11
「それで、ランディとは会ったのかい」
巨体は煙をくゆらせて愛する娘に問う。
「会ったけど、顔は見ていないわ。あれで会ったって言えるのかどうか」
「どういうこと?」
掛布の小山から出てこない義姉は兄が宥めすかしても微動だにしなかった。
『な、だからまだ外に出るのも難しい』
抱えた小山をポンポンと叩く様子にイリナは白けたのを思い出す。なんだあれは、どういうことだ。出向いてやったというのに顔も見せず、恩知らずな奴だった。
『お姉様、イリナよ』
話しかけても返事ひとつ無い。まぁ、悲鳴以外の声はでないのだが。
『お姉様が突然出て行ってから、本当に心配だった!
ずっと皆が心配して、帰って来るのを待っているの。会いたくって堪らなかったわ。大丈夫だったの? 兄さまって怖いでしょ? ねぇ、早く帰って来て! 兄さまだって忙しいし、これからまだこの宿に長く居続けられる訳じゃないし。屋敷に帰りましょう? もし突然出て行ったことを気まずく感じているなら、そんなの必要ないわ。誰も何も思っていない。とにかく帰って来て、皆に顔を見せてあげて欲しいの。どう、今日これからでも一緒に帰りましょうよ』
エドヴァルドは腕の中の塊を撫でたり小さく叩いたりして語り掛ける。
『ちょっと今日これからは無理だ……なぁ、ニナ』
穏やかな声に優しい手。
兄はこんな奴だっただろうか? イリナは疑問に思う。
幼少の頃こそ家にはいたが、八つも歳が離れているのもあって十三から寄宿学校に入った兄とは微かにしか一緒に暮らした記憶もない。リーベルトから出て行った当時でイリナは六つとか七つの頃だ。家族と言えば母だけだった。ただ顔を合わせれば母と激烈な喧嘩を始める恐ろしい男だった。自分にはこんな風に撫でたりしてくれたこともない。それなのに。
ランディは兄さえも手懐けようとしている。
ほら見ろ、マティアスやボーイフレンドたちだけでなく、この女は根こそぎ周りにいる男を持って行く。魔性だわ。やはり躾なおさなければ。
この状況にあってなおイリナは憎悪と執着を募らせた。
「相変わらず何も話せないままだったわ。わざとらしく掛布の中に隠れて顔も見せない。でも別に兄さまに心を開いている訳でもなさそうね。元々ランディは泣くか悲鳴を上げる以外は人形みたいだったもの。何も知らずに引き取るつもりみたい、馬鹿よね。ふふ」
「ランディが喋らないままなら好都合だ」
ブレンダは長椅子に脚を放り出して寝転び、昇って行く煙を目で追う。
早急に逃げた玩具を回収しなければならなかった。
自分のものだった玩具を突然欲しがりだした息子はこちら側にはこないだろう。元々何を考えているのかわからない。一緒にランディを飼うなら良いが、相性も悪く、想像は出来かねた。自分が産み落とした我が子だと言うのに、いつまでも慣れない。出来るだけ遠ざけて会いたくなかった。ブレンダはいつもエドヴァルドから不穏な何かを感じる。巨大な違和感とでも言うような。
先手を打って社会的にランディを囲い込むしかない。
「ランディに婚約者を作る」
低い母の声にイリナが顔を上げる。
「どういうこと? あの子を嫁がせるの?」
「お前が吐いた嘘を本当にするのさ。どのみち広げた嘘だ、都合が良い。ランディが駆け落ちした後もずっと帰りを待っている、という男を仕立て上げるんだ。駒になる男は腐る程いる。決まっていた縁談があるならエドも諦めて帰るだろうさ。その後で誰にも会わせず屋敷に隠せばいい。いっそランディ用に地下を牢にするか……そうすれば誰にもバレない」
