてもわかる」
大して意味の無い押し問答を捏ねくり回され、辟易した末に『一目で良いから彼女に会わせろ』という男に馬車の窓からならと許可を出して、それで帰らせる策を取った。
ゴールドウィンが先導し、ロビーを抜けて車寄せ前の正面玄関を出る。
だがもちろん、ニナを乗せた馬車は無い。
「馬車はどこだ」
「どういうことですか、男爵」
「馬車はどこだ!?」
エドヴァルドの怒声が鳴り響いた。