最終回「戦乱から泰平へ」
安国寺恵瓊は取り調べののち、石田三成らとともに処刑された。関ヶ原の戦いは、これで本当の意味で幕を閉じたのだ。
勝った家康は、名実ともに日本の支配者となる。
しかし、戦乱の火種はまだ消えていなかった。
関ヶ原で負けた殿様の中には、領地をすべて取られた人も多い。現代でいうなら会社の倒産だ。当然、その家来も職を失うことになる。そして再就職できなかった人の多くは、徳川家を恨んだ。
さらに豊臣家は、前は家来だった家康が好きかってにふるまうのが面白くない。
そんな彼らが手を組むのは自然のなりゆきといえる。
全国から浪人、つまり失業した侍が豊臣家のもとにかけつけ、死なばもろともと徳川に戦いをいどんだ。世にいう大阪の陣である。
一六一四年の冬、大阪冬の陣を経て、一六一五年の夏、大阪夏の陣で豊臣家は滅んだ。
これで本当に戦国時代は終わった。のちにヨーロッパで「パクス・トクガワーナ(徳川の平和)」と呼ばれ、世界的にも珍しい二百年以上も戦争のない時代、天下泰平の江戸時代がおとずれたのである。
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さて、その平和のなかで、戦う相手がいなくなった信商はどう生きたのか、子孫はどうなったのか。それを簡単に解説して、このお話を終えようと思う。
彼は恵瓊を捕まえた働きを認められ、さらに百石を与えられた。年俸が二倍になったわけで、これは大出世といってよい。
そののち、今回の一件が縁となったのかは知らないが、松平の殿様が家康から領地をもらったとき、奥平家から移籍して松平の殿様の家来になり、新しい土地に移っている。
今風に言うなら、社長の息子が新会社を作るとき、大事な初期メンバーにスカウトされたわけだ。
これには奥平の殿様の、息子を応援してやりたい気持ちもあったろう。もしかしたら信商に「出世した息子を支えてやってくれ」みたいな言葉がかけられたかもしれない。
戦乱の世が終わり、戦で手柄を立てるチャンスがなくなったこともあり、信商はもう歴史に出てこない。ただ、強右衛門の名前を代々受けついだ子孫は松平家で活躍し、千二百石の家老、今でいう副社長クラスにまで出世したという。
これは初代が長篠でみごとな最期をとげたこと、信商が恵瓊を逮捕したことだけでなれる地位ではない。
千石を超える武士は超エリートなのだ。ちなみに、テレビの時代劇「鬼平犯科帳」の主人公が四百石。その三倍だから、どれほどすごいか分かるだろう。代々の強右衛門たちは能力にもすぐれ、仲間たちとうまくやる気づかいも欠かさなかったことがうかがえる。
松平家は江戸時代を通じてあちこちの領地を転々とし、鳥居家も行く先々でその土地の発展に尽くした。
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そして時は流れ……
坂本龍馬や勝海舟、新撰組らが激動の世をかけぬけた幕末、鳥居家が歴史の表舞台に戻ってくる。
簡単にいうと、ある戦争で戦いをやめる約束を交わし、書類にサインをするわけだが、そのサインは一人だけが書き、何かあったとき(つまり、戦いをやめるのに反対の者が勝手に戦争を続けるなど)は全ての責任を負う、とのこと。
戦いはいやだが責任はとりたくない。みんな「誰がいく?」と顔を見合せるなか、つと進みでて堂々とサインをしたのが、当時の鳥居家当主、十三代目の強右衛門こと商次であった。
いざというときは責任をとって死ぬ覚悟で、戦いをやめさせた商次。人々は「さすが勇士の子孫よ」と、初代から受けつがれた心がけをたたえたという。そして現在も、鳥居家の血筋は健在である。
味方を裏切ることなく、命を捨てて役目を果たした初代。
手柄をひとり占めせず、仲間や松平の殿様の顔を立てることを忘れなかった二代め。
人々を戦火から救うため、すべての責任を負う覚悟でサインをした十三代め。
たとえ貧乏くじを引いても、仲間のために自分を犠牲にする。それは「自分さえよければいい、いやなことは他人にやらせて、楽して美味しいとこだけひとり占めするのがカッコいい!」という考えが当たり前になった今の時代には合わない、古く不器用な考えかもしれない。しかし、そんな現代だからこそ、彼らの生きざまが胸を打つのではないだろうか。
戦乱から泰平の世をあざやかに生きた、歴代の強右衛門たち。初代の勝商はいまも、JR飯田線の鳥居駅にその名をとどめている。
【おわり】