凍る記憶
ふいに木々の陰で何かが光った。
足を止め、光の元を探して視線を巡らせる。慎重に動きを再開し、足音を立てないように接近を試みた。
山中の深い森で索敵行動中だった。
この辺りだったかと速度を落として太い幹の根元を覗きこんだ瞬間、光蟲のようなぼんやりとした発光物がいくつもロイの頬を掠めて消えてゆく。
やがて、ねっとりと甘く心に絡みつくような香りが彼を包み込んだ。
護衛対象である異名持ちの少女リンカ・レンショウが、予期せず連れてきた形になった謎の魔獣が思いのほか役立っていることで、部隊員の胸に湧いた不満はわずかばかり解消された。
平時は黒い子猫に変化して愛嬌を振りまき、事が起これば頭だけでも一抱えはありそうな魔獣に巨大化して速攻迎撃態勢に移る。特殊部隊の隊員たちを尻目に、わずかな気配や匂いや音を察知し、彼ら以上の俊敏さと隠密行動、そして圧倒的な威力を発揮して敵を屠るのだ。
ロイたちはその様子を見て、好意的に受け入れた。
今も何度目かの敵の接近に、はやくも気づいた魔獣ショーティーに従うと先手を打って撃退した。
襲撃者はあらかた始末したが、つぎつぎと襲ってくる連中の足取りを見つけるため、死体を埋葬している現場からすこし離れた。
ロイの鼻を、奇妙な匂いがくすぐる。
あまりにも場にそぐわない心地よい香りに、元を探ろうと足を進めた。さきほどの光蟲はこの匂いの元に集まっていたのかと考え、すこしでも長く味わいたい欲求がロイを突き動かしていた。
正常な精神状態だったなら光蟲が行動する季節や樹液の匂いにしてはと違和感を覚え、即座に危機を察して仲間のいる方角に後退していただろうが、その時のロイはすでに判断能力すら失いかけていた。
香りが強くなると同時に、足元が疎かになりつつある。己がどこへ向かって歩いているのかさえ曖昧になり、肉体が急に重く感じられた。
――この香りは好きかい? 心地よいだろう? 君は物凄く疲れているんだ。思い切り吸い込んで、気分を軽くするといいよ。
「ああ……そうだな。気分がいい」
耳元で柔らかな声が囁く。
男の囁き声など普段なら気色悪いだけだったが、心身を楽にしてくれる指示はロイの耳の奥にするりと滑り込む。
――でも、長くは続けられない。ここは森の奥だからね。次にこの香りで心を休めたいと思った時は。
「思ったら?」
――香りの元を独り占めして、安全な場所まで逃げればいいよ。そこで思い切り香りに包まれて休めばいい。……永遠に。
「そうだな……今は任務中だ。だから――」
襲撃者を倒した部隊員たちが、つぎつぎと野営基地に戻ってくる。謎の巨獣も今は黒猫に戻り、澄まし顔で意気揚々と主人の許に駆けてゆく。
ロイは帰還部隊員に混じって「異常なし」と隊長に報告を上げると、足をのろのろと重たげに引きずって夕食の輪に加わった。
誰もロイの異変に気付かず、疲れているのだろうとくだらない雑談を控えただけで彼の不調を見逃した。
言葉少なに食事を摂り、夜番の確認だけをして早々に天幕に向かう仲間の背中を見送り、励ましの声など気休めにもならないと誰もが実感していた。目的地まではまだ距離がある。今は言葉よりも休息が必要だと。
リンカの護衛に就いていたジャルが気をきかせて疲労回復薬と快眠剤を手渡してくれたが、ロイは天幕に入るや否やそれらを空間アイテムに放り込んだ。
含む気にはならない。不信と拒絶が先に立って、受け取りはするが一切手を付けずに取ってある。
そんな物に頼らなくてはならないと判断されたことが許せず、リンカだけではなく仲間の厚意さえ忌々しく思えてならなかった。
その判断が誤りだったと悟ったのは、なぜか捕縛用のベルトで胴や手足を拘束され、ラグールの側の樹に括りつけられている状況に気づいた時だ。
どうしてこんなことにと脳裏を探れば霞がかかったような記憶しかなく、光の粒と甘く心地よい匂いに遭遇したことしか覚えていない。
悪夢と言ってよいのか。
穏やかな安らぎと快感の中でまどろみ、もっと強い香りを求めて腕を伸ばして掴みかけ――。
思い出そうと頭の中を混ぜっ返し始めた途端、急激な頭痛と吐き気に襲われてえずく。二日酔いですらここまで酷くないと嘆き、苦悶した。
「なんっ……」
苦痛を和らげることもできずに唸り、痛む目をこじ開けて周囲を確かめても四肢を拘束されて転がされているみじめな己の姿しかない。
声を出そうとしたが喉は渇きに貼りつき、後が続けられない。
「よう、ロイ。頭は正気に戻ったか?」
がさがさと下草を踏む音と共に、副隊長のしゃがれ声が頭上から注がれる。
「な、ぜ?」
「覚えてないのかよ。お前、いきなり護衛対象を拘束して、橋の上から渓流に投げ込んだんだぞ?」
「まさ、か……げほっ」
驚きに声を上げかけ、痛む喉に咳込む。
冷淡な気配を宿した目を眇めて鼻で笑った副隊長は、おもむろにロイの空間アイテムの中に手を突っ込むと、リンカが提供してくれた薬剤を引っ張りだした。
いくつも転がり出てきた薬瓶やパックを見て、薄笑いを消して舌打ちをする副隊長にロイは目を閉じた。
「バカがっ。ほら、呑め!」
呆れたふうな口調の叱咤と共に封が切られたパック入りの液剤が、ロイの口内に有無を言わせず押し込まれた。
微かな拒否感を覚えつつも、それを上回る喉の渇きに負けて流れ込んでくる甘苦く爽快な刺激の液体を嚥下する。
急速に苦痛は消え、砂袋のように重く感じていた肉体から倦怠感が去る。残ったものは、明瞭な思考力と明確な視界、痛みと不調が拭われて軽くなった身体だ。
『翠の魔女』の薬。
怖ろしいほどの効果に、ロイは驚愕し悔やんだ。
頬を地面に押しつけ、滲む涙を隠す。
「お前、何をされた?」
「……被害に遭った女性相手みたいな訊きかた、しないでくださいよ」
「ここまでやっといて、ふざけるんじゃねぇ。隊長は自分の命と引き換えにしただけで単なるはた迷惑ですんだが、お前の場合は殺人未遂だ。それも、任務失敗の上に本命を逃がすところだったんだからな」
ロイの肩を厚底の軍用靴が軽く蹴り、仰向けに転がされる。
「……ところだったって、まだ任務は遂行中なんですね?」
「言ったろう? 殺人未遂だと。行方不明だが護衛対象はまだ生きている。なんたって不死身な男の異名を持つ隊長様がご同伴したからな。現在、彼女のデカい愛猫が捜索している最中だ」
「ありゃ、悪運というんですよ……」