ブレンダはやせっぽっちの可愛い人形を思い出した。戻ってきたらもう少し丁寧に遊ばなければならない。死んでは元も子もなかった。食べさせて太らせて、体力のある状態にすれば遊ぶ時間も何度だって長く取れる。遊んだ後には冷やしたり傷の手当てを手厚くすれば回復も早い。簡単なことだったのに、いつも夢中になってしまうから考えたことも無かったと苦笑する。死なせるくらいなら少しくらい休ませてやっても良い。
離れ離れになって、どれほど自分にとって大事だったのかが身に染みてわかったのだ。
ブレンダは玩具へ想いを馳せてウットリと目を閉じる。
「あぁ……早い所手元に。計画を立てよう」
そわそわと起き上がる。
「何が必要かね……ルーファスには遣いを出して、呼んだら夜中でも直ぐに飛んでくるように念を押しておこう。あとは婚約者候補を書き出してみようか。どれ、エドとは正反対の奴にしてやろう」
ブレンダは夫に沼地の整備を命じていた。女との暮らしを保証する代わりに離れた場所へと追いやって、表向きの伯爵が必要になれば手紙ひとつで呼びつける。
「まぁ、お母様ったら意地悪ね」
久しぶりにくすくすと笑う声がカヴァニスの屋敷に響く夕刻であった。
◆
掛布の中から出てこないニナは食事も食べなかった。
イリナが帰ったと言っても出てこない。
エドヴァルドはどうしたものかと唇を尖らせる。
困っていた所、タヒチから『猫のぬいぐるみを選んだ』と聞いたので、ゴールドウィンに頼み、人気のない夜中の中庭へ掛布ごとニナを連れ出した。敷物を広げてもらい、掛布が汚れないようにそうっと下ろす。
「よーし、今から、俺の得意技を披露する」
つまり猫の鳴き声である。
ニナは掛布の中で長らく無になっていたが、その猫の声は耳に届いた。
「ナーオ……ノォー……ニャアー」
屋根裏の夜と同じ、妙に高い声。
「ニャー……あ、もう来た」
屋外なので屋根裏と違って即座に湧き出てくる。茶トラの子猫がナーナー鳴いてエドヴァルドの膝にやってくると、続いて白やまだら模様の子猫たちもコロコロと胡坐の中に転がりこんだ。
あまりにか細く頼りない鳴き声につられて、掛布の中からそろりとニナが顔を出した。
目尻に皺を寄せたエドヴァルドが、出てきた亜麻色の頭をわしゃわしゃと撫でる。
「やっと出てきた。今日はあんまり顔を見れてない」
棒きれの痩せた腕が伸びて、膝の上で鳴く子猫をつつく。
「膝にのせるか?」
兄の言葉にじっとしていると、首の後ろから回った腕が掛布を取った。スマートに近寄る支配人が無言で持ち去ってくれた。
摘まみ上げられた白猫が膝の上にやってくる。ニナはぬいぐるみの猫を大事そうに脇に寄せ、ミーミー鳴く猫を撫でた。
「ニナ、猫が好きか?」
「………」
ニナは何も答えなかったが、明らかに唇は弓なりで気持ちが知れる。
白くてふわふわの毛玉は温かく柔らかで、小さく弱弱しい。
「一緒に暮らすようになったら、猫を飼おう。犬でも良いな」
「………」
ニナは子猫を愛で、兄が何か話しているのを横に、ここが外だと気が付いた。
部屋ではテラスに出してもらえない。また死を探して中庭を見回した。
夜なのでもちろん暗いが、宿の仄かな灯りもあって視界に問題はない。
小さくて美しいはずの白黒の庭、ガゼボ、アイアンのベンチ……昏い井戸。
井戸に飛び込む自分を想像した瞬間、耳元でエドヴァルドが噛んで言い含めるようにゆっくり音を出す。
「あの小さな井戸に、落ちただけじゃ、死なん。痛いだけだ」
エドヴァルドが膝にいた子猫をニナに渡し、代わりにニナを胡坐の中にいれた。
チラとも兄を見ず、ニナは再び猫に目線を戻すが、その後も時折思い出したように身を固くして井戸の方に頭を向ける。兄は無理かもしれないが、自分なら死ねる期待が捨てられない。
