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 ぶつりと糸が切れた瞬間から、ニナの記憶はほとんどが曖昧だった。

 二週間以上を泥のような睡眠で過ごし、合間合間に訪れる悪夢にうなされて汗をかく。

 悪夢の中ではいつものようにブレンダが自分を折檻した。

 濡れ衣や罪の捏造があってから懇願する暇もなく、声を出そうにも出てこない中、怒涛の暴力が降り注ぐ。痛くて苦しくて辛くて堪らない。おかしい。もう自分はいくら殴られようが何も感じなくなっていたはずなのに。


 だけど、誰かが自分の背中を優しく叩くのに気づく。

 それでこれは夢なのだと気づけた。

 誰かは大きな手で撫でて、時に抱きしめ、汗を拭ってくれる。

 そうしてクタクタな中、どこかで聞いたことのある陽気な歌をうたってくれた。

 手のひらや鞭、火つけ棒を振り上げるブレンダはぐにゃりと歪んで消える。


 その手の中は安全地帯になった。


 日が経ち、泥のような眠りに浸かった意識がうつつに浮かび上がるようになると、薄目の向こうにいつも同じ誰かがいることに気が付いた。手の人なのは匂いでわかる。歌の人なのは声でわかる。

 白と黒の茫洋とした世界はいつも知らない部屋で、ニナと呼びかけられては何かを飲まされていた。味はしない。なんの香りもない、だけど温かい。

 空腹などわからないのに、腹が満たされるとまた安心して眠たくなった。

 もしかすると、もう死んでいるのかもしれないと眠りに落ちる寸前に何度か思った。それならここは天国なのかもしれない。


 腕の中は幸せな場所になった。



「ニナ、林檎を食べるか?」

 その朝、唐突にこの人が義兄であると思い出した。

「林檎はすりおろしてある。葡萄は皮を剝いて貰った。ほら」

 運ばれてくる果物に口を開き、甘くて少し酸っぱい果汁が舌に広がって小さく震えがくる。

「酸っぱいか? はは、ぶるった。んー……うん、葡萄はちょっと酸っぱいな」

 美味しかった。小さく口を開けると、また指で摘まんで入れてくれる。

「好きなのか……葡萄が好き?」

 返事の代わりにまた口を開ける。クツクツと笑う声と甘酸っぱい葡萄がやってくる。

 手を伸ばして、兄の持つ小鉢を触る。

「お、自分で持つ? ちょっと待て、フォークを……手がべたべたになる」

 膝の上から降ろされて、ニナはぺたりと座り込んだベッドから、立ち上がる兄を認識した。


 そうだ、街に来る途中に、会った。

 何かを一緒に食べて……食べて?

 溶けるように眠っていた間、兄はずっと一緒にいた。あの手の人はこの人だ。


 ただ事実として受け入れて、だけどどうでも良かったので、それよりも、もう充分に休めたと確認した。素晴らしい睡眠だった。誰にも起こされず、静かで気持ちの良い眠りに自分自身が無くなるまで溶け込めた。別に眠っている間に死んでも良かったのだが。

 挙句に食事まで与えてもらい、最後はこうして好物だった果物まで。


 想像を上回るご褒美の連続で、ニナはいよいよ思い残しがなくなった。

 さて、ではどうやって終わりにするか、である。

「はい、フォーク」

 差し出されたフォークを横目に部屋の隅々まで見渡して、死に方を探した。

「ニナ、こっちだ」

 ふるふるの実が唇に当たり、垂れた果汁に無意識で口を開けるとフォークに刺さった果実が落ちてくる。ひょいと折りたたんだ片足の上に再び乗せられ、葡萄に興味を無くしているのにエドヴァルドがせっせと果実を運んでくる。

「よく噛んで食べろ」


 ここはどこかの宿のようだった。

 部屋は広く、ニナがいつも寝ているベッドと、少し間を空けて恐らくエドヴァルドが寝ているベッド。大きく開いている四枚扉の向こうには四人用のソファテーブルと、もっと奥には別の部屋があってダイニングセットが置かれていた。壁には抽象画がかかり、ニナは知らなかったが、ゴールドウィンから部屋付の専任メイドを頼まれているタヒチという女性従業員がいて、彼女がニナの為にと生けた花々が飾られている。タヒチは眠り続けるニナの身体を拭いたりもしてくれていて、支配人と共に事情を知る貴重な一人でもあった。


