Dancing with coffee
グラスから滴り落ちる水滴が、コースターに水たまりを作っている。空調の効いた休日のカフェには、楽し気なカップルや写真撮影に勤しむ女性があふれていた。
流行りのカフェというのは、どうしてこんなにも落ち着かないんだろう。フォトジェニックなメニュー、北欧モダン雑貨の数々、目の前で必死に汗を流すアイスコーヒー、正面に座るお洒落ないとこのお姉ちゃん。取り囲む全てが「不格好なお前が来る場所じゃないよ」と囁いている気がする。
トークテーマにそぐわない被害妄想に苛まれる私に向かって、いとこのさっちゃんはさらりとこう言った。
「それは、恋だよ」
驚く私の動きに合わせて、積まれた氷がからんと揺れた。
「こ、恋?」
「そう、恋。お魚じゃないよ、こっちのほうだよ」
太陽のように爛々とした声と指で作られたハートマークが返ってくる。
鯉ではなく恋。そんなことは会話の流れですぐに分かった。疑問符を浮かべたのは、私の感情を表す言葉として『恋』という単語が選ばれてしまったから。
私は眉を寄せてさっちゃんを凝視した。
「私の話、ちゃんと聞いてた?」
「もちろん。全て飲み込んだ上で恋じゃんって言ったよ」
「そんなわけないじゃん!」
「まあまあ落ち着いて」
さっちゃんはカフェラテが注がれたグラスの淵を人差し指でなぞった。二層に分離したカフェラテは日焼けした野球少年の腕みたいで、彼女の指を彩る青のマニキュアが良く映えている。
さっちゃん。いとこの沙由ちゃん。年齢のことを聞くといつも怒られるから曖昧になっているけれど、おそらく五歳くらい年上の女の子。
彼女は昔から私のことを可愛がってくれていて、折を見てこうして話を聞いてくれる。
そんな彼女に「なぜか部活の先輩に強く当たってしまう」と話題を吹っ掛けたところ、それは恋だと言われてしまった。
私はストローでコーヒーを吸い込んだ。口に広がる苦みが頭に上った血をゆっくりと下ろしてく。グラスから浮かび上がる汗が、また一つぽたりとコースターを濡らした。
「なんでそう思ったの?」
「理由はいっぱいあるけども」
さっちゃんはくるくるとストローを回して、カフェラテを口に含んだ。グラスの中で揺れる白色が、じんわりと茶色に馴染んでいく。
艶めいた唇が、丁寧に話をまとめ始めた。
「とりあえず聞いた内容を整理するね。夏休みも欠かさず部活に行ってるんでしょ?」
「うん。講習があるからついでに」
「部活には麻衣子とその先輩の二人だけ。それなのに絶対に行かないとダメなの?」
「ううん。基本的に自由参加のスタンスだから」
「その先輩のこと、嫌い?」
「……わかんない。でも、気付いたら酷いこと言っちゃってるから、好きじゃないんだろうなとは思う」
「なるほど」
自動音声のように淡々した私の答えを聞き終えて、さっちゃんはこれでもかというほど口角を上げた。
想定内の答えだったんだろうか? 満足げな彼女の様子で、どんどん体温が上がってくる。
「な、なんで笑うの?」
「だってぇ。かわいいんだもん。やっぱりかなり濃い目の恋だよこれは。エスプレッソだよ」
さっちゃんはどちらかというと美人という括りに入ると思うけれど、浮かべる表情がたまにいたずらめいて幼い。そのアンバランスさがなんだか艶っぽくて、私は手元のコーヒーに視線を落とした。
「仮に私が先輩のことを、す、好きだとして、普通好きな人に嫌われる行動ってとらないんじゃないの?」
「あたしの目には、典型的な好き避けに見えるよ」
「……好き避け?」
「好きだからこそ恥ずかしくてきつく当たっちゃうってやつね。ツンデレのほうがわかりやすかったかな?」
「高校生にもなってそんな……。単に行動がムカつくからきつくあたっちゃうんだと――」
「腹が立つなら行かなきゃいいじゃん。なんで部活に行くの? 部室に行かないと出来ないことがあるの?」
あえて深く考えてこなかったことを詰められて、私は首を絞められたようにきゅっと押し黙ってしまう。
他の部員が辞めてしまってかわいそうだったからとか、ゆっくりできる場所が欲しいからだとか、反論の種になりそうなものはいくつか見つかったけれど、どれも弾にするには弱い。
だって、どれもわざわざ欠かさず部活に出席しているという壁を破れるとは思えないから。
部活に行かないと出来ないことなんてない。さっちゃんの言う通り、ムカつくなら行かなきゃいい。でも多分、それは出来ない。いくら頭を捻ってみても、堂々と返せる言葉が見つからなかった。
ストローに口を付けたままうんうんと唸る私を見て、さっちゃんは顔じゅうの筋肉を弛緩させて口を開いた。
「探偵さんみたいな詰め方しちゃったけど、そこらへんは後付けなんだよね。実は一番の恋ポイントがあります!」
「……なに?」
さっちゃんはぴんと人差し指を上げる。癖のある髪が店内照明を吸い込んで、艶やかに揺れた。
