うっかり火事が起きたら大惨事なので
翌朝は朝の6時に起きて朝食と準備、そして7時には宿を出た。早く寝たおかげで元気なリィズと、微妙に寝不足らしいフェンニスは図書館へ向かう。やる気のあるリィズと反対に、フェンニスの表情はさえない。
眠いこともあるだろうけれど、本に興味がないのだろう。それでもきちんと耳を立てて周囲を警戒しているようだが、目は半分寝ていた。こんなうるさい帝都では、音でなにかを判断するのも難しいが、習性のようなものだろう。
リィズも前世の記憶なんて思い出さなければ、魔法を求める必要も感じなかっただろうし、本に興味を持つこともなかったはずだ。思い出してしまったからこそ苦労していると考えれば、思い出さなければよかった気もする。
しかしそうなると、ゲームどおりの未来が待ち受けているわけで……。想像するたびに寒気がして、やはり思い出してよかったという結論へ至る。
そして思い出したからには、よりよい未来に向けて努力するしかない。その努力が実るかはわからないものの、なにもしなかったら唯一の肉親を失うことになる。つまりフェンニスを死なせないために頑張っているわけだ。
当のフェンニスは自分の未来など知るはずもなく。ぼんやりした顔でリィズと手をつないで歩いている。頼りにしてみせれば、もう少ししゃっきりするのだが、今はただのやる気のないおじさんだ。
開館したばかりの図書館へはいり、住民以外の利用者として手続きをする。フェンニスが親としてリィズのぶんも手続きしてくれた。相変わらず必要書類に書き込んだ字はガタガタだ。それでも受理してもらえるのなら、とリィズは文句を飲み込む。
貸し出しはできない、破損したり汚したりすると弁償、といった注意事項を聞いてから首からさげる利用許可証を受け取った。今日限りのもので、退館時に返却する。利用料も一日ごとに払う必要があった。
「利用料、高いなぁ……」
「明日からはお父さん、外で待ってる? 夕方に迎え来てくれればいいよ?」
「だが、お前をひとりにするわけには」
「図書館の中なら安全だよ、たぶん」
「うーん」
「そうだ! せっかくだから、植物の育てかたについての本を読んだら?」
「うーん……」
どうにも煮え切らないが、暇を持て余すよりいいだろう。そう判断して本がどのように管理されているのかを確認する。美花が知っている分類方法ではないが、それなりに整理して管理されているようだ。
「このへんが、植物に関する本のはずだけど……」
「えーーーと……か? く? え、つ……」
予想していたが、フェンニスの文字知識はだいぶ薄れていた。子どものころに教えられて以来、ほとんど必要としないままきたせいだ。村で採れた野菜や果物は、村で管理して村単位で出荷していた。それらを管理するひとがいて、事務的なことはすべて任せきりだったのだ。
だから作る側はただ作るだけでよく、契約書を確認する必要もない。自分が育てている植物の名前や、自分の家族の名前くらいは読めるが、その程度である。
とはいえ、リィズも二年前に少し教えてもらったていどだ。前世の記憶を思い出してからは、美花としての記憶が強く、リィズの記憶が薄れがちだった。
この世界の文字は、日本語のひらがなをそのまま別の記号に当てはめただけのものだ。ちなみに話し言葉は日本語と同じに聞こえる。ずいぶん雑な設定だ。韓国語のハングルのように、子音と母音が組み合わさったような文字になっているので、覚えるのはそう難しくない。
記憶を取り戻してからは、リィズの記憶を頼りに練習してきた。だが、すらすら読むのはまだ難しい。それでも間違えたりはしないが。
「……それはキャベツだよ、お父さん」
「お、おぉ。そうか。すごいなリィズは」
「キャベツより、トマトがいいんじゃない? トマト、トマト……あ、これはどう? 『いろいろな種類のトマト』だって」
そう分厚くない本を引っ張り出してみたら、写真入りで解説が載っているようだ。それをフェンニスへ渡す。
「もっとおいしくて珍しいトマトを育てられたら、高く売れないかな?」
「……ふむ、それもそうか」
一応、読む気になってくれたらしい。中をぱらぱらと確認している。そんな父親の袖を引っ張って魔法関連の本棚まで移動した。近くの机にフェンニスを座らせ、ここで待っててねとお願いする。
「どっちが子どもかわからんな……」
「わたしはすぐそこの本棚にいるからね」
「……わかった」
情けない顔をして情けないことを言っているが、それでもフェンニスはリィズをひとりにしない。頭を打ってからおかしくなってしまったと嘆きこそすれ、今までどおり娘として愛してくれる。リィズのほうが文字をすらすら読めたとしても卑屈にならない。それだけでも実はすごいことだ。
父親として立つ瀬がないことも多々あるけれど、決して投げやりになることもない。しっかりしすぎているリィズを放り出すこともなかった。だからリィズもフェンニスを父親として慕っている。
急に変わったリィズを気持ち悪いと殴るパターンだってあり得た。そうしたらリィズの状況はもっと悪くなっていただろう。そう考えると、興味のない図書館に付き合わせて申し訳ない気もした。
