第一章 彷徨えるもの、ここに
ここから本編になります。そう長い話にはならないですので、コーヒー片手にでもご覧になられると幸いです。
なお、個人的にはブルーマウンテンとかキリマンジャロなんて洒落たものより、スティックタイプのモカでもお湯に溶かして飲むのが雰囲気的にはあうと思います。
ある島国の地方都市を襲った大地震。
不可解な震災により大きな被害が出る一方、避難民の間で”怪物を見た”という話が流れ始める。
当初は噂話だと思われていたが報告数があまりに大きく、ついには自衛隊の一部隊が調査に乗り出す。
そして震災の中心部を調査した彼らは、あり得ない怪物達が廃墟の町を徘徊する様と、見たことのない奇妙な遺跡の存在を発見した。
同時に、島国の各国、及び世界全体で、奇妙な死病が発生する。現代医学ですら太刀打ちできない致死率100%の奇病。その死病の感染範囲には必ず、震災被害者の姿があった。
それから数年後。かつての地方都市は世界から隔離され、独自の治世によって栄える自治区となっていた。
都市の中心にある、謎の遺跡。地質学上あり得ない広さを持ち、正体不明の怪物が徘徊するその遺跡内部からは、非常に貴重な資源、あるいは未知の物質が発見され、日夜多くの探検者が命の危険を省みずに探検している。
入れば決して出る事は適わず。死病と遺跡を抱え込み、世界から隔離されながらも発展を続けるその街を、人は奇怪都市と呼んだ。
「新規登録ですか?」
冒険者組合Zunftの受付嬢は小首を傾げて目の前の人物をみる。長い黒のポニーテイルがふわりと揺れて、メイド服のような制服の後ろでしっぽのように揺れる。
「はい」
臆せずに答えたのは、贔屓目にいっても不審者のような格好の少年だった。どこで拾ってきたのか、ボロボロの黒いビニールシートをまとった少年は薄汚れた顔で、ただ眼光だけが異様にギラギラと輝いていた。
「ふむ……」
少し考える受付嬢。彼女は、Zunftの受付としてそこそこに長い。また、元々この地に住んでいて、震災後の地獄も経験している。その経験でいえば、目の前の少年は信念や能力において人をはずれた感じはしない。ただの人間だ。ただ、余程の事情があるのか、あるいはそれだけ自分を追いつめているのか。気迫だけは十分だといえる。
「では、ちょっと確認させていただきたいのですが。身分証明書はあります? 免許証とか、学生証とか」
「いえ、ありません」
うわっちゃあ、と受付嬢は内心頭を抱えた。確かに都市には身分証明をもっていない人間は結構いるが、それらは大体、都市が今の形に落ち着く前からいた人々だ。それ以降入居してきた人間は皆、都市を覆う軍のゲートで証明書を発行される。
目の前の少年は見たところ、間違いなくそんな古株ではない。なのに証明書がない、という事は、出せない理由があるか、もしくは正規ルート以外から入ってきた、いや、入らせられた、という事だろう。
そういえばと記憶を漁ればつい最近、崩壊していたトンネルを開通させて不法侵入を試みたヤクザの一団の話があった。彼らは借金のカタ(本当に借金していたのか怪しいところだが)に誘拐した人々を労働力に都市内であくどい稼ぎをしようとしていた所を都市の自警団に全員捕縛され、人々は保護されたという。ただその時行方がわからなくなった人が何人かいたらしく、おそらく目の前の少年がそうなのだろう。
「では、こちらの書類に記入をお願いできますかー?」
だがそこまで把握しておきながら、受付嬢は事務的な対応に勤めた。ここにやってきたのは間違いなく少年の意志であり、彼の決断の結果だ。それを彼女は尊重するし、さらにいうならおせっかいを焼くつもりもない。
ある意味究極の放任主義であり、自由主義。
数分後、少年は書類への記載を終え、Zunftによってその処理が完了する。そして無謀にも冒険者を目指す若者は、冒険者の卵へと生まれ変わったのだった。
冒険者Zunftは、冒険者を支援する組織である。故にいくら放任主義とはいえど、登録した人間をそのままほっぽりだすような事は流石にしない。生きるも死ぬも本人の勝手なれど、ある程度のコストを登録に要する以上、速攻で死なれればZunftの損になるのである。
故にZunftは先行投資として、基本的な武器を支給する。今回少年に渡されたのは、9mm拳銃と、コンバットナイフ、そして防刃マント。
そうして襤褸を纏った浮浪者から、冒険者にクラスチェンジを果たした少年は、人のひしめくZunftの建物から、こそこそと通りへと抜け出した。その先に広がるのは、この都市ならではの混沌とした人模様。
奇怪都市は、遺跡を中心とした都市だ。震災後、崩壊を免れた建造物を基点に復興された都市部は、老朽化しもはや誰も住むことのないビルの周辺に、無数の背の低い建造物が立ち並ぶ状態の商業区が、遺跡の周囲に旧鉄道網にそって網の目状に広がっている。
