既視感
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私の横に立つ男子が1人でどんどん興奮していく。
そして、私の言葉にその興奮が怒りに変わったのだろうか、目の前の男子が私を殴ろうと拳を握り、右腕を振り上げてきました。
「ひっ⁉︎」
私は目を瞑り、この後すぐに来るであろう痛みに備える。
しかし、私を襲ったのは殴られた痛みではなく、なにかが壊れるような激しい音だけでした。
恐る恐る瞑っていた目を開けると、「あぇ?」と情けない声を出しながら呆然とどこか見て、右腕を振り上げたまま固まっている男子がいました。
その男子が見ている方向に目を向けると……壊れたホワイトボードと、それを壊したであろう右手から血を流し固まっている先輩の姿がありました。
先輩は自分の右手を見た後、未だに呆然としている男子の方に顔を向け一言だけ発しました。
「なぁ。 お前……生きてる価値ねーよ」
感情のこもっていないそんな言葉を発した先輩の目は、いつか見たことのある……あの日と同じように酷く濁った目をしていました。
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私は先輩に恋心を抱いた日から、この先輩にもっと私を見て欲しい、もっと私のことを知って欲しいと必死にアピールしまくりました。
しかし、他人に対しては敏感な癖に自分のこととなると鈍感になる先輩は、ことごとく私のアピールを躱し続けてきました。
そんな私と先輩の恋の試合と共に、部活の方も先輩たちにとって最後の大会が始まります。
私との試合は芳しい結果が出ないままでしたが、それとは裏腹に部活の方は先輩を中心に順調に勝ち進んでいき、私たちの通う中学校で初の全国大会出場という偉業を成し遂げました。
ーー部活の方は好調、私も頑張らなくては!
そう思っていた矢先、あれは起きました。
その日は全国大会大会初戦の日でした。
試合前のアップを一通り行い、試合開始まで1時間を切ったタイミングで最後のミーティングを行います。
皆さん、集中していて良い意味で緊張感のあるミーティングでした。
ミーティングを終え、張り詰められていた緊張の糸が少し解けたタイミングで先輩が席を立ちました。
『ふぅ……疲れた。 ちょっとトイレ行って来るわ』
『早く戻ってこいよー』
『おう!』
他の皆さんは行かないらしく、先輩1人でミーティングを行っていた部屋から出て行っちゃいました。
先輩が出て行ってから少しして、私はハッとしました。
ーー私も付いていっていればアピールタイムに使えたのでは⁈
そう後悔すると同時に、急いで席を立ち上がり、
『すみません! 私も行ってきます!』
『お、おう……漏らさないようにな』
慌てたように部屋を出ようとする私に、なにを勘違いしたのか、顧問の先生が失礼なことを言ってきました。
『先生? 女の子相手に失礼ですよ?』
それだけ言って、私はミーティングの部屋から出ました。
トイレの場所は部屋から離れた位置にある為、先輩に追いつけるように急いで向かいたいのに人が多くてなかなか前に進めませんでした。
少しすると、なにやらトイレの方から騒がしい声が聞こえてきました。
徐々に鮮明に聞こえ始めるその騒ぎの声に耳を傾けてみると、
『ギャーヴワァァーーン』
『や、やめ……ごめ……ごべん…ッ‼︎』
『君! もうやめなさい‼︎』
小さい子の泣き叫ぶような声と共に、そんな声が聞こえてきました。
私は根拠のない、なにかとてつもなく嫌な予感を感じました。
人の壁を押し退けつつ、急いでその場所に向かいました。
騒ぎの中心に辿り着き、そこにあった光景を見て、私の頭は真っ白になってしまった。
口や鼻から血を流しながら仰向けで倒れている男の人、泣き叫んでいる男の子、その子を守るように抱きしめている母親らしい女性、もう1人の男の人を羽交い締めにしている警備員。
そして、羽交い締めにされているもう一人の男の人……私の大好きな先輩がそこにはいました。
