61話・夜と漆黒 1
異名を持つ者は、ことのほか多い。
異名自体の種数も多く、下位の異名だったり生産系や防衛系の異名持ちは、同じ名を持つ者が複数人いたりする。
対照的に、高位や最高位の攻撃能力を有する異名持ちは下位や中位ほど多くはない。先の大戦時に兵士として駆り出されたり、貴族たちが召し抱えるために異名狩りをしたせいで、減ったり絶えたりしたのだそうだ。
残された下位や生産系は、当時は《役立たず》扱いで見向きもされなかったとか。不幸中の幸いとでもいうのか。
それが原因で対が存在しなくなった異名がいくつかある。その点に関しては『翠の魔女』だけが特別なわけじゃない。
ただし、『翠の魔女』の対である『夜の魔法士』だけは、不吉な異名としてて永く黙殺されてきた。事実、保護局ですら『夜の』異名持ちの存在を確かめようとしたことはないし、異名持ち自身が名乗り出てきたこともないとか。
そんな人を今更どうやって捜せというのか。
小箱を返せ寄こせと無関係の人を苦しめる余裕があるなら、先に条件を伝えておけと苛立つ私を誰も責めはしないだろう。
「あれが『夜の』なら、わざわざ連れて来いなんて言わないわよねぇ……。ああん! もー面倒くさいっ。始めから告げておいてくれればいいのにっ」
「たとえばの話だが、大昔の『夜の魔法士』が魂だけ封印され、新たに生まれた『夜の』異名持ちを待っているとしたら、どうだ?」
「待って、どうするの?」
ショーティーにお願いして天幕分の床を掃除してもらい、どうにか建てた天幕の中で私は座り、ギルは上半身裸で横たわっている。
べ、別に色っぽい状況とかじゃないんだからねっ。ここのところずっとふたりきりなんだし、今さら色めいた雰囲気なんてないんだからっ。ちょっと寂しいんだけれど。
それよりも、もっと重要な――ギルの火傷痕を治療をしてるだけなんだから。
「……肉体の乗っ取りだな」
「そ、そんなこと……ねぇ、治療はやめよう? この仕事が終わって無事にアーデルベルトに帰国した後にでも……」
「疑いは早めに解決しておくのが信条だ。違えばこの後の『光の』を捕縛すのに有利になるし、当たればリンカの仕事を速やかにすませられる」
「そんなこと言ってるんじゃないの! 体を乗っ取られるなんて危ない状況じゃないの!」
「単なるたとえ話だから、リンカは心配するな」
「ギル……」
私の心配をよそに、ギルは久しぶりに明るい笑顔で私の頬を優しい仕草で打った。
他の時なら嬉しい触れあいも、今は溜息を誘うだけ。治療を進める自分の手に視線を落とし、赤黒く変色した引き攣れを見ながら「違って」と祈る。
手のひら大の痣は、触れば温かい。血の通った肌は無残に引き攣れて、見ているこっちが痛みを感じてしまう酷さだ。こんなものは治せるならすこしでも早く消してしまいたくなる。
でも、その理由が私の仕事のためなんて……。
どうしてギルが治療を急がせたのかといえば、私が『夜の魔法士』の話をしたのが原因だ。
忌まわしい存在として<神の加護を持つ者>の席から抹消され、異名の知識を持つ人々の間では今も忌み嫌われていると。
ギルは、その差別を自分の生い立ち――母親らしき女性が行った仕打ち――に当て嵌めてしまったようだった。
誰もが喜び称える異名を、人知れず消し去ろうとした痕跡がここにある。子供に苦痛を与えてでも、異名の紋章を隠そうとした痕が。
それは親の愛だったのか、自分を守るためだけの行為なのか。捨てられたという過去から、今はもう確かめるすべはないけれど。
女神様、お願い。ギルにこれ以上の禍が訪れないように護ってください。
何度も心の中で繰り返しながら、私はその逞しく広い背中の右寄りにある痣のために薬を練った。
一夜が明け、巨大化したまま戻らないショーティーには血抜きしただけの中型獣を与え、私たちは携帯食料と簡単なスープで朝食をすませてから中庭の様子を窺いに行った。
封印されていた扉を破壊したことで、何らかの変化が起こってしまったんじゃないかと心配になったからだ。あの塔内の強固な結界から出てこれるとは考えていないけれど、手足のように使っていた黒い蔦で何かをやらかさないとも限らない。
「ギル、背中はどう? 痛みは?」
「ピリピリする痛みはまだ続いている」
生傷と違って動くのには支障がないけれど、塗布した薬は皮膚再生の活性を促す鉱物を使用しているせいで、微細な棘で刺され続けるような煩わしい痛みが一日中絶えない。それがなくなったら完治の合図なんだけれど、早くても丸一日はかかる。
無意識に漏れる溜息を寸前で飲み込み、回廊の隅から塔を眺める。
陽が昇っても薄靄に満ちた中庭は静まり返っていて、霞む塔に変化は見えない。
ぽっかりと黒々と口を開けた扉なしの出入口からも、何かが漏れ出ている気配はなかった。
それよりも、気になることがある。昨夜は逃げ出すことばかりに意識が向いていたせいで気づかなかったが、欄干の薄気味悪いあれこれがきれいさっぱり消えているのだ。
「ねぇ? 橋の欄干の……」
「俺とショーティーが扉を破壊している最中に、突如として砂になって消え失せた」
「……」
そろりと足音を忍ばせて回廊に出ると、塔から目を離さないようにしながら回廊から続く一際広い廊下へと足を進めた。
宮殿の中央棟に続く廊下らしく、昨日私たちが辿った廊下とは違う間口の広さと豪華な造りだった。ショーティーが足取りも軽くそこに向かって走ってゆく。巨大な愛猫を信じて、私たちも後を追っている。
何をするのかといえば、探し物だ。
ギルの治療が終わるまでの間、あの塔に関する何かが残されていないかを探ることにした。どの小部屋にも作り付けの家具以外は何も残されていなかったけれど、すこしでも手掛かりがないかと考えた。
これといって他に手段が思いつかないなら、時間を有効利用しようというわけだ。
「皇族以外の民は、皇王の命で国を出るように言い渡された。だから、財産を持てるだけ持って逃れた。俺たちが覗いた小部屋は、そうした宮殿勤めの者たちの住居だったのだろう」
「なるほどね。それで、室内は空だったんだ」
「そうだ。だが、皇族はここに残って自害した。最後を任された臣下か誰かが、結界を発動させて――」
「ああ……」
回廊を背に廊下を進むと、飴色の厳めしく重厚な扉に行き当たる。塔のそれの倍はありそうな大きさの扉を押して、覗き込んだ先は大広間らしかった。
最盛の頃は目にも鮮やかな彩色に溢れ、豪華絢爛な装飾と照明に満ちていた跡が偲ばれた。しかし、それらは時の流れに削られて、今はがらんとした空洞でしかない。
その一面に皇王の玉座があり、首を失くした主と近しい者たちの亡骸が寄り添っているだけだった。
「欄干に並んでいたのは……」
私の呟きは、ギルに抱きよせられて厚い胸に阻まれ消えた。