その都市部を行き来する中でも目を引くのは、なにかしらの武装を所有した冒険者と呼ばれる人々だ。彼らは自分自身の身分証明書もかねて見える形で武装を装備する事を法で定められているため、特に目立つ。
装備もまた様々だ。現代的な自動小銃や防弾スーツで身を固めている者もいれば、都市産のレアメタル制の鎧や剣を装備した中世コスプレ騎士のような者もいる。無論、それらは遺跡での活動を考えて合理的に選ばれた装備だ。
一瞬、そんな通りの人間の視線が健二に集中するが、数秒もすれば皆、興味を失う。彼らにとっては、賭けだしの冒険者など珍しい事ではない。
しかし全ての人間が関心を失った訳ではない。その証拠に、野太い声が立ち去ろうとする少年を呼び止めた。
「よぉ、坊主。もしかして、今登録ホヤホヤか?」
不意に声をかけてきたのは、屈強な大男だった。明らかに戦い慣れしたベテランの風格を漂わせ、左手に大きな盾を装備した軍人風の男。印象としては、とにかくがたいが大きい。彼の持つ盾は、すっぽり少年を守れるほど巨大なものだが、巨漢と比較すればどこか頼りない印象を受けてしまうほどである。
「……貴方は?」
「おう、まあちょっとばかし先輩で、お節介好きの冒険者様ってやつだ。それよりも、質問に質問を返したらいかんなあ」
「失礼しました。仰るとおり、今登録したばっかりの新人です。これから、遺跡に潜ってみようかと」
「死ぬぞ」
端的に言い切られて、少年が言葉に詰まった。大男はちょいちょいと少年を手招きすると、通りの邪魔にならないようZunftの赤煉瓦の外壁に寄りかかると、タバコを一本口にくわえた。
「いるんだ、いくらでも。何かの事情があって、外で生きていけなくなってここにやってきて、冒険者になった奴。その中でも、おまえさんみたいに遺跡に一人でいこうとする奴。別に特別な事じゃあない。ありふれた、むしろお約束って奴だ。そして、きっちり全員死ぬ。人間いつか死ぬっつっても、それを今にする事もないだろ」
「そんなに、たくさん……?」
「おうよ。疑問に思うなら、Zunftの嬢ちゃんに登録後一週間以内に音信不通になった冒険者が全体の何割か聞いてみな。ビックリするぜ」
そのうち何人が不法侵入してきたかは知らないけどな、と男は付け足した。
「どうして、ですか? こうやって武器も支給されてるのに……」
「武器じゃねえよ、そんな玩具」
大男はぷはー、と煙を吐き出しながら、手元の盾を少年に突きつける。金属地がむき出しのその盾は、まるで極小のプリズムを積層させたかのような不可思議な輝きを放っていた。
「この盾な。作った奴の話だと戦車砲でも壊れないらしくて、実際防いだこともある。なんでも特殊なフィルムを、極めて柔軟性の高い金属と剛性の高い金属でサンドイッチにしてるとかなんとか。で、だ。遺跡の最前線とかになると、ふつーにこいつを凹ませてくる奴がごっろごろいるんだわ。そんなんが居座ってるのが遺跡だ」
「そんな」
「おまえ、外から来たんだろ? 大体、外から来た奴って、銃をもって強くなったと勘違いしやがるんだが、俺に言わせれば銃という武器を、遺跡の化け物を知らないからこそそんな幸せな勘違いをできるんだ。まあそういう訳で、だ。実は、な。俺はチームで潜ってるんだが、その仲間が諸事情でちょいと今休業してだな。暇なんだが、俺としてはその時間を有意義に使いたいわけだ。たとえば、前途有望な若者の指導、とかな」
「え……」
「初対面は信用できないだろう? だが、どうせ今一人で潜っても死ぬんだ、だまされて死ぬのも変わらねえだろ。それなら、生き残る確率が高い方にかけてみるってのも悪くないんじゃねえか?」
にっと暑苦しい笑顔を浮かべてくる大男に、しばし少年は考え込む。そんな様子をみて、呵々と笑うと男は煙草の残りをぐっと素手で握りつぶした。
「そういうのは考えた時点で負けなんだよ。という訳で、俺は虎心王鎧。今日一日だけ、よろしく頼むわ」
「……それ、明らかに偽名ですよね」
「どうせ名乗るなら格好いい名を名乗りたい、それが男ってもんだろ?」
「いや、それはどうかと……。いや、いいか。僕の名前は健二です。よろしく、虎心王さん」
「おうよ!」
笑って虎心王がその丸太のような手を差し出してくる。戸惑って、それでも健二はおずおずとその手を握り返すと、帰ってきたのは正直同じ生き物とは思えない硬い感触だった。。
遺跡の地上部は、全長20mほどの巨大な蟻塚のような形状をしている。
蟻塚とはいうがかつて救助隊が建築物と認識したように、岩の張り出したような構造でありながらあちこちに彫刻による装飾が施されている他、明確な入り口が複数存在している。故に冒険者が多く出入りしても入り口で詰まるという事は早々もなく、今日も後から増築された階段を通って、多数の冒険者が出入りしている。
