6話・愛猫とふたりで逃避行
私の故郷であるマジュの森は、中央都市から三日かけてマギ・トレインを何度も乗り換え、下車した駅から今度は徒歩で六時間の道程にある。
そこは片方の豆の中央部にそびえ立つ霊峰アリスレードを囲む広大な森林地帯の奥で、何がいるかさえいまだ解明されていない人外魔境だ。
人の出入りが乏しいために道なき道を辿ってどんどん奥へと進み、時々大木の下で休憩を取ってまた歩く。
「ショーティー。ありがとう。君がいてくれて助かるわ」
「ニャウ」
謎の子猫のくせに、方向も獣道もきっちり判断して先導してくれる。ただ、下草が生い茂る森の中では黒い上に小さすぎて、度々見失いそうになるけれど。
携帯ポットに魔法で水を注いで、魔道コンロの火にかける。
お湯が沸くまでの間にショーティーにご飯をあげて、鼻歌みたいにニャウニャウ呟くのを聞きながらポットにお茶の葉を入れる。声を出しながら餌を食べるって、なんて器用なのかしらと感心してた頃が懐かしい。
甘酸っぱい花の香りが立ったら火を止めて、ゆっくり蒸らして飲み頃温度まで下がったらカップに。
「蒸らし過ぎは怖いから……」
シーベルの花茶は、安眠薬として知られている。
普通のお茶じゃないから、手に入れるには薬師の処方が必要だ。
じっくり蒸らして濃いお茶を一杯飲んだら、あっと言う間に夢の世界。ただ、疲労回復と精神安定の効果は抜群で、お湯の温度と蒸らし時間さえ間違えなければ不用意に眠りこむことはない。……はず。
「さて、そろそろ結界も近いから急ぎましょ」
「ニャ」
茶器と餌皿を魔法水で手早く洗って鞄に放り込み、ひとつ伸びをして体を解すとまた歩き出した。
結界と私は呼んでいるが、魔法とは違う自然発生した禁忌の空間。
それは霊峰から溢れでる魔素によってできたモノで、通常の人間は長く滞在できない。それを見誤ると、初めは頭痛や吐き気、眩暈や疲労感が起こり、酷い時には昏倒したり急性心不全で亡くなったりする。
そんな場所を故郷といえるのは、私が異名持ちだから。
霊峰からあふれ出す力は、神力の残り滓。
神はこの世界を維持するために、時として天から神力を振りまいている。などと言い伝えでは語られている。
その余剰劣化した力の廃棄場所が、霊峰アリスレードらしい。
これが、多くの魔法使いを生み出す要因になっている。
え? 情緒も風情もないって?
そりゃ、そうよ。実際は、まったく違うのだから。
神力の欠片もクソもない。この結界は、単に魔素が淀んで溜まり、年月をかけて層になった重魔素地帯でしかない。
それだけに濃度が高く、異名持ちくらいの吸収能力がなければ侵入できない。
そんな危険な層の中に、私の生まれ育った家はあるのだ。
私の母は、私を産んで半月もしない内に亡くなった。
赤子の私を育てたのは、身重の母を保護してくれた『月の魔女』の異名を持ったロンド婆ちゃんだった。
母はどこの誰で、私の父親は誰なのか、何も話すことなく亡くなったらしい。母と私の容姿からとある少数民族だとまでは推測できたが、衣服や持ち物を調べても最後まで身元は判明しなかったそうだ。
母が私にくれたものは、血統と初乳とすくない荷物だけ。
いちばん大きな大陸の極東に存在していた、今は亡き小国の民。
私以外にも命を継いでいるだろうが、きっとこの国ではないだろう。
「だって、今まで同じような人と会ったことないもんねぇ」
私が十五の時に儚くなったロンド婆ちゃんは、私に物心がついたとみるや繰り返し母に関するすくない情報を話して聞かせた。
私が彼女と同じく異名持ちだったせいもあるが、それ以上に特異な点が多かったこともあるだろう。
容姿や高位のスキルや――謎の民族性。
忘れるなと、厳しい表情で何度も念を押された。
そんなロンド婆ちゃんも寄る年波に勝てず、小さな家と共に彼女の財産すべてを私に残してこの世を去った。ふたりで過ごした家は、死しても継続する『月の魔女』の能力で劣化を寄せ付けず、無人になると自動で異空間に姿を消す。
家に着けばもう安全。私を傷つける人は誰もいない。
すこしずつ近くなる故郷に、心が早く早くと急き立てた。
一歩進むごとに魔素の濃度が増しているのを感じるが、同時に木々の色合いも深く濃くなり薄暗さも増してゆく。
もうすぐと思って頑張って歩いてきたけれど、どうも道案内の愛猫が迷子のご様子だ。
なのに、迷った素振りも見せずに黙々と進んでゆく。
「ショーティ……どこに向かってるの? 方角が違う気がするんだけど」
正面に霊峰を置いて歩いていたはずが、わずかに右へ逸れて行ってるのに途中で気づいた。
このまま進むと、結界の外周をぐるっと回るだけで何があるわけじゃない。つまり、霊峰の麓を一周するってことになる。それじゃ、いつまでたっても家に到着できないじゃないか。
私の問いかけにショーティはなんの反応も返さず、まるで目的の場所があるかのような確かな足取りで、小さな黒猫は下草の中を進んでゆく。
「ねぇっ! ショーティ! どこに――あ」
右に逸れてから一時間くらい歩いただろうか。いい加減苛立ちが募って声を張りあげた時だった。
藪を抜けて湖の畔が木々の間から見えてきたと思ったら、水際に転がる異物も一緒に視界に飛び込んできた。
霊峰アリスレードの麓に点在する七湖のひとつ緑光湖の水際に、存在するはずない物体が――人間――が横たわっていた。
目がそれを捉え、頭が人と認識した途端、反射的に脚が動いた。
気づけば、異物に向かって走りだしていた。
近づく間も目を離すことなく倒れ伏した人を観察し、脳裏で原因を予測する。
成人男性、重装備から考えるに目的あって樹海に侵入、装備の乱れなし、外傷らしき流血は見当たらず、飲料水確保のために湖に近づいた? その結果、高濃度の魔素による中毒症状のため昏倒……。
「あなた! 意識はありますか!」
うつ伏せに倒れた男に走り寄り、すぐに大きな声をかけながら手首を取った。
いきなり肩を掴んで揺すったり、状況確認しない内に頭や頬を叩いたりしてはいけない。転倒などによる強打で、頭部や腹部を損傷している可能性があるから。
「弱いけど脈あり。口元には吐血や吐しゃ物なし」
手首から首の動脈に指先を移し、声をかけながら頬を軽く叩いて、次は瞳孔確認をと閉じた瞼に指を滑らせた。
「あれ? この人……」