先輩の目は壊れたようにどこか虚ろで、酷く濁った目をしていました。
私はその先輩の姿を見て、そこで完全に思考が停止してしまい、その場でただ立ち尽くしていることだけしかできませんでした。
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ーーそうだ、あの日と同じ目をしているんだ。
今の先輩も壊れたようにどこか虚ろで、酷く濁った目をしている。
まるでバキバキに壊れているホワイトボードが、今の先輩の心を表しているかのようにすら見えてしまう。
ーーこのままじゃまずい、先輩を止めなければ……。
そう思って体を動かそうとしたが、縛られているせいで身動きが取れない。
「先輩‼︎ 落ち着いてください! 」
こんな言葉だけじゃ先輩を止めることなんてできないことはわかっていた。
実際、先輩に私の言葉は届いていないのか、先輩は未だに固まったままでいる男子にゆっくりと近付いていた。
ーー私はまた……先輩が壊れていくところを見ていることしかできないというんですか……。
あの日のことを思い出し、今の自分は結局先輩の為になにもしてあげられないことに、なにもあの日と変わらない自分に……絶望にも近い、暗い気持ちが心を支配しようとしてくる。
ーーいや、私が諦めたダメだ! 私がここで折れてしまったら、それこそ本当にあの日の二の舞でしかない。 あの日感じた後悔をもう二度と味わいたくなんかない!
折れそうになる心をギリギリで踏みとどまる。
ーー私が先輩を救うって決めたんだ……私はもうブレないって、そう心に決めたじゃない!
心を支配しようとする暗い感情を押し返すように、最近決意し直したばかりの私の思いを頭の中で呼び起こす。
「お願いです、先輩! 止まってください‼︎ 私は大丈夫です、なにもされていません‼︎」
それでも声掛けくらいしか今はできないことが歯痒い。
ーーお願い、届いて!
そんな私の思いが通じたのか、私の声に一瞬だけど先輩の動きが止まったように感じました。
ーーこのまま思いを言葉に乗せて、先輩にぶつけていけば、もしかしたら先輩の心に届くかもしれない。
そんな願いにも似た淡い期待に縋るように、私は先輩に声を掛け続けようとする。
しかし、この場にいるもう1人の壊れてしまった人間によって、そんな私の淡い期待はいとも簡単に打ち砕かれた。
「さすが僕の愛する女性だよ! 僕が生きてる価値がないだって? そんなわけないじゃないか! だってこうして彼女は僕の為に、あなたようなゴミを止めようとしてくれているんだから‼︎」
私が先輩を止めようとしている理由を自分の為になんて、都合の良い自分勝手な解釈をして調子を取り戻した所為で、暴走を始めた。
「ねぇ? いい加減帰ってくれないかなぁ? 僕は今から彼女と愛を育みあうんだから! 僕も彼女もゴミが近くにあると迷惑なんだよねぇ……だからさぁ、ほら早くかえ……んぐっ⁉︎」
そんな根も葉もない適当な妄想話を最後まで言い切ることはありませんでした。
先輩の伸ばした左手が、男の首を絞めたからです。
「ッ⁉︎ ダメです先輩! それだけは本当に……取り返しがつかなくなっちゃいます!」
あの日と違って物理的に先輩を止めてくれる人間は今、この場にいない。
このままでは本当に不味いと、叫びにも近い大きな声で先輩を止めようとする。
しかし、すでに先輩の耳には私の声が届いていないみたいです。
先輩は男の首を絞めたまま小部屋から出て行きました。
机や椅子が吹き飛んだような激しい音を立てると共に、「イデッッ‼︎ ゲホッ、ゲホッ」という男の叫き声と咳が隣の部屋から聞こえた。
「お願い……誰か助けて……このままじゃ先輩が……私の所為で」
諦めるように俯きながらボソッと口から溢れる。
ーーこのままここでなにもできず、ただ先輩が壊れていく音を聞いているこ……。
「奈美ちゃん! 大丈夫⁈ 」
全てを諦めかけた私の元に優子さんが駆けつけてきてくれました。