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75話・アーデルベルトの風

 窮屈な艦船から解放されると、そこはすでに故郷だ。

 行きは珍しく新鮮な海洋風景を楽しめたけれど、帰りは水平線に沈む夕日を眺めただけで部屋に閉じこもって過ごした。

 たぶん、渓流で溺れかけた経験が精神的外傷になって残っているんだろう。

 広い海原で、こんなにちっぽけな箱に命を預ける心許なさ。落ちたら最後、溺れて沈む。あの冷たさと息ができない苦しさ、それらを含めた死の恐怖が私を甲板から遠ざけた。

 それだけに、桟橋に降り立っただけで、全身の力が抜けそうなほどの安心感を覚えて深く溜息を吐く。

 風の柔らかさも潮を含んだ匂いも大陸とは違って、私の緊張を解してくれる。

 やっぱり、私が生きてゆく場所はここだ。

 出迎える人はいないけれど、出入国管理事務所の職員さんが潮風に煽られるスカートを押さえながらこちらにやってくるのが見えた。

 ギルたちは、このまま別の係留桟橋から下船して中央軍本部基地に真っ直ぐ帰還するとかで、ぞろぞろと隊列を作って規則正しい動きで去ってゆく軍人さんたちを見送りながら、私から職員さんに駆け寄った。

 さあ、出入国窓口に寄って、宿に行こう。

 なんとなく平衡感覚が戻らないふわふわした足取りで、笑顔の職員さんお後についてゆく。


「ただいま、アーデルベルト」


 小さな声で、こっそり呟いてみた。


 

 中央宿泊社《香麗花》の特等室で、何をするでもなくぼんやりとソファに横たわっていると、だんだんと気持ちが萎えてくる。

 リカルド国王の私費から払われた報酬は思いがけず高額で、だからといって散財する気になれず、自腹かしらとドキドキしながら宿に入ると、これまた中央軍から協力褒賞という名目のひとつとして特等室が用意されていた。

 宿に入ってからすでに四日。

 王城の優雅な客室とは真逆な、機能美溢れたモダンな部屋で浮かれ楽しめたのは二日までだった。亜空間倉庫の底に投げ込んだまま放置していた書物は読み尽くし、カルミアで入手した薬草や鉱物の【分解】や【生成】の作業も終わらせてしまった。三日目の独りで味わうディナーで寂しくなって、今日は朝から欝々と……。


「もう、帰ろうかなぁ」


 うう。なんだかんだ言っても、結局私は貧乏性だ。清貧第一とロンド婆ちゃんに躾けられてきたせいか、大金を稼いでも無駄遣いはできない性分に育ってしまった。

 街に出て思いきり買い物をしたり、有名店で人気のお菓子を食べまくってみたりしたら、きっと楽しいに違いない。その時だけは。

 帰ってきたら、商品の山を前にどーんと落ち込む私の姿が見える! 

 それに。


「ショーティー、寂しいよう。ギルのバカ! 唯一の家族まで奪っていっちゃってぇ! でも、でもでも、もう私のショーティーじゃないのよねぇ……」


 悪いのはギルじゃなく、フェルデだってことはわかっている。

 ギルの中に封じられてしまったフェルデは、自分の代わりにショーティーを密かに実体化させて私を捜索させた。見つけた時に虫の息だったのは、封印による魔力の供給不足と高濃度の魔素に侵されたせい。

 私が助けたことでゆっくりと魔素中毒から抜け、ギルとの()()を切っ掛けに魔力不足が解消されて、本来の大きさに戻れたってわけ。

 そして、『漆黒の』異名を取り戻したギルは、闇属性の魔獣を作り出す能力を持ち、ショーティーを自在に操る立場にもなった。私の大切な家族は、ギルの従魔だったってこと。


「はぁ……やっぱり、マジュの森に帰ろう。重要な要件があるなら、ギルが来ればいいんだわ!」


 私はそう見切りをつけるとソファから起き上がり、寝室に置いた鞄を開いた。

 ディナー用にと奮発したドレスとワンピース、揃いの小物や装飾品を仕舞いこみ、お洗濯サービスから戻った旅行用の衣装に着替える。後は――。


「なぜ、君がそこにいるの?」


 覗き込んだ鞄の中に、真ん丸な翠の目玉がふたつ浮いていた。


「うみゃ……」

「おかえりと言ってあげたいけれどさ、君はギルの従魔なんでしょう?」

「うぎ……」

「待てと伝えられて四日も待ったわ。けれど、もう豪華な宿で寛ぐのは飽きたの。だから、マジュに帰る。そう、君のご主人様に伝えて?」


 丸い翠色の目が細くなり、申し訳なさげな鳴き声が漏れる。

 私だって一緒にいたい。中央から逃げた時のように、一緒にマジュに帰りたい。


「じゃあね。ショーティー……長い間ありがとう。また逢えたらいいね」


 浮かんできた涙の膜に慌てて目を閉じ、たまらない思いを隠してそっと鞄を閉じた。

 宿の受付に手紙を頼み、私はその日の内に中央都市から去った。


 あの日も逃げた。

 煩わしさと腹立たしさに背を押されて。

 ひとりと一匹だったから、寂しくはなかった。

 今は、わたしひとりで魔道列車に乗る。

 恋しさに後ろ髪を引かれて振り返っても、聴きたい声は届けられず、見つめたい姿は幻みたいに消えたまま。

 遠くなってゆく中央都市と、その向こうに微かに見える中央本部の影に目をやり、胸の中で……いいえ、声に出して言ってやる。


「自分から折れるのは、もうこりごり。用があるなら、好きに追ってくればいいんだわっ」


 窓の外を流れる風景を睨みながら、唸るように吐き出しだ。

 

「あの時みたいに、もう森の中で倒れることなんてないでしょうし! だって、『漆黒の魔法士』様になったんだしぃ? ふんっ」

「だから、追いかけてきた。それで許せ」


 え? 何よ!? 声まで幻が!?


「あ……」


 声は、幻じゃなかった。

 あの、何とも言えない妙な色気を湛えた男が、真面目腐った表情で通路に立っていた。

 こんな時くらい、微笑んでよ! 朴念仁! 


 

 

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