13
まるで子猿のように、ニナはエドヴァルドから離れなくなった。
ようやくはっきりと意思が現実に戻り、現状を理解したが、経験した恐怖が消えた訳ではない。むしろ霧のような曖昧な意識下にあった方が死に執着していた分、恐れは遠かった。兄の身体は大きく硬く、側にいれば安全な気がして落ち着いた。
「あ、昨日作った鳥の巣にもう入ってるぞ、ほら……見える?」
頭上を指差す先には三角屋根の巣箱があり、丸くくり抜かれた小さな穴から小鳥が顔を出している。エドヴァルドが教えてやると、可愛い唇が見る間に弓なりになる。ニナは繋いだ手を引っ張ってポケットのパンくず袋を取り出した。
「……ど、ど」
「パンくずは、そうだなぁ。この辺に撒こう。手のひらに持っていても来ないし」
タヒチから貰った袋に指を入れ、『この辺』と言われた場所にパラパラと撒いた。少し離れて見守っていると、小屋から出てきた鳥が啄みに降りてくる。
食べている可愛らしい様子をにっこり笑んで見守り、兄の手をぎゅーっと握る。
「食べに来たなぁ」
頷くと、エドヴァルドが亜麻色の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。ニナはもっと嬉しくなり、口でも手でも表現できずにもどかしくて大きな身体にしがみつく。
「ニナ」
エドヴァルドが細いうなじを片手で包む。
細腕が男の首に伸ばされて暗にねだり、意を汲み取ったエドヴァルドが持ち上げて抱き上げる。しがみつくように手足を絡ませると、ニナは大きく安堵の息を吐く。
「ちょっと休憩して、おやつを食べるか。タヒチが今日は紅茶のクッキーって言っていたな」
「う、う」
肩に顎を乗せて頷く妹を確認して、そのまま抱えて見晴らしの良い場所に出た。平らな場所に腰を下ろし、かいた胡坐の間にニナを置く。
摘まんだクッキーを口に放り込んでやり、膨らんだ頬を撫でるとニナが嬉しそうに目を細めた。また胸にぺたりと引っ付いて来る。
「ははっ。それじゃあクッキーが食べられない」
硬い指が細い腰を撫で、ニナが引っ付きながらもぞ、と身体を捻るとエドヴァルドが頬に口づけた。宥めながら身体を剥がそうとする。
剥がされながらニナも真似をして首を伸ばし、兄の頬に唇を返す。細い指で硬い頬を撫でて、目の前の首に鼻先を擦り付けて甘えた。
少しの言葉は出るようになったが、まだ喉元に留まって空気しか出てこない場面ばかりだった。だけど直ぐに世話を焼くエドヴァルド相手に特段の言葉は要らず、ニナが大きく困ることもない。
溢れそうで出てこない言葉の代わりに身体を寄せて、空いた心の穴をエドヴァルドという安心で埋めていく。だから自然とニナはくっ付いた。今、これ以外の選択肢はない。目の前の男から与えられるものは全てに温度があって丸くて甘く、胸が締め付けられた。
クッキーを食べて食べさせて、ぼーっとして、ただひっついて風を感じる。
互いの体温を感じる間に雲が流れて、空の景色が変わって行く。
のんびりした二人の時間が流れる合間にエドヴァルドは目の前の細い首を柔く食み、額を合わせ、ニナは目を閉じて揺蕩い、刈った黒髪を撫でる。
「……さー、休憩は終わり。行こう」
しばらくゆったりじゃれ合って、身体を離すとニナが淋しそうな顔を見せる。だから結局また引き寄せて、ひっついて歩く。毎日が、その繰り返しだった。
広い別荘に来て部屋が離れたが、湖で朝陽を見た日から、夜になるとニナは猫とエドヴァルドの部屋に来る。ベッドは一つなので戻れと言っても聞こえないふりをしてくっ付いて眠ろうとする。
エドヴァルドには毒にしかならない。
「ニナ~、眠れないからくっ付くなぁ」
「ん」
柔らかく身体を引き離して撫でてやるが、しばらくするとまた引っ付いて来る。
諦めてまた緩やかにじゃれていると、安心しきって寝息を立て始める。
「眠れん」
げっそりしてエドヴァルドが机に伏す。
ニナは居間から続くウッドデッキで鳥にパンくずを撒いている。
「ほほほほほ。ずっと起きていらっしゃるのですか?」
「ずっとじゃない。でも二時間くらいは寝付けない。数を数えて見たり上司の顔を思い出したり、いっそ振り切って娼館を思い出してみたり」
「あらまぁ」
「参る」
「あまり迂闊なことはいえませんけどねぇ……ですけど、ニナ様が嫌がられる気はしませんよ」
毎日様子を見続けているタヒチがにこにこして答えた。以前とは明らかに違い、ニナが意思を持ってエドヴァルドの側にいるのは誰でもわかる。深い依存も感じられたが、身体の傷を思えばそれも自然に思えた。
