止んだ暴風は寂寞に似て
「浪漫の探求者」本編 第一部「新たなる門出」
第六節「風食みの武人」より
「聞いたか? 『風断ちの巨鳥』が再発生したんだってよ」
「ほー。……ということは、とうとう第二の『風食み』の冒険者の誕生が」
「ねえよ」「ねえな」
いつも通り、特にすることもなく。穏やかな風が吹き抜けるナギの街、馴染みの酒場の片隅で、ひっそりと果汁など飲みつつ。只管ぼんやりと過ごしていると、そんな話題が耳に入ってきた。
『風断ちの巨鳥』。暴風止まぬ、荒涼の風哭谷を縄張りとする、龍級生物。金色の二対の大翼に、三脚、三眼の大怪鳥。だが、儂に取っては相性の良い相手、家禽のようなもの。妖霊級の冒険者だった時分、死闘を求めて独り挑んだが、唯一度の挑戦であっさりと勝利してしまい、随分と拍子抜けしたものだ。
暫し自身の経験を思い返していると、酒場の主人が問いかけてきた。
「『風食み』の旦那は、奴の討伐に出向かれるので?」
「興味はない」
多少の個体差はあるのかもしれんが、以前倒した生物など、幾度やり合おうと、大差あるまい。変異種なら兎角。そんなもの、ヌシらが好きに処理すればよかろう。
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それから、暫くして。場所も状況も、先日と同じく。
「旦那、『風断ちの巨鳥』の件なんですが……」
「代わりに殺してこい、という話なら聞かぬぞ」
「そう仰るとは思ってましたが。いえ、既に討伐はされたみたいでして」
ならば尚の事、興味はない。どうせ、儂のように独力で龍狩りを成したものがいるわけでもなかろうし。仮にそういう話なら、儂の方が先に察する。もしそうだとすれば、既に挨拶に出向いていただろう。
「ただ、やったのがどうも冒険者じゃないらしくてね。噂じゃ、見たこともないような魚の化物が、奴の縄張りで泳いでたんだとか……?」
「……ほう」
俄に興味が湧いてくる。さっさと詳しく話せ。
しかし、何処かで聞いたような話だのう。空を自在に飛ぶ龍級生物を狩った、魚の化物。……トレイシーによれば、異世界に、そういう生物がいるのだったか。
「泳ぐ、と言ってもねぇ。奴の縄張りどころか、風哭谷のどこにだって、大型の魚が泳げるような水場なんて無かったとは思うんですがね。居場所を水場にするような大魔術でも使うんでしょうか。そのあたりは、あっしにはわからんすわ」
「大方、空でも泳いでいたのであろうよ。新手の魔獣ということなら、興味はあるな。暇を持て余していたところだ。どれ、出向いてみるかのう」
嗚呼、心の踊る闘争を。
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風哭谷の深奥、最も天に近いところ。目之壁に辿り着く。そこには、夥しい量の飛竜の死体と、空から降る鮮血の雨、そして空を高速で駆る、大人二人分程の大きさの魚が一つ。頭から生えた、角にも似た剣と、剣の如く鋭い胸鰭と背鰭に、長い尾鰭を持つそれは、今も目之壁の上空で、飛竜を切り裂き続けているようだった。成程、剣魚と呼ばれるわけだ。
「どうしたどうした貧弱生物どもォ! 俺の空に居てえッてんなら、俺を殺してみせろッ!」
威勢よく啖呵を切りながら、縦横無尽に飛び回る剣の魚は、瞬く間に飛竜を狩り、最後の飛竜も血を撒き散らしながら墜ちた。剣の魚の方には、傷らしい傷はついていないように見える。どういうわけか、返り血の一つすらも浴びておらず、光沢のある鱗を纏う体躯は、誇らしげな鈍色に輝いていた。
「かあッ! 雑魚どもがよう! ここらで骨のある奴ァ、この間の神鳥だけかぁ? ド腐れ死人神もいねェし、他の剣魚もいねェから、ここじゃあ俺が大蛮勇だな! ガアッハッハ!」
剣の魚は、鋭い牙が並ぶ口を大きく開き、満足気に笑う。話す言葉を聞く限り、知性はありそうだが、話が通じるかどうかは、実際にやってみねばわからんな。
「随分と、ご機嫌のようだのう」
「……アん? 下の方で何か聞こえたか? ……空にも上がってこれねェ存在弱者が、一匹見えるような、見えんような。……ま、気のせいだな! 俺にゃ関係ねェやっと」
見向きもされんか。確か、トレイシーは「地上にいるやつにはあんまり興味がない」と言っていたな。短時間なら飛べんこともないが、取り敢えず、剣風でも飛ばして挑発しておくとしようか。
『風切刃』を剣の魚に向けて振り、剣風を飛ばす。剣風は剣の魚を掠り、その体からは一筋の血が流れた。
「……俺ァよう。剣魚ん中じゃあ気が長ェ方なんだ。今すぐ尻尾ォ巻いて逃げるってんなら、お前のそよ風についちゃ見逃してやんよう……」
剣の魚は、鋭い眼光をこちらに向けながら言った。その言葉の半ばを言う頃には、剣風が付けた傷は、既に治癒したらしい。再生能力も高いようだ。生命力の高い魔獣にはよくある性質ではあるが、それにしても早い。
