第三話「関ヶ原の後始末」
時は流れた……
長篠の戦いから七年後の一五八二年、武田勝頼は信長によって滅ぼされる。
しかしそのわずか三ヶ月後、信長も家来の明智光秀に不意討ちされ、「本能寺の変」で命を落とした。
天下統一に王手をかけていた信長が死んだ。当然、その後がまの座を狙って、激しい戦いが繰り広げられることになる。
光秀は、信長の家来の羽柴秀吉に倒される。殿様の敵討ちをしたのをいいことに、彼の力は増した。
これをよく思わない者もいたが、秀吉はときに戦い、ときに説得して対立する者たちを次々にやっつけ、家来にしてゆく。徳川家康も秀吉に従う道を選んだ。
そして一五九〇年、出世して羽柴から豊臣へと名字を変えた秀吉の天下統一がなされた、のだが……
その栄光は短いものだった。
日本を統一した秀吉は、次は海の向こうを手に入れてやるぞと朝鮮半島を攻めたがうまくいかない。無理な戦争がたたって国は貧しくなり、また家来たちの間にも仲たがいが起きた。
やがて彼は、幼い息子を残して死ぬ。
ここで、それまで秀吉の下でおとなしくしていた家康が、わがもの顔にふるまい始める。つまり「信長に秀吉、わしより強いやつはみんな死んだ。もう徳川家に逆らえるやつはいない」というわけだ。
やりたい放題の家康を見て、秀吉の家来だった石田三成は「このままでは豊臣の天下が徳川に乗っ取られる」と考え、家康と戦うことを決める。
ときに、西暦一六〇〇年九月十五日。
いまの岐阜県関ケ原町にある関ヶ原で、日本をまっぷたつに分けた、文字どおり天下分け目の戦いが行われた。戦国時代で最大の合戦、関ヶ原の戦いだ。
家康ひきいる東軍、その数七万五千。
三成の呼びかけに応じた武将たちの西軍、八万。
西軍に裏切り者がでたため、この戦いはあっけなく家康の勝利に終わる。
敗れた西軍の兵隊は、恨みをはらそうと徳川家に刃向かう者もいたが、侍をやめて農業をはじめたり、東軍のどこかに再就職した者もいた。
しかし、武将はそうはいかない。
下っ端は上から「徳川と戦え」と命令されて戦っただけだから、家康も厳しく罰したりはしないし、見どころがある者なら家来にしたりもするが、その命令をしたやつらは別だ。二度と徳川に逆らえないよう、逆らう者が出ないよう、さがし出して捕まえ、厳しい罰を与えねばならないのだ。
そして奥平の殿様にも、家康の命令が下る。
「安国寺恵瓊を探しだし、捕らえよ」
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さて、ここで安国寺恵瓊なる人物について簡単に説明しておくべきと思う。
この人は、三成に味方した毛利家の家来だった僧侶、お坊さんだ。
「侍じゃなくてお坊さん?」
そう思うかもしれない。しかしこの時代、殿様と僧侶は切っても切れない関係にあったのだ。
まず、僧侶は学問にすぐれている。なので、さまざまな難しい問題がおきたとき、相談にのることができた。
また、僧侶は出家、つまり仏教の修行をしている人なので、ひたすら仏の道を学ぶため、殿様たちの争いとか天下取りとか、そういった世の中の厄介ごととは縁を切っている。
なので敵のところに行って、さまざまな話し合いをすることがあった。武士の争いとは無関係なのだから、公平な立場で間に立つことができたのだ。
こういう人たちを「外交僧」という。恵瓊もそのひとりだった。
もちろん僧侶の本職も忘れない。戦でたくさんの人が死ねばお経をあげたし、さまざまな儀式だってある。
とまあこのように、恵瓊は毛利家の重要人物といってよい。つまり家康からみれば、さんざん自分に逆らった敵ということになる。
許してはならない。
生かしてはおけない。
かくして奥平の殿様と、養子に出て名字が変わっているが息子である松平の殿様のふたり、奥平と松平の二つの家に、安国寺恵瓊を逮捕せよとの命令が下ったのであった。
関ヶ原の戦いが行われた日時は当時の暦です。また両軍の人数は諸説あります