「俺もそー思う」
「ではよろしいのでは。男爵、王都のご自宅に連れて帰られるおつもりなのでございましょう?」
「うん」
「それはつまり?」
「あぁ、本当の妹じゃないしな……だけど、痛い思いをさせたくない。娼館の女じゃないし、仕事だから我慢しろなんてものでもないし」
「あらまぁ男爵、仕事でも我慢は酷いですよ」
「そらそーか」
エドヴァルドはイリナの言葉を信じていなかった。ニナが男好きだとも思えず、じゃれ合うようになっていても、好いた男と駆け落ちした女が見せるような慣れた仕草は何ひとつ見当たらない。その全部がたどたどしく、何より嬉しそうで、しかもエドヴァルドの真似ごとに限られた。まともな口づけひとつ未だ知らない様子に、堪らなくなってくるのである。昼間はまだ良いのだが、問題は夜だった。
時々、身を差し出されているように錯覚する瞬間がある。
まるでそれは水場に狩りへとやって来た獣を前に、獲物が目を閉じているように。
だけどこんな勘は当てにならない。してはいけない。
「もうあれだ、あれ、睡眠薬を取り寄せてくれ」
大体効かない身体になっているのだが、気休めと一部お休みして頂く為に所望する。
「んま! ん~~~~まぁー……ではタヒチにお任せくださいませ」
「お~」
◆
山歩きをしていると出会う『食べられるなにか』を採って帰り、タヒチと簡単な料理を作るのがニナの楽しみのひとつになった。大抵は塩焼きにして食べる。山草は滋味深く、小川で捕まえる川魚も臭みがない。昼間によく運動するので、塩だけで十分美味しかった。中でもたくさん教えてもらったキノコはニナの好物になった。
その日もニナはしゃがんで籠に摘んだものを入れていく。
エドヴァルドは機嫌の良さそうな妹と、その手から放り込まれていく山草とキノコを見守る。最近はニナが慣れてきたのもあって、楽しそうに選ぶのを邪魔せず口出しもしなかった。
「籠貸して。夕方になる、そろそろ帰ろう」
「ん」
どうぞ、と籠を差し出して受け取ってもらうと腹に抱き着く。エドヴァルドの手がまとわりつく頭を撫でた。
「今日はいっぱい採れたなぁ。でも炒めたらちょっとになるけど。疲れたか? 歩ける?」
にっこりして小さく二度頷き、自分から手を繋ぐ。
繋ぐと言ってもエドヴァルドの太い指はニナが掴めば二、三本で手のひらがいっぱいになってしまうので、指を握ることになる。
「今晩は雨が降りそうだ」
隣の真似をして空を仰ぎ見るが、ニナにはわからない。
「おかえりなさいませ」
「ただぃ、ま!」
「ただいま~」
タヒチが迎えに出てくれる。エドヴァルドが渡したこんもりと入った籠を見て目を丸くする。
「まぁ、今日もたくさんですね!」
「よく歩いたから、な?」
ニナは得意気に頷いて、手を洗いに洗面へと向かっていった。
タヒチとエドヴァルドは籠の中を覗いて、どちらからともなく頷く。
「これは、さすがに食べられませんね?」
「……これまでにもそうかな、とは思う時があった。悪いが、これだけ避けて、後で小さく切ったものをいくつか混ぜて置いてくれるか?」
「よろしいのですか?」
「別に食べても死なん。味も良い」
「へ、召し上がったんですか?」
「悲しい時に食べると効くからな~」
タヒチが笑いながら請け負った。
籠の中には大きくて赤い笑い茸が三つ、明らかに色のおかしな山草が混じる。
ニナはタヒチとキッチンに立ち、教えてもらった手順通りに調理する。採ってきた食材は既にタヒチが選り分けて綺麗に洗ってくれた後。ニナは塩と胡椒をまぶしてキノコを炒め、山菜は茹でてタヒチ特製のディップソースを添える。
「ん!」
コトリとテーブルに皿が二つ並んだ。
「お~」
「美味しそうに出来ましたねぇ。さぁ、ではニナ様もお座りくださいませ」
宿から届けられていた料理をタヒチが温めて少しずつ給仕し、食事が始まった。
「ニナのソテーもうまいぞ、食べてみろ」
褒められて嬉しそうにしているニナの皿へ、エドヴァルドが赤いキノコの欠片を取り分けた。
タヒチの見ている前、エドヴァルドは穏やかな顔で眺める。ニナはパクリと他のキノコと同じようにして笑い茸を食べた。
「美味しいか? 塩加減が丁度良くてうまいだろ」
「んー」
「でも実はそれ、笑い茸だ」
「!」
ごっくん、と飲み込んでしまったニナが目も口も大きく開ける。
「食べたなぁ! うまいだろ? 俺も食べる」
「!!!」
目の前でもう一つの赤い欠片をエドヴァルドが食べた。
「!?」