「先輩のことを話すときの麻衣子の顔、へにゃっとしてるんだもん。すぐわかっちゃった。しのぶれど色に出でにけりわが恋は、だね」
さっちゃんは嘘をつかない。コーヒーのように苦いことも、砂糖のように甘いことも、包み隠さず彼女の感性に従って口に出してくれる。
だから私は急いで両手で顔を覆った。顔中が熱くてアイスコーヒーを飲んだけど、今度は苦み程度じゃ落ち着きは帰ってこなかった。
へにゃっとした顔なんてした覚えはない。覚えがないから質が悪い。私は自分が意図していないタイミングで顔を蕩けさせていたことになってしまう。しかもよりによって先輩の話をしているときに。
店内に流れる穏やかなBGMを遮り、さっちゃんの声が流れてくる。
「試しに好きという仮定で自分の行動を見返してごらん。なんの違和感もないはずだから」
好きだから欠かさず部活に行って、好きだから気付かれたくなくて毒を吐いて、好きだから話すときに顔がにやけちゃって、照れ隠しで無関心を装っている私。
何の矛盾もなく事柄が並んでしまい、我ながらぞっとした。そして、ここまでわかりやすい感情から目を背けていたということにも、加えてぞっとした。
「い、や、ちょっと待って。私ってひょっとして物凄く先輩のことが好きなの?」
「あたしには最初からそう見えてたけど」
「やばぁ」
思考の混乱がそのまま言語中枢に影響を及ぼしてしまう。自覚してしまうと、もう自分自身が恋をしているとしか思えなくなってしまった。
いつ、どこで、なぜ。良いところがひとつもないとは言えないけれど、それでも好きになるには弱すぎる。
「好きになる要素なんて全然ないのに」
「好きって感情はそういうものだと思うよ。あたしだって好きな物事全部に理由を付けられるわけじゃないし、麻衣子もそうじゃない?」
「それもそうだけど」
「そもそも感覚を正確に判断できるほど、人間は良くできてないからね」
さっちゃんの指がストローをこつんと弾いた。あんなに分離していたミルクとコーヒーは、綺麗に混ざり合ってグラスを彩っている。
見つかってしまった。自分の恋心とやらが。そしてこの感情が『好き』なのであれば、私はしっかりと伝え方を間違ってしまっている。先輩はあと半年くらいで卒業してしまうのに、私がやったことといえば悪態を吐き続けているだけだ。
急に自分の行動が不安になり、私はすがるようにさっちゃんに声を向けた。
「……どうしよ、どうすればいいかな? ひどいこといっぱいしたから、もう嫌われてるかもしれない」
甘い甘いシロップを注がれた私の脳は、もうすっかりと苦みを失ってしまっているようだ。「そんなわけないじゃん!」と勢いよく言葉を返していた私はもういない。代わりに姿を現したのは、濃い恋色に染まってしまった私。
さっちゃんは変わらず笑顔のまま言葉を返してきた。
「相手がどう思っていようと、麻衣子の気持ちが変わるわけじゃないでしょ? 今後は余計なことを考えず、自分の気持ちに正直に先輩とお話ししてごらん。まずはそこからだと思うよ」
「……うん」
「まあ性格もあるしいきなりは難しいと思うから、ちょっとずつね。少しずつ少しずつ、自分の気持ちを混ぜていけば、きっと本心は伝わるよ」
「頑張ってみる。ありがと」
「また一つ、青春を救ってしまったようだね」
さっちゃんは満足げにカフェラテを飲み干した。
彼女が今までにいくつの青春を救ってきたかなんて知る由もないけれど、少なくとも私の視界は少し開けた気がした。
今更焦ったって仕方がない。やったことが覆るわけでもないし、すぐに全部をオープンに話ができる気もしないし。少しずつ、ちゃんと自分の気持ちを織り交ぜる事から始めてみよう。
さっちゃんに合わせてコーヒーを啜る。氷が溶けて薄まったアメリカーノからこぼれる香りが、ふわりと鼻を抜けていった。
私は朗らかに笑みを浮かべ、さっちゃんに視線を向けた。
「こんなに親身で魅力的で顔も良いのに、なんでさっちゃんには彼氏がいないの?」
「痛いところ突いてくるじゃん。あたしには好き避けなんてしなくていいんだよ」
「いや、今のは本心からの質問だよ。ツンじゃないよ」
「ぐはっ……。こ、こっちが聞きたいくらいだよ! あたしだって、麻衣子くらいの歳の頃にはちゃんと青春してたんだからね⁉︎」
突っ伏したさっちゃんの動きに合わせて、グラスの底でふんぞり返る氷が滑り落ちた。
彼女のように振舞えたら、きっとこんな不器用な悩みも浮かばなかっただろう。でもこんな私の感覚をも肯定してくれた彼女のおかげで、少しだけ自信を持てた気がする。
あんなにお洒落に見えていた店内のオブジェクトたちも、今や私の気おくれを生むに足りない。
窓の外の空は、厚い雲を携えてどんよりとした顔をしている。明日は雨が降るかもしれない。せっかくだから、明日は雨をテーマに先輩とお話をしてみよう。
雲の切れた私の心が、空になったグラスの中で踊るように弾んでいた。