第二話「二代め鳥居強右衛門」
命とひきかえに役目を果たした強右衛門にむくいるため、殿様は鳥居家に百石の俸禄を用意してくれた。
これは一年間に支給されるお米で、今でいう年俸にあたる。当時は、金属製のお金も使われてはいたが、武士の給料はお米で支払われることが多かったのだ。
現代の日本円にすると……
資料によりばらつきがあるし、お米の値段もそのときによって変わるのでなんとも言えないが、どうやら一石が七万五千円から二十五万円くらい? になるらしい。
やたら値段のばらつきが大きいが、今より保存したり遠くまで運んだりする技術が低く、とれるお米の量も少なかった時代なので、豊作や不作の影響をもろに受けたようだ。
話を戻して、百石は年収七百五十万円から二千五百万円。おおよその間をとって、キリよく千五百万円としよう。
高収入かと思いきや、世の中はせちがらい。これが全部好きに使えるわけではないからだ。
説明しよう。鳥居家は殿様の家来なので、いざというときは武士として戦わねばならない。そのための武器や鎧、馬などを、この百石の収入で用意する必要があるのだ。現代でも、スーツや革靴などを買わないといけないのと同じように。
また、侍は俸禄によって、戦のときその家から参加しなければならない人数が決められていた。これも資料や殿様の方針によってまちまちだが、百石なら三、四人くらいだろうか? うち一人は信商本人として、二人から三人の部下に払う給料もここから出すことになる。
なので自分の取り分はそこまで多くないわけだが、鳥居家はつい先日まで下っ端兵士だったので、それでも大出世といってよいだろう。敵の大軍を出し抜いて岡崎まで走り、命と引き換えに役目を果たした強右衛門は、それほどの手柄を立てたということだ。
しかし、やっぱり世の中はせちがらい。出世したからといって喜んではいられないのである。
もちろん父親を失った悲しみもあるが、高給取りの侍になったからには、それにふさわしい働きをしないといけないからだ。
考えてみてほしい。お父さんが立派なことをしたから、国から毎年まとまった額のお金がもらえることになった。だからといって何もせず、そのお金で毎日ダラダラ遊んでいたら、世間はその人をどう思うだろうか?
もっと厄介なこともあった。
「昨日まで貧乏暮らしの足軽だったのに、いきなり百石取りのお侍になったんじゃ。わしらのことが気にくわない者は多いじゃろう。信商や、くれぐれも周りの人に嫌われないように気をつけるんじゃぞ」
「分かった、おっ母……じゃねぇ。はい、母上」
「これだけは忘れるな。いちばん怖いのは敵じゃねぇ、味方のよくない心なんじゃ」
そう、いきなり偉くなった鳥居家への妬み、ひがみ、やっかみである。
いつ死ぬかわからない戦のときは、命を捨てて味方を守った強右衛門の姿に感動した。その家族が手厚く扱われるのも当然だと思った。
しかし……
喉元すぎればなんとやらで、いざ命が助かったとなれば、
「ちくしょうめ、自分だけいい思いをしやがって。親父は勇士だったかもだが、お前はただのガキじゃないか。自分では何もしていないのに、いきなり百石ももらえるようになるなんて許せねえ」
そう思う者は必ずいる。人間とはそういう生き物だ。
なので、立派な侍になるよう努力するだけでなく、まわりの人たちに嫌われないように気をつかうことも忘れるな。おっ母、もとい母上はそう言っているのである。
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信商の生まれた年はよく分かっていない。少なくとも、私が調べた資料には書かれていなかった。
でも、強右衛門が三十六歳で亡くなったこと、今より結婚が早かった時代であることを考えると、お父さんが二十歳から二十五歳くらいのとき生まれている可能性が高い。
つまりこのとき、信商は十歳から十五歳くらいということになる。十歳ならまだ武士として働けないのは仕方ないが、十五歳ならもう戦いに出ていてもおかしくない年頃だ。
いずれにしても、武士の仕事をこなせるように体をきたえ、剣や槍の腕を磨き、学問も身につけないといけない。まわりの人たちが「まだ子供だから役に立てないのは仕方ない」と大目に見てくれる時間は、そう長くないのである。
資料によると、父の強右衛門は仲間たちから「河童」と呼ばれるほど泳ぎがうまかったという。足の速さもピカイチで、狼のように野山を走れたとか。さらに角力も強く、鉄砲の扱いにもなれていた。足軽だったのはたまたま手柄を立てるチャンスがなかっただけで、すぐれた戦士だったらしい。
運のいいことに、信商はその素質をよく受け継いでいた。
死にものぐるいで努力し、また人のうらみを買わないよう心がけたかいあって、やがて彼は智勇兼備(知恵があり、かつ強いこと)にして人格高潔(人がらが立派なこと)と、誰もが認める侍となった。百石のお給料をもらうだけの値打ちがあると思われるようになったのである。
大人になった彼は、父親にあやかって強右衛門を名乗るようになった。なお、子孫も代々強右衛門の名を「襲名(同じ名前や称号を受けつぐこと)」するようになるが、それはまだ先の話だ。
二代め鳥居強右衛門こと、鳥居強右衛門信商。彼が歴史の表舞台でその名を轟かせる日が、少しずつ近づいていた。