ニナは食べてしまった驚きと予想外の珍事に笑い出した。しかも意味もなくエドヴァルドまで食べている。どうして一緒に食べているのかと意味が不明で笑いが止まらなくなった。それを見てエドヴァルドも、タヒチまで笑い始める。
「あ~、笑った、笑った。ニナがそんなに笑ったのは初めてだなぁ。言っておくけど今の一口ではそんな笑わないからな。出ても笑いに似たようなしゃっくりだけだ」
「っくく」
「そうだ、それ」
ニナが口元を両手で押さえてまた嬉しそうに笑い始める。
「ニナ」
「ぷふっくく……? ひひ」
「お前、色がわからないんだな?」
「っぅん!」
笑いながら頷いた。
「前から?」
「ふふっ……ん~ん」
「何色ならわかる?」
ニナはにやけながらキョロキョロして、あ、と自分の頬をつついた。
「白?」
「ん」
「白だけ?」
それから立ち上がって、エドヴァルドの黒髪の毛を引っ張る。
「黒ね。後は?」
首を振った。白と黒の世界で、あとは濃淡があるだけだったが、それは上手く言葉に出来ない。
「白と黒か。じゃあ、猫を飼う時は白猫と黒猫にしよう」
「ふふ!!」
「おいで」
猫みたいに暫くじゃれて、タヒチが声をかけるとまた席に戻る。
笑いながら食べている間にしゃっくりも止まった。
夕食後、タヒチはシャンプーで泡立った亜麻色の頭をマッサージする。始めの頃は白髪に縮れ毛、枝毛に切れ毛だらけだった髪も随分としなやかになり、落ち着いてくれるようになった。タヒチのマッサージの腕もどんどん上がっている。
ニナはこの時間が大好きなので、意識がはっきりした今でも身を任せた。自然体で洗われている様子を見ると、タヒチはこの傷だらけでやせっぽっちの娘が令嬢だったことを思い知る。食事のマナーも日が経つに連れて素晴らしく、記憶もしっかりした今では文句のつけようもない。
「ニナ様、痒いところはございませんか?」
「あい」
「今日のキノコも、美味しゅうございましたね」
「ん~!」
「私まで随分とキノコに詳しくなりました。笑い茸にはびっくりでしたけど」
「くふふ。おいしぃ」
「あら、本当ですか?」
うんうんと頷いている。タヒチは皿の中に混ぜた真っ赤なキノコを思い出した。ニナは可愛い声でケラケラと良く笑っていた。
「ニナ様の髪の色は、すっかり美しい亜麻色に戻ってきておりますよ。つやつやで、ピカピカで。タヒチは毎日お手入れ出来るのが楽しみです」
ニナは嬉しそうに目を細める。
「男爵もニナ様の髪がお気に入りです。よくクルクルされますね」
「くるくる」
「でしょう? 髪にもほっぺにも、手にも……色んな所がお気に入りだから、まぁ嬉しそうに茸みたいに食べていらっしゃって」
「ふふふ」
「どうしますか? ニナ様、そのうち全部食べられたら」
ニナは嬉しそうに頷いた。だからタヒチは優しい笑顔でニナに囁く。
「湯の後に香油をつけておきましょうか?」
「ふふふ、ん!」
その夜、エドヴァルドの手には睡眠薬ではなく上等な媚薬が乗せられる。
「俺の注文と違う……」
「タヒチからのプレゼントです」
「なぬ」
甘い香りを纏ったニナが兄の部屋の扉を叩いた。
◆
撫でる手に色を乗せ始めても、ニナは嫌がらなかった。
気持ち良さそうに目を細めて、足を絡めて硬い身体の線を辿る。寝衣をはだけられてもこばむ様子はなく、抱きしめられると身体中の力を抜いて預けてきた。ニナはその先に何が有るのかは知っている。色が無くなるくらいに見たのだから。
寝衣を解いた最初の夜、エドヴァルドはニナの身体に声が出なかった。
縦に伸びる引き攣れたたくさんの鞭の痕、背中に並んだ焼かれた穴。いくつかの穴は肉を抉り、窪んでいた。大きな身体で抱き込んで、何にも言えずに掻き抱くことしかできない。ニナが心配そうにエドヴァルドの頭を撫でた。
ニナは目を閉じて身を任せる。
二人きりの暗い部屋で、『ニナ』と囁かれる度に胸には何かが満ちた。
その気持ちは一般に幸せと呼ばれたが、名前の付け方はわからなかった。
現実には戻ったが、自分という人間はどうしようもなく心細い。
ニナはエドヴァルドになりたいと願うようになっていた。
義兄は自由で、強くて、温かい。羨ましかった。動物が捕食するように、エドヴァルドが自分を食べれば良いと思う。食べて腹に入れてくれれば、ぴたりと重なって安心した場所に居られる。大きな口で舐められると嬉しくて、もっと食べて欲しくなった。だからニナは余すことなく食べ尽くされた。
死よりも深い安寧をもたらす腕の中で眠りに落ちる。
広い別荘のひと部屋、この腕の中がニナの世界の全てだった。