ただ、聞いていたよりは、随分と甘い生き物のようだ。空にいるかどうかが観点の第一にある、というのも珍しい。この遊興世界においては、聞いたこともない価値観と言えよう。
「ただの挨拶よ。逃げるつもりなど、毛頭ない。ヌシもやはり、龍に準ずるものか」
存在の格を見れば、それについては疑いようもなく分かる。その視線だけで、身が切り裂かれそうな錯覚を覚えるくらいだ。そこらの有象無象とは、比べるべくもない。
だが、剣の魚はそれを否定した。
「龍、だぁ? ハッ! そんなもん、そこらに居てたまるかよう!」
「ふむ。ヌシが斃した『風断ちの巨鳥』は、龍級生物と呼ばれておるのだがの」
「あの神鳥が龍ァ……? 笑わせるぜ! あんなもん、精々ちょっと格が高いだけの、ただの妖だろうがよう! それを、龍だと! 人間ってのァよう…… 何も知らねぇグズどもなんだなァ!」
剣の魚は、嘲るように言い放った。
成程。異界の言葉は、儂らの使う言葉と共通しているものでも、その意味合いが少し異なる場合があるのだな。『星読み』も、トレイシーも、そのあたりに関しては、かなり柔軟だったと見える。恐らく、アレらが特異なものなのであろう。
「そのようだのう。所詮は魚。儂の言葉の細かな意図など、いちいち説明されねば、理解も出来ぬか。なに、理解出来る必要もあるまい。察せ、とは言わんよ」
「……ナメた口きいてやがんなァ、地ベタの剣士よう…… そんなに死にてェのか?」
予想通り、挑発には弱いらしい。知性を持つ生物としては、非常に扱いやすい類と言える。
「未知の強者と見れば、挑むのが武人の性よ。儂は『風食み』のイブキ。『風断ちの巨鳥』を超えるその力、存分に試させてもらおう」
「ハッ! お前も武人かい! 俺は『穿鋭』のガングニル! そんなに誉れが欲しいんならァ! 俺がお前を殺してやんよう! 風食み!」
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結果としては、辛勝した。やはり、空を自由に駆るものを相手取るのは、適度に苦戦して、非常に良い。遠戦が主体で、実質相手の攻撃の大半を無効化できた『風断ちの巨鳥』との闘争とは異なり、互いに近接戦闘のみを繰り広げた、此度の闘争は、屈指の死闘であった。態々足を運んだ甲斐がある。
「ククッ……! 地ベタの生き物の分際で、やるじゃねえか、風食み! お前に狩られるッてんなら、悪くねェさ!」
「そうか。良き闘争だったぞ、『穿鋭』のガングニル」
「おう! 先に命渦で待ってらァ。あっちで剣を研ぎながら、お前とまた一戦交えるのを楽しみにしててやるよう! 俺の体は好きに使いなァ! それじゃ、またなァ!」
死にゆくものとは到底思えぬような、さっぱりとした様子で言い残し、ガングニルは命渦に消えた。随分と、上等な戦利品を遺して。有効に活用させてもらうとしよう。
……しかし、ふむ。
「……命渦で待つ、か」
随分と、懐かしい響きの言葉だ。
魔獣どもとは違い、人間は、命渦に還ることはない…… と言われている。この遊興世界において、それを理解していない者はいない。殊に冒険者であるならば、誰しも一度は死んだことがあるだろう。
それを、恩寵と――祝福だ、と考える者は多い。だが、再発生の本質は呪いだ。生命力が尽きた時、儂らは命渦には還れず、戦果と、幾許かの存在の本質を損ないながら、世界に用意された楔に戻されてしまう。そうして、幾度も死を繰り返す度に、自我は壊れ、元の形から乖離していく。……還れるのは、擦り切れた残り滓のみ。そんなものを、呪いと呼ばずして、何と呼ぶ。
そんな中、確固たる意志のもと、何かを成すのならば兎角。惰性でただ生かされ続けるなど、儂は願い下げだ。何を於いても為そうとする、身をも焦がす熱こそが、存在意義。そうでないなら、既に死んでいるのと変わりはない。
満身創痍の状況で、体力の回復を待ちながら、そんなことを考える。
……ふと、仄かな頭痛とともに、心核に去来したのは、在りし日の記憶。今は既に、耳障りな雑音に擦り切れた、儂の原点――そのはずだった残骸。
――……わたしは……先に……命渦で……待って……ら……――
――……ブキは……負けな……ね……束……だか……――
誰よりも、どこまでも強くなると誓ったのは。いつ、何処で、誰に対して、だったか。遠い昔、儂に「命渦で待っている」と言ったのは、誰だったか。
遠い記憶は、既に褪せた。果てなき力への渇望と、飽くなき闘争心と…… ほんの僅かな寂寥のみを、ただ残して。
「……嗚呼――」
心の踊る闘争を。果てぬ望みを。終わりなき研鑽を。
……どこまでも続く愉しみを。
目的を見失った手段は、いまや目的そのものとすり替わっていた。