 他にはクロゼットと風呂場、洗面、トイレ。

 キッチンが無いので刃物は無さそうだった。

 飛び降りるのが手っ取り早そうに見える。

「どうした、外が見たいのか」

 大きな掃き出しのガラス窓から先は、特別室らしく広めのテラスがあった。張り出した白い布の屋根と風に揺れる観葉植物が見える。

 じっと空なのかテラスなのかを見つめているので、エドヴァルドがニナを床に立たせ、テラスへの窓を開ける。

 久しぶりに床に立つと、足に包帯が巻かれているのに気が付いた。つられて兄も足元を見る。

「あ~、包帯な。サイズの合わない靴で長く走ったろ? 足が酷いことになってた。毎日薬を塗って、今はもう跡が残らないように綺麗になる油を塗り込んでる。ちょっと滑るかもしれんから、気を付けろ」

「………」


 風呂場で足を滑らせて死んだ男が蘇る。

 ニナは静かに手摺にむかい、下を覗き込んだ。ホッとした。割と高い。

 気負いなく、そう思った瞬間にぽん、と飛んだ。

「あっ、と」

 しかし飛ぶと同時に後ろから手が伸びて、エドヴァルドが目の前で飛んだニナを捕まえた。

「!?」

「いやいや……え? 大分高いぞ」

 微かに顔を顰めたニナにエドヴァルドが苦笑する。


 死ぬつもりだったのだと理解したが、とりあえず何も言わなかった。

 大きな身体で妹を子供みたいに両脇から持ち上げなおして胸に抱きしめて、背中をぽんぽんと何度も叩く。

 ニナはしばらく険しい顔をしていたが、すぐ横にある男の首の匂いが少しずつ苛立ちを収めていく。エドヴァルドはのんきに陽気な歌をうたいだして、そのうち何もなかったかのように部屋に戻った。



 ◆


「男爵、お客様がいらっしゃいました。イリナ・カヴァニス伯爵令嬢です」


 ホテルの部屋のドアから聞こえた名前に、ニナの心臓が激しく音を立てる。

「来たのか? ここに?」

「はい、ロビーでお待ちです。お部屋へ?」

「………部屋はなぁ」

 エドヴァルドは考え込む。虐待していたと思われる夫の件など込み入った話が聞きたいので、ニナには聞かせたくなかった。だけど今のニナを一人にするのは危うい。テラスから躊躇なく飛んだ姿を思い出すと肝が冷えた。

「差し出がましくなければですが、私とタヒチとでお嬢様と一緒にお待ちいたしましょうか」

 何らかを察したゴールドウィンが有難い申し出をしてくれて、少し離れた所にいるタヒチが嬉しそうに頷いている。エドヴァルドは甘えることにした。ニナを決してテラスには出さないでくれ、と言い残してそのままロビーへと降りていく。


 ニナはテラスどころか、ベッドの上で掛布に包まり指先一つ出てこない。

 迎えが来てしまった。

 どうやって居場所がばれたのか、やっぱり義兄が教えたのか……もう二度と戻りたくはなかった。早々に終わるつもりで上手くいかない死への渇望を一層強く募らせる。


「ニナ様、美味しいお茶はいかがですか」

「ニナ様、手品などいかがですか」


 ゴールドウィンが低く渋い声でいくら誘っても出てこない。

 掛布の小山と困った支配人がじっとり相対していると、遅れてタヒチが両手いっぱいの荷物を抱えてきた。

「ニナ様、タヒチでございます! いつもぐっすりお休みの時ばかりで……嬉しくて、さっき急いで通り沿いの店に行ってきたのです。ニナ様がもっとゆっくりお休みされる為に、タヒチはどれが良いかわからずで、たくさん買って来てしまいましたよ、うふふふ」