「ニナ、ほら猫が呼んでるぞ」
「………」
「さぁ、部屋に戻ろう」
ひとしきり猫とじゃれてから立ち上がり、井戸に後ろ髪を引かれるニナを黙って抱き上げて中庭を去る。だが歩きかけた時、ニナが顎下の肩を叩いた。
「うん?」
首を捻って、悲しそうな焦ったようなニナの視線を辿り、ぬいぐるみが落ちているのを見つけると、一拍置いて『ははぁ』と言いながら拾ってやる。
ビロードに似た手触りの猫はニナの表情をホッとさせた。釣られてエドヴァルドも笑む。
「タヒチに礼を言わないと」
二人が去った後の敷布には、子猫たちだけが残った。
二、三日は落ち着かなかったニナだったが、その後、イリナは現れなかった。
その代わりに『ヨーゼフ』という男から、毎日ニナ宛に花が届けられるようになる。エドヴァルド宛に添えられた手紙には、自己紹介と駆け落ち前から決まっていた婚約者であること、ずっとニナを諦めきれずに待っていたので返して欲しいと書いてあった。ヨーゼフはアードラー伯爵家の次男だった。クロイドとはいかないが格式は高い。
ニナは婚約者がいるのかと聞かれたが、表情一つ動かない。エドヴァルドは頭をガシガシ掻いた。
花には罪もない。
毎日、毎朝、タヒチが喉に刺さった魚の小骨みたいな花束を花瓶に生けた。
その他には医者が来てニナの状態をチェックしていったくらいで、何も起こらなかった。エドヴァルドもタヒチも丁寧に穏やかに、ニナとの時間を過ごした。
◆
ニナは甘いパンを好んで食べる。
タヒチが朝に持って来る種々のパンの中から自分で取るのはいつも砂糖をまぶしたパンやクリームが挟まったパン、ジャムを付けて食べるスコーン。
「朝でも昼でも、ニナは甘いパンが好きだなぁ。菓子も好きだし。でも肉も食べろ。口開けて」
残り短い日々、好きな物だけ食べて過ごした方がより良い最期になるとニナは考えた。屋敷にいた頃は、もう長らく口内が真っ白になる程の酷い口内炎による膿で匂いも味もしなくなっていたが、それもなくなり、兄が色んなものを食べさせるようになって『味』の存在を思い出した。
すっぱい、しょっぱい、からい、にがい、濃い、薄い、しぶい。
中でも『あまい』は安心だった。裏切らず、まるくて優しくて、特別で、休息そのもの。それはやがて眠気を連れてくる。
口に入れられたマスタード付の肉をもごもごと噛んでいると、今日は昼間に少し外に出てみようかとエドヴァルドが誘ってくる。
「靴を買おう」
ニナの足元には包帯も取れ、エドヴァルドが毎日塗り込んだオイルのお陰ですっかり見違えた足指と、何の変哲もないルームスリッパ。これしかない。
「そろそろ外も出歩ける。外食したり、買い物や芝居を観たり、何かしたいこともあるだろう。その為の靴だ」
自分の足元から琥珀色の瞳に目線を移し、ニナは他人事のように聞いて、また甘いパンをかじる。
スリッパしかないので、靴屋までエドヴァルドがニナを運んだ。
予め一番近い靴屋に女性用の多めの靴と部屋を用意しておくよう頼んであった。
「いらっしゃいませ、リーベルト男爵。ジュアスの支配人から承っております。お部屋を用意しておりますので、こちらにどうぞ」
「悪いな」
通された部屋にはたくさんの女性向けの靴が並べられている。
「まずはお嬢様の足のサイズを測りましょう。失礼しても?」
そうっとソファに降ろされてから、ニナは若い女性に足のサイズを測られた。
「では、お勧めを並べますが何かご希望はありますか?」
「………」
「お色などお好みはございませんか?」
