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52話・影からの逃亡 2

 苦痛と感じる時期はとうに過ぎ、今は惰性で足を前に踏み出しているだけだ。前を歩くギルが後ろ手に私の左手を握っていてくれるから、まだ動いていられる。

 これが平時なら、どんなに嬉しいだろう。

 だが、現実は深い森が続く山中を、蛇行しながら目的地へと向かっている。私が離れないように疲れないように、手を繋いで引っ張ってもらっているだけでしかない。

 思い返せば、手を繋ぐどころか抱きあげられたり抱きしめられたり、あまつさえ半裸で抱き合って眠ったりまでしたのに、今さら手を繋ぐぐらい何でもないでしょう? と、胸をときめかせてしまう自分に問う。

 でもと、もうひとりの私が反論する。

 あの時は嬉しさよりも、驚きと子ども扱いされた恥ずかしさが先に立って、困惑するだけで終わってしまった。抱きあって眠ったことだって、ギルを助けたい一心で行った治療行為でしかなく、恋心も興奮も吹っ飛んでただ必死だった。

「それに、ギルは気づいてないし……」

「何か言ったか?」


 防寒フードが振り返り、金髪の間から薄緑の眼が私を見下ろす。薄暗い山中だけに、透きとおるような輝きは失われ疲れてみえる。


「う、あ……そろそろかなぁと思って」


 ぎゅっと握られた大きな手の温もりは、今の私にとっては命綱。

 ギルの手には、色恋なんて微塵も含まれていないのが、ちょっと切ない。


 渓流を離れて三日が過ぎ、その間に味方にも敵にも会うことはなかった。代わりに、お腹を空かせた魔獣とぶつかること三度。

 剣を振るうギルから離れ、大木を背にして小さく身を縮めて避難する。手に強い刺激臭のする忌避剤とグランガ魔草の種の入ったパックを握って。

 自分が不用意に動けば、ギルを窮地に立たせてしまう。それだけを何度も心に戒めて、魔獣を撃破するまでじっと隠れている。

 目の前で何頭もの魔獣に囲まれているギルを見るたび、心臓をぎゅっと掴まれているような苦しさに襲われる。手際よく簡単に斬り伏せているのを見ても、苦い辛さはずっと続いた。

 せめて自衛の障壁スキルくらいあれば、足手まといにならずにすむのに。

 幸いだったのは、どれも単体だったことと食材にできる相手だったことくらいかな。


「異国に追われるほどの異名なのに、使えない異名だって思っちゃう自分がとんでもなく傲慢に感じちゃって……イヤになるわっ」

「いきなり何を言いだすかと思えば……。人生なんざままならないものだ。幸も不幸も神の手の中にある」

「……神様の差配って、どうしてこうも不公平なんだろう」

「神の立場から見たら、死んだ時に帳尻が合ってりゃいいのさ」


 人がどう生きるかなんて、神様には関心のないことなのかな。最後の最後に帳尻が合っていれば、どんな内容かなんてどーでもいいのかなぁ。


「……そう考えると、ロベルトやロイは憐れね……」

「ロイはともかく、ロベルトは碌でもない奴だったが殺されてもいいとまでは思えなかったからな。しかし……人のことより、己の現在の状況はどうなんだ?」

「こんな不幸な私につき合わされてるギルも、すっごくかわいそう!」


 自棄になって喚いてみる。すると、ギルも自棄気味に笑った。

 もちろん、声を潜めての会話だから精神疲労の解消にはならない。ただ、黙々と歩くことに私たちは飽きていた。

 枯れた下草を踏みしめ、白い息を吐きながらひそひそと小声で愚痴を零し合う。 

 と、突然ギルの足が止まり、握った私の手を強引に手繰り寄せて背後に庇う態勢をとると、近くの茂みに身を伏せた。

 静まりかえった周囲からは風が枝を揺らすざわめきと奇妙な鳥の奇声、そして、すこし離れた場所で誰かが何かと戦っている物音がした。

 複数の人間が魔獣と戦っている最中らしく、攻撃魔法が風を切る音や怒号と悲鳴が聞こえる。

 けれど、すぐに静寂が戻った。どうやら魔獣の圧勝だったよう。

 がさがさと藪を掻き分ける音が、だんだんと私たちに近づいてくるのに息を呑む。強張る手でギルのコートを掴み、呼吸の音すら漏れないようにと口を噤んだ。


「ガウッ……グルグルルル」


 はたして草むらからぬぅっと現れたのは、真っ黒な巨獣だった。

 艶やかだった黒い被毛はあちこち焼け焦げ、敵を屠った赤い残滓が飛び散っている。


「ショーティー……」

「グゥッ」


 名を呼ぶと、いつもの甘えた喉声を鳴らして寄ってきた。自分の大きさを忘れてか、嬉しげに頭を下げて撫でてくれとせがんできたけれど、鼻をつく焦げ臭さと血生臭さに私はうっと息を詰めた。


「よくやった。凄いなお前は!」


 ギルが声を弾ませて、私の代わりに真っ黒で大きな頭をがしがしと手荒に撫でながら褒めると、鋭い牙が覗く口を赤く染めた巨大獣は目を細めて喉を鳴らした。


「ショ、ショーティー、私たちを捜してくれたのね。ありがとう。でも、その真っ赤な口はなんとかして……」


 私が眉間を寄せて睨むと、巨大な愛猫はぺろりと長い舌を出して口の周りを舐めた。



 ショーティーは、お使いよろしく副隊長さんからの伝言を携えて私たちを捜し回ってくれていたようだった。

 太い首に見慣れない皮の首輪が回されていて、そこに暗号で書かれた書簡が貼り付けられていた。


「俺たちの捜索はショーティーにまかせ、ロイのこともあるから全員で目的地に向かうそうだ」

「ロイは……?」

「どうも【精神操作】のかかり具合は不完全だった様子で、混乱が激しいらしい。俺たちと合流するまで拘束してジャルが運ぶそうだ」

「不完全でも解除は無理なのね」

「腐っても異名持ちが相手だからな」


 ギルは伝言を焚火の中にくべると、ショーティーに駄賃の生肉の塊を与え始めた。

 私はその間に臭み取りの大葉に包んだ肉を火の周りに並べ、すこし早い夕食を作る。


「それと、この辺りの略図も描いてあったんだが、このまま進むとやはり崖下に着くようだ」

「もしかして、そこを登るの?」

「現場を見てみないとなんとも……」


 私は、肉の包みを持ったまま打ちひしがれるしかなかった。


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