 陽気な声でゆっくり話すタヒチの声にも聞き覚えがあった。

「今日は掛布の中がお気に入りなんですね? わかりましたよ、じゃあ全部ベッドに置いてみましょう。気に入ったぬいぐるみがあればいいのですが」

「………」


 くま、ねこ、いぬ、うさぎ、らいおん、くじらに、おほしさま。


「タヒチ、いいね。夜のおともにぴったりだ」

「そうでしょう? 手触りが癒されると評判のお店なんです……さぁ、ニナ様。いかがです? くま? 猫ですか?」


 小山の中から現れたぐしゃぐしゃのニナが、顔だけ出してぬいぐるみたちを見る。そうして猫を掴んでまた戻って行った。

「見ました? 支配人。まるで猫が猫を持って行ったようでしたねぇ」

「ははははは」



「兄さま!」

 階段を降りた先、シャンデリアが吊られたロビーでは感極まった表情の実妹が両手を振って呼んでいる。

「久しぶりだな、イリナ」

「ええ、おかえりなさいませ、無事のお戻りで何よりです」

「ははぁ。お前も少しは大人になったか」

「もう十九ですもの、大人にもなりますわ」

「そーか」

「それで、それで兄さま、早速ニナのことなんだけど」

「とりあえず座ろう」

 二人はロビーに並んだ応接セットのひとつに腰かけた。エドヴァルドが給仕に茶を頼むのも待ちきれぬとばかりに、イリナが前のめりになって兄へと詰め寄る。

「どこでどうやってニナと!? あの子はどうしているのですか!?」

「手紙にも書いただろ。身一つにボロボロの服で馬車道を歩いていた。俺はカヴァニスの屋敷へ向かう所だったんだ」

「ニナはその時、何か言っていましたか?」

「何かって、何を」


 イリナは慎重に言葉を選ぶ。

 兄から送られてきた手紙には、母子の鬼畜とも呼べる所業が気づかれた気配は感じられなかった。兄はリーベルトの人間で、長らく他人も同然である。兄が過ごした国外での三年と閉ざされた屋敷の三年はあまりにも乖離した時間が流れていた。どうも勝手に勘違いをして、第三者がランディを追い詰めたと思っている。

 だがそれでいい。イリナもブレンダも、ただ玩具を返してくれれば、それで良かった。


「……ねぇ、お手紙にもありましたが、ずーっと何も話さないのは本当なのですか」

 にやけないように口元を隠して問う。

 イリナも長らくランディの声を聞いていなかった。多分もう度重なる折檻のショックで喋ることが出来なくなっていて、それもわかっている。

「ああ。まだ何も……ぶっ倒れてからは寝てばかりで。何も話してない。ちゃんとした食事もようやく食べだしたところだ」

「食事を?」

「医者が驚くくらいの、ぎりぎり生きているような状態だった。倒れた時に熱も出して、体力も、たぶん気持ちも……何もかもが空っぽになった。そこから薬やスープから始めて、吐いたり腹を下したりを繰り返して、ようやく普通に食事ができるようになってきた。言ってみれば、重傷の負傷兵が身体だけ生きることを思い出したような状態だな」

 だけどまだ心まで追い付いていない。エドヴァルドは部屋に置いてきたニナを想う。


 イリナは小さく頷きながらその話を聞いた。

「なぁ、ニナはなんであんな状態になった?」

「……はぁ……」

 イリナは大きく息をつく。腕の見せ所である。

「兄さまの予想通りよ。だけど少し違うわ。ニナは……お姉様はどこかの男と駆け落ちをしたの。お母様の反対を押し切って。お母様はもっときちんとした貴族に嫁がせようと準備していたのに。だけど突然出て行ってしまったの。方々手を尽くしたけど、ずっと行方不明だったのよ。だから手紙を貰って、慌ててとりあえず私が迎えに来たの。お母様も心配してるわ」

「男と、駆け落ち……?」

 エドヴァルドがもやんと想像しながら呟く。

「なにか、身体に大変なことをされた跡があるって話みたいだけど、その男の仕業でしょうね。でも、もしかしたらだけど、怒られるようなことをお姉様もしたのかもしれないわ」

 言い辛そうに口元を覆った妹をチラリと見ると、お姉様には私から聞いたって言わないでね、と念を押してくる。

「そういう感じに見えないけど、お姉様は大変な男好きなのよ。昔に私とマティアス様が拗れてしまったのも、お姉様が原因だった。沢山の男が寄って来るのに、お姉様は満足しないの。マティアス様もお姉様に騙されて、随分と仲良くされていた時期があったのよ……ぐす……」

「………」

 エドヴァルドは、昔この目の前の妹が言った『お姉様は殿方に興味が無いの。嫌なんですって』という言葉を思い出していた。自分はその言葉があったから未婚に期待してのこのことやってきたのだ。

「うう……でも今はもう、いいの。立ち直ったわ。マティアス様は夫になるのだし。だからお姉様も駆け落ちした後でも他に恋人がいたとか、そんなことで怒らせたのではないかしら」