「………」
何も言わないニナに店員は眉を下げたが、貴族令嬢の流行りを並べてみることにした。ソファの横に座るエドヴァルドには門外漢の領域なので、アドバイスも何もない。
「どれでも良いから履いてみろ? そこのピンクとか黄色とか? 何足でも選んで良い」
「………」
ニナはつやつやに光る白と黒ばかりのパンプスを端から眺め、適当に一番近いものに足を入れる。どれがピンクでどれか黄色かはわからないし、どうでも良かった。
「少し歩いてみられますか? 痛いなどがあれば仰って下さい」
言われるがまま小さな一歩を踏み出して、わずかによろけ、二歩目でもっとよろけて店員と兄の左右から伸びた腕が身体を支えた。
パンプスのヒールが高いのだ。ニナはもう何年もヒールのある靴など履いていない。踵の高い靴を履きこなす気概も筋肉もない。店員は履きなれていないのだな、と痩せぎすの女を改めて見た。
「もう少し歩きやすい靴をご用意いたしますね」
ヒールの高い靴は除けられ、低くてペタンコな靴が並べられた。今度は普通に歩いている様子に頷き、エドヴァルドは並べられた色とりどりの靴を全部買った。
「靴は今履いているものはそのまま。他は全部ジュアスに届けてくれるか」
「かしこまりました、そのように」
「ニナ、少し散歩して帰ろう」
靴屋を出て、二人は大きな通りを歩く。
太陽が一番高く昇りつつあった。眩しい白にニナは長い睫毛を伏せる。
昼間の街は活気があり、貴婦人が買い物をして、恋人たちが手を繋ぎ、カフェで友達同士が笑っている。
「いらっしゃい、いらっしゃい、今、一番お土産に喜ばれる流行りの菓子だよ、おひとつどうでしょう!」
パステルカラーの絵が描かれた看板の前で呼子の声にエドヴァルドが止まり、透明なゼリーの四角い塊に砂糖がかかった菓子を買った。
「食べる?」
ひとつ摘まんでニナの目の前に見せてくる。
菓子は陽に透けてキラキラ輝く。長い指がゆっくり口元に近づいて指が離れると同時にニナの口が開く。
「甘そうだな。うまいか?」
まるくて優しくて、すごく特別で、休息そのものの味がして、ニナは思わず頷いた。少し頬を染めて、エドヴァルドに不似合いな絵柄の紙カップを自分の手に取る。
「気に入った? 違う種類のも買って帰るか」
砂糖が付いた手でエドヴァルドは亜麻色の頭をぐしゃぐしゃ撫でた。
それからまた、通りをゆっくり歩く。
昼を過ぎ、遠方からの客で街はいよいよ活気づいてきた。陽射しも強くなる。
人々は強面のエドヴァルドを見ると大抵避けて行くし、大きな身体で陽射しが遮られ、ニナは歩きやすい。
それでも薄っすらと滲んだ汗を時々エドヴァルドが世話を焼いて拭ぐい、食べて歩けば喉が渇くだろうと水を飲ませた。
「昼飯の前にどこか入りたい店はあるか? 前に行った店とか。あ~…あの店は? 若い女たちが入って行くぞ。人気っぽい」
通りの向こう、指差された店に楽しそうな若い女性たちが出入りしているのが見える。
ニナの足が止まった。
その店を知っていた。何度か侍女のランディとして連れて行かれた店だった。おかしな化粧を施され、妙な服を着せられて連れ回される先の一つ。甲高い声の女たちが合唱のように自分を笑ったお店。
足を止めて顔をこわばらせた様子にエドヴァルドが気づく。少しの間、辺りを見回して黙っていた。
「……帰ろうか。俺が間違えた。もう一度靴屋にだけ戻って良いか? その後、帰ろう」
屈んで問うてくる言葉に、ニナがひとつ息を吐いてホッとした様子をし、小さく頷き返した。
それから靴屋に戻ったエドヴァルドは同じ女性の店員に何かを頼み、ジュアスに戻った