「ごめんね、お父さん。いっしょに来てくれて、ありがとう」
「はは……なんだ、突然。俺はリィズのお父さんなんだから、当たり前だろ」
「うん、ありがと」
「……ほら、早く本を探しておいで」
いきなりのことに照れたのか、耳がぴくぴくとしている。顔色はあまり変わらないが、どうやら恥ずかしいときや照れくさいときに、耳が反応するのだ。それを内心かわいいと思っているのはないしょである。さすがに父親相手にかわいいはない。
★★★
フェンニスに背中を押され本棚へ送り出されたので、慣れないながらも本を探し始めた。魔法入門、と書かれた本を見てみる。羅列された文字を見て改めて思うのは、漢字がいかに偉大であるかということだった。ぜんぶが全部ひらがなで書かれているようなものなので、とにかく、めちゃくちゃ読みづらい。
まほうとは たいないにある まりょくを つかい、きせきを おこすことです。いっぱんてきに じゅもんを となえることで まほうが はつどうします。または、じゅもんを まほうじんに へんかんすることでも まほうを つかうことが できます。
たったこれだけを読むのにも、イラっとする。生前の美花は文字を読むことが苦ではなかったが、この世界の本に慣れ親しむのは時間がかかりそうだ。
「おとうさん、ペンとノートがほしい」
「言われてみれば勉強に必要だな」
「たしか、入り口のカウンターで売ってたと思う」
「じゃあ行こうか。せっかくだから俺も買って、いっしょに勉強するかな」
「うん!」
そう言ってくれるのが嬉しくて、表情がゆるむ。リィズ自身は気づいていないが、リィズは子どもにしては笑わないほうだ。今の状況を悲観しておりそれどころではないと緊張しているせいもあるし、許されている娯楽はほとんどない。
楽しい、嬉しいと思えることがあまりないのである。料理や魔法を教えてもらったときには、笑顔でお礼を伝えてきた。おいしいものを食べれば嬉しい。岩レンガを売るときの対応。そしてフェンニスに子どもあつかいされるとき。
リィズが笑うのは、わりと限られた条件でのことだ。それにしっかり気づいているフェンニスが、その笑顔のために頑張ろうと奮起したことを、リィズが知ることはたぶんないだろう。
ノートは五冊セットのものを買った。そんなに必要か? と言いつつもちゃんとフェンニスは渡した財布から金を払ってくれる。
いつも食事や生活に必要なものを買うのはリィズの役目だ。だから金を管理しているのはリィズである。しかし街中ではリィズが財布を持っているより、フェンニスが持っていたほうが自然だ。だから旅の間はフェンニスに財布を預けてあるのである。
魔法に関する知識をリィズはノートへ日本語でまとめることにした。なんでそんな文字を知っているのかと言われたら弁明できないので、だれにも見せられないノートになりそうである。
もしかしたらフェンニスは笑って受け入れてくれるかもしれないが。でも父親にまで拒否されたら、かなり凹む。それが予想できるので、見せるつもりはない。
この日、魔法を勉強して一番びっくりしたのは、魔法のための文字があったことだ。魔法の呪文は本来、魔法文字で書かれるらしい。これまで発音しか教えてもらっていなかったし、だれもそんなものがあるとは言ってなかった。ちなみに魔法語と呼ばれている。
ちなみに魔法の呪文はすべてドイツ語っぽい単語と発音だ。実際に文字を見たら、そのままドイツ語のアルファベットを飾りたてたものだった。こちらも装飾が多すぎてちょっと読みづらい。
これまで魔法を教えてもらって、おそらくドイツ語が土台になっていることは、なんとなく察していた。一応大学の第二外国語はドイツ語をとっていたので、うっすらと記憶もある。はっきり覚えていたらよかったのだろうけれど、美花がすぐに思い出せるドイツ語なんて、アイン、ツヴァイ、ドライくらいのものだった。前世の知識がまったく使えない。
日本人の感覚だと、英語はだれもが慣れ親しみすぎて、今さらゲームの呪文に使うとちょっと締まらない。それに比べドイツ語やフランス語といった言葉は、なんとなく知ってるけど、あまりわからないというひとが多い。
だからかドイツ語は、マンガやゲームのファンタジーではよく取り入れられている言葉という印象だ。硬い印象のあるドイツ語の発音は、声優が言うと決まって聞こえる。そんなわけで、魔法の呪文がドイツ語なのは完全にゲームの都合だと思われた。
オートバトル中にボイスをオンにしてると、声優さんが呪文を唱えてくれるので美花もいくつかは覚えている。「火槍」という魔法は初期から持っている技能なので、特によく耳にする魔法だ。たしか、フライヤーランツェという呪文だった。
文法がおかしい気がするけれど、気にしてはいけない。ゲームなのだ。それっぽく聞こえればいいのである。なお、うっかり唱えて火事が起きたら大惨事なので、これまで唱えたことはない。
漢字って本当に偉大ですよねぇ…(そのわりに書くときは開き気味ですが)
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