潜入
俺は受付の人に教えられた5階に向かった。
念のためエレベーターは使わず、階段でこっそりと上がる。
階段を登りながら、この後の展開を考える。
ここまで侵入したはいいが、あの男と直接対決するにはあまりにも情報が不足していた。
俺が持っている情報は初めてあの男を見た時に聞こえてきた電話の内容、そしてたった今受付の人からもらった些細なものしか持ち合わせていない。
現状ではそもそもあの男が本当に黒なのかどうかすらわからない。
さっき聞いた話で黒よりのグレーになったくらいだ。
そう。 結局、確信的なことなんてなにもなかった。
ーーけど、なにかあってからじゃ遅えんだよ。 俺はもう後から後悔することだけはしたくない。
その思い一心だけで俺はここまでたどり着いた。
5階まで上りきると通路が二手に分かれていて、どちらの先にも扉が1つずつしかなかった。
建物の構造的に一方は大きなスペースを取っていると思われる。
もう一方はきっと個室になっているのだろう。
俺はそっちの方の目を向けると、扉は半開きになっていた。
ーーいるとしたら、あそこか……。
俺は忍び足でゆっくりとその扉の方に歩みを進める。
「ふぅ……」
扉の前に着いた俺は一息吐いて、中に入ろうとする。
「ええ、大丈夫ですよ。 …………はい、誰にも話していないので安心してください」
しかし、突入しようとしたタイミングで部屋の中からそんな男の話し声が聞こえてきた為、俺は動きを止めた。
そして聞き耳を立ててみることにする。
「……ははは! そんな不安にならなくてもいいじゃないですか! あなたならヤレますよ。…………ん? あぁ、もちろん私も協力しますよ!……」
聞こえてくる話は相変わらずの怪しさ満点なものだった。
ーーこれはもう黒でいいだろ。 それにしても馬鹿息子か……まさにその通りだな。
受付の人が男のことをそう呼んでいたことを思い出し、納得する。
ーー普通こんな危ない会話を自分の会社でするもんかね。 しかも扉は半開きだし、警戒心なしかよ。
いくらここの社長の一人息子でこの階が自分のものとはいえ、俺は男の不用心さに思わず呆れてしまう。
だが、情報不足の俺にとってこれはかなりの幸運だった。
その後もしばらく不審な会話を続けている男に、俺は耳を傾ける。
ーーというか今日の俺、なんか怖いくらい色々ツイてるな。
自分の運の良さに若干身震いしながら、「まあ運が悪いよりはましか」と気持ちを切り替え、男の会話に集中する。
「……はい。 では次の日曜に私の会社に……そうです、5階に上がっていただいて右手に撮影用のスタジオがありますので。…………ええ、では楽しみにお待ちしております」
その言葉を最後に男は静かになった。
どうやら通話が終わったらしい。
ーー日曜か。 今ここであの男に勝負を仕掛けるより、直接現場を押さえる方が得策か?
この場所でいつまでも考え込んでいると、扉の先にいる男にバレる可能性も高まってしまうだろう。
俺は一度、今得た情報も踏まえて考えをまとめる為にこの場を後にすることに決めた。
「あっ! 随分と早かったですね? どうでした?」
階段を降りると先ほどの受付の人が再び声を掛けてきた。
俺は崩れていた顔を咄嗟に引き締め直し、少し困ったように苦笑しながら受付の人を見る。
「あはは、さっき声を掛けたのは気紛れだ。 この件のことは忘れてくれって追い払われちゃいました……」
「あーもー! あの馬鹿息子は……ごめんなさいね」
俺の適当な話に目の前の人は男に対して呆れたような顔をした後、申し訳なさそうに謝ってきた。
「いえいえ、大丈夫ですよ! 今回は縁がなかったと思って、次にこういうことがあれば是非すぐに受けてみようと思います!」
「ありがとうね。 もしご縁があればまた弊社にお越しください」
そう言って礼儀よく頭を下げてくれたので、俺も軽く頭を下げてビルから出た。
自宅に向かう帰り道、視界からさっきまで潜入していたビルが完全に見えなくなったのを確認した後、俺は整えていた髪を掻き乱して、演技していた自分からいつもの俺に戻した。
家に向かって帰りながら、改めて冷静に今の状況を整理してみる。
ーーまずは橘という、あの鷲尾のマネージャーらしき男に関してだな。
受付の人の話ではあの男はスカウトなどもしているような口ぶりだった。
であれば、自分で発掘した鷲尾という素材を自分でマネージメントしている可能性は十分に考えられるだろう。
当然、あの会社にはマネージャーという仕事を生業としている人間も存在しているだろうが、社長の一人息子という立場を利用すれば自分で鷲尾のことを管理すること自体はさほど難しくもないと考えられる。
ここまでなら仕事熱心で責任感さえ感じる人間のように思える。
しかし、あの男は社内の者にさえ馬鹿息子と呼ばれるような人間だ。
とてもじゃないが、真面目な人間とは考え難いだろう。
ーー次に電話の内容だな。
とりあえず橘という男と、その通話相手の主がなにか実行するのは今度の日曜ということはわかった。
それに撮影用のスタジオを使うこと、一連の件を誰にも話していないこと。
これだけでも十分怪しいが、あの男は通話の途中に「ヤレる」という言葉を使っていた。
その言葉がなにを意味することなのかは容易に想像できる。
ーー電話の内容も含めて、あの男は黒と認定して問題なさそうだな。
俺は状況的にそう結論付けた。
今日、俺は男に対して牽制しにだけ行くつもりだった。
圧倒的に情報不足だった為、根本的な解決は望めないとは思っていたが、せめて鷲尾には簡単には手を出させないようにできればと考えていた。
けど、結果的に今日の俺は運が良かったのか、色々と情報を得ることができた。
ーーこの件に関してはあとは当日に終わらせるとして……鷲尾の抱えているものについてもだな。
俺は最後に鷲尾のことについて考える。
奈美の話では鷲尾は俺が不良と呼ばれるようになったあの日のことを気にしているのだろう。
それに「だからまだ仲良くできない」と表現したらしい。
つまり、鷲尾はなにかきっかけを得ようとしていることがわかる。
奈美から得た情報と俺が鷲尾を見て感じた印象を結びつける。
ーーあいつは……鷲尾はきっと、俺が不良と呼ばれるようになったことに対して罪悪感を抱いてしまったんだろうな。 そして自分への嫌悪感へとそれが変わってしまった、まあそんなところか。
そんな鷲尾は自分への嫌悪感から自分を今、変えようとしていると考えられる。
だが、その方法はかつての俺と同じように自分自身から逃げ出す形で。
ーーだとするなら俺があいつにしてやれること……。 あぁ、全部伝えてやればいいだけじゃないか。
俺は1人でフッと笑い、全てを日曜に終わらせてやるよと考えをまとめ終える。
今日知った情報、それを踏まえての考えを奈美にも伝えようと切っていたスマホの電源を入れる。
そして俺はアプリの通知量に戦慄した。
内容を確認してみると全て奈美からの大量のメッセージと電話の履歴だった。
俺はさっき潜入した時でさえかかなかった冷や汗をだらりと全身から垂らしながら、『すみません、怖いので明日直接お話しします』とメッセージを送って、再びスマホの電源を落とした。
ーー明日の俺、頑張れよ。