「………」

「兄さま?」

「……あー…うん、で、それで、駆け落ち先から逃げてきたんじゃないかって、そういうことだな」

「ねえ、兄さま、ラン……んん、ニナを返してくれない?」

「帰すって、そりゃあ、屋敷には出向くつもりだが」


 エドヴァルドはむくむくと湧きおこる胸中の靄に実妹を眺める。

 男好きの義妹が、男と駆け落ち。


「お母様も心配しているの。ニナにカヴァニスの屋敷でゆっくりして欲しくて。連れて帰って良いかしら」

「今?」

「きっと兄さまには途轍もない手間をかけさせちゃったでしょ? 兄さまはニナとは他人みたいなものだし、騎士団なんて忙しいのに」

 エドヴァルドは首を振る。

「いや、それは別にどうでも。だけど、ニナは俺が引き取りたい。だいぶ気持ちも落ち着いてきたみたいだから、たぶん今離れるのはニナの為にも良くない」

 イリナは目を丸くする。

「兄さま? 正気? 犬猫を連れて帰るのとはわけが違うのよ。血も繋がってないお姉様を引き取る理由がないわ」

「………」

 エドヴァルドはイリナの言葉に肩を竦めただけで、それ以上は何も言わなかった。

 血が繋がっていたって自分を曝け出せる訳でもない。実妹と自分の間に信頼関係はほとんどない。

「とにかく、カヴァニスの屋敷がみんな待っているの。これ以上の心配をかけないでちょうだい」

「だが、伯爵もあの女もニナがこうなっていることを把握も出来ていなかった。預けられる気がしないなぁ。その駆け落ち先の男が引き取りに来たら丸め込まれて直ぐ引き渡したりするんじゃないのか」

「そんな……そんなことないわよ。男と逃げなかったら今でも家にいただろうし。酷い目に遭わせた人に渡したりなんかしない。お姉様だって生まれ育った生家が一番落ち着くに決まっているでしょう」

「すぐに迎えに来ない伯爵も父親としてどうだかな。普通飛んでくるだろ。頼りにならないから屋敷に逃げ帰らなかったんじゃないのか。街は屋敷と反対方向だ」


 イリナは舌打ちしそうになる。

 思っていたより兄が厄介だった。

 ランディは私とお母様のものなのに!


『ランディ』が逃げて以来、ブレンダとイリナは凄まじい欠乏感に喘いでいた。

 麻薬みたいだった気持ちのはけ口が突然失われて、ブレンダは皿やグラスを投げつけて荒れ狂い、使用人たちが理由のない怒りに触れて鞭打ちや殴打の餌食になった。使用人たちも、それまでランディが一手に引き受けていたきつい仕事と主人の癇癪が分散されるようになり、たったひと月で悲鳴を上げ始めている。

 カヴァニスの屋敷は今、全員がランディを待ちわびていた。

 イリナだって誰も持っていない特別製の玩具が消えてしまったのだ。手放すなんて決めていないのに全く納得いかなかった。薬の残ったボーイフレンドが額を切る大けがをしたあの朝、何があったのかは大体想像がつく。薬のせいなのかしらばっくれているのかボーイフレンドは何も語らなかったが、その件は反故にすると決めている。責めずにまた屋敷で飼ってやるつもりで迎えに来たのだ。

 ぽっと出の兄などにくれてやるわけにはいかない。


「とにかく、お姉様は屋敷で引き取るわ」

「ほぉ」

 エドヴァルドはどうでも良さげに頷いた。

「もう、聞いていらっしゃる? 私の話……ねぇ、兄さま、お姉様と会わせてくださいな」

「………」

「いい加減になさって? お姉様を独り占めして! 私の方がずうっと長くニナと姉妹だったのよ。それが駆け落ちで突然離れ離れになって! どれくらい淋しかったか……それに、きっとお姉様もカヴァニスの屋敷には戻りづらいと思うのよ。だから、いつでも戻ってきて大丈夫だって、直接伝えたいの。良いでしょう? それくらい」

 エドヴァルドは少し考えた。

「わかった。じゃあ、会ったら今日のところは帰ってくれ。まだ外に出せる段階じゃない。目を離したら死のうとする……俺がいても宿の部屋くらいじゃないと危なっかしい。もう少し時機を見て屋敷に連れて行く」

「何ですって!? 絶対に死なせないでよ!」

「……おお」

 妹の強い剣幕にエドヴァルドはやや驚く。

「ルーファスお父様だけど」

「ああ」

「しばらく用事で家を空けていらっしゃるの。帰って来る時は先に必ず連絡してちょうだい。戻って来ていただくから」

「用事はいつまで?」

「さぁ、お仕事ですもの、私にはわかりません」

 エドヴァルドは了解し、イリナと共に部屋の前へと戻った。


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