63話・夜と漆黒 3
朝日が昇り、靄を透かして陽射しが草花の屍を照らす。その中を、私はギルに手を引かれて歩いていた。
手を繋いでいるとはいえ早朝の爽やかな散策じゃなく、私たちの間にはピリピリと張りつめた空気が漂っている。
握られた手首に骨が軋むような痛みが走り、まるで強制連行の様相をていしていた。大股で歩くギルに昨夜まであった気遣いは感じ取れず、私は眉を顰めながら黙って引きずられて行くだけだった。
昨夜、何があったのかを語ろう。
ギルの背中にあった火傷痕はきれいさっぱり消え、その下から見事な紋章刻印が現れた。異名の紋章は、案の定『夜の魔法士』と同じ物だった。
あまりの美しさに、私は触診のためじゃなくただ触れてみたい欲求に駆られて右手のひらを紋章に押し当ててしまった。
他の異名持ち相手なら、常識を弁えてさえいれば何の問題もない行為でしかない。でも、相手が対であった場合、親密な関係じゃないならそれは避けるべき触れあいだった。
ギルの肌に触れたと同時に私の手の甲に『翠の』と『夜の』紋章が浮き上がり、熱をはらみながらぴたりと重なる。翠の六角水晶が剣先の輪郭をなぞり、黒い短剣と長剣が三股の葉に葉脈を描き出した。
驚きと戸惑いはすぐに霧散し、やがて接触している私の腕を通って濃厚で熱い魔力が流れ込んでくると、紋章が刻印されている内股まで激流となって押し寄せた。
初めて感じる歓喜と愉悦。全身が火照って汗ばみ、支える力が抜けてゆく。
「ああ……」
ゆるりと訪れた酩酊感の中でギルの喘ぎが聴こえ、わずかにこびり付いていた理性が悲鳴を上げた時にはすべてが終わっていた。
ギルの異名が覚醒した瞬間だった。
裸の背を向けていたギルは無造作に立ち上がると、私に意識を向けることなく天幕から出ていった。
熱い肌から遠ざかった途端、一瞬前までの自分を思い出して呆然となる。
「Kal Vas Xen Nied」
天幕の前に立つギルが聞き慣れない言語を紡ぐ。すると、部屋の隅に伏せていたショーティーの巨体がゆらゆらと崩れて黒い霧に変わり、ギルの胸の辺りに吸い込まれていった。
私は呆けたまま、天幕の開口部から一部始終を眺めていた。
目の前で信じられない出来事が起こっている。あれほど私を気にかけてくれていたギルが、私の大事な愛猫を何の説明もなく消し去ったのだ。
「なっ、何をしたの!?」
慌てて天幕から這い出てギルに問うが、向けられた冷淡な相貌は私の知る彼のものじゃなかった。
「あなた、誰!?」
自分の口を衝いて出た疑問がおかしいことは理解している。
目の前に立つ相手は、私を横切って天幕を出ていったはずのギルだ。でも、ギルとはまるで気配の違う男が私を冴え冴えと見下ろしていた。
あの愛する湖の色を湛えていた瞳の片方は黒く染まり、過酷な日々の連続で艶を失っていた金色の髪は、ところどころが黒く変色している。
――やっと会えたわ。フェルデ!
ふいに、とても嬉しそうに誰かの名を呼ぶ女性の声が頭の中に響いた。
「フェルデ!」
次に、その名を口にしたのは、私自身だった。
私の唇が、私の声が、私の体が、私の意思を裏切りだした。
「レイカ……待たせた」
色彩を変えたギルが喜びを隠せないといった様相で目を細め、私に腕を伸ばして抱き上げる。
私も心の奥から溢れ出る幸福感に酔いながら、逞しい胸を抱きしめた。
でも、どれも[私]の意思じゃない。
誰かが――レイカと呼ばれた女性が私の肉体を乗っ取って操っている。[私]は意識の底に押し込められて自由を奪われ、何もできずにただ見て聞いているしかなかった。
まるで水底に沈められ、揺れる水面越しに空を見上げているような。
「ええ。ようやくこの時が来たのね」
「この男の母親が余計なことさえしなければ、もっと早く来れたのだが……」
「あなたもいけないのよ。幼子が突然大人のような振舞いをすれば、親であっても恐れるわ。静かに成長を待っていれば――」
何を言い合っているの? フェルデとレイカと呼び合うこのふたりは。
今の話は、ギルが幼い頃のことよね?
「待てなかったのだ。お前に会いたくて……」
「そのせいで遅くなってしまったのじゃないの。でも、間にあった」
「黒主をその女の母親に付けた甲斐があった。よく導いてくれたものだ」
ギルが私を強く抱擁し、愛おしげに顔中に口づけを落としてゆく。
なのに、そこにいるのは[私]と[ギル]じゃない。
それに、幼いギルに残酷な仕打ちを下す原因となったのは、フェルデと呼ばれている男なんだと知った。
閉じ込められている私の意識が凄まじい怒りに染めあげられ、この理不尽な束縛から逃れるために噴き出す激情のまま暴れ狂った。
ギルを犠牲にするなんて!! 私をここから出せ!!
「きゃっ!」
「レイカ!」
馬鹿にしないで! 誰が私の体を好きにしていいと言ったの! 私もギルもあんたたちの玩具じゃないわ!
「あん……あんたたち、何のつもりで! あんたも、ギルから出てってよ!!」
私は男に夢中だったレイカの意識を怒りの感情にまかせて蹴り出すと、抱きしめていたギルの胸や肩に拳を振るってフェルデを追い出そうと躍起になった。
すぐに愛する女の意識が飛ばされたと悟った男は、私を突き飛ばすと二歩三歩と後退った。
「貴様……よくも、レイカを!」
剣呑な形相のフェルデは、衝動的に剣を抜くと私に向けて振りかぶった。
――やめて!! フェルデ!
半透明な人影が、私とフェルデの間に立ちふさがる。
薄緑の衣を纏ったほっそりとした肢体の女性が、両腕を広げて私を庇いながら叫んだ。
彼女がレイカ。私に時おり話しかけたり、私の体を勝手に自由に使った女だった。