そんな遺跡の地下一階層は、構造的には鍾乳洞だ。青黒い岩盤で構成され、天井と床を柱のように鍾乳洞が繋いでいる。その一方で、壁際にはろうそくの燭台がゆれて明かりを確保しており、ところどころに存在するフロアのような空間には床や天井に彫刻が施されているという、自然と人工物の入り交じった不可解な回廊となっている。
これらのうち、明かりを灯す蝋燭だけは後からZunftの職員が設置したものらしいが、燭台や彫刻は最初からあったのだという。また、今は遺跡由来の物質を利用した超長時間燃焼可能な蝋燭を使っているが、初めて調査隊が進入した時は蝋燭ではなく全く未知の物質が明かりとなっていたという話もある。早い話が尋常の世界ではないという事だ。
早速踏み込んだ途端に未知と理不尽で歓迎される事になった健二だが、怯えを飲み込んで気合いを入れる。
まず大事なのは、生き延びること、そして、自分の力が通用するか否かだ。
「いいか。まずは体験してみろ」
告げるのは、虎心王。外での人好きのする好漢といった風は消え去り、今や歴戦の戦士といった威圧的な存在感を纏った彼を前に、健二は一瞬気圧される。が、すぐに頷き、両手でしっかりと拳銃を握りしめた。
冷たい鉄の塊。頼もしく思っていたはずのそれが、今やひどく頼りない。それは虎心王の話もあってだろうが、それ以上に、この遺跡の異様な雰囲気を肌で感じての事だった。
「怯えているのか?」
「っ! そんな事は」
「勘違いするな。恐怖を感じるのは、冒険者にとって必須の技能だ」
感情を込めずに、淡々と虎心王が告げる。
「たとえばだ。外の世界でも、狩猟はあるだろ。銃とか持って、多人数で追い立ててただの獣を狩る。難易度でいやあ遺跡とは比べものにならないし、やってる本人達は本気だ。なのに、出るときは死人だってきちっとでる。なんでだと思う?」
言われて、少し考える健二。
健二とて、元々は健全な青少年だ。その年頃特有の病気にかかった事もあるし、そういった作品にも触れてきた。今虎心王が口にした事も、創作の世界ではありふれた命題の一つだ。
だが、しかし。それらはありふれていただけに、重みのない言葉の羅列だった。なのに、虎心王の口から語られるそれは、黄金のような重みと、輝きがあった。
「……生きるために必要でも真面目にやっていても自分が死ぬって、思わないから?」
結局、健二の口から出たのはありふれた命題へのありふれた解答でしかなかった。だが虎心王は、その言葉に深く頷いた。
それは分かった上での反応で。健二は申し訳なさと恥ずかしさに顔を背けた。
「正解だ。なんていか、人間は良くも悪くも慣れちまう生き物だ。命のやりとりにすら慣れちまう。だが、冒険者は慣れちゃいけねえ。いつだって卵の殻すら取れねえルーキーのように罠の一つ、怪物の気配一つに怯えてなきゃつまらない事で命を落とす」
虎心王はそう言い切って、ぽんぽん、と自分の盾を叩いてみせる。
「こいつはな、俺の臆病さの象徴さ。盾越しなら、どんな化け物とだってやり合える。屈強な盾に陰に隠れてならな。だが臆病もすぎて卑屈になっちまうとだめだぞ? 俺も一度、盾を過信しすぎて化け物に涎で溶かされてるのに気がつかなくてな。いまから買うなら機動隊とか装備しているポリカーボネート製の透明な奴。あれお勧めするぞ」
「は、はぁ……」
人生の訓辞から、気がつけば装備のセールスに。急な話題の転換に、きょとんとした様子を隠せない健二。虎心王はというとそんな彼にちょっと苦笑いを浮かべて、探索を先導した。
後々に健二は、これが虎心王なりに緊張をほぐそうとしたウェットサービスだった事に気がつくのだが、悲しいかな人生経験のあまりに足りない彼はこの段階では気がつくことがなかった。
その後は、互いに無言で遺跡を進む。
道が分かっているのか虎心王の歩みに迷いはなかったが、彼は曲がり角では必ず一度足を止め、盾の表面を鏡のように使って通路の向こうを確認する作業を絶対に怠らない。その後ろで、健二は多分無意味なんだろうなあと思いながらも、拳銃を両手で握りしめたまま、背後の確認を行う。
そんな作業を繰り返して、いつつめの曲がり角。虎心王が声をあげた。
「いたぞ」
手招きされて、健二も虎心王の側によってのぞき込む。
鏡のように磨き抜かれた盾の表面。左右反転し、微妙に歪んだ世界の中に、ソイツはいた。
銀色の甲殻をもった、全長1mほどもある巨大な蟻のような怪物。それが青白く輝く遺跡の回廊を、音もなく這い回っている。
巨大な生物が地面を這い回っている様子に、健二は昔テレビで見た大蜥蜴を思い出した。
「インセクトだとか、大銀人喰蟻とか、色々呼ばれてる奴だな。聴覚は悪いが嗅覚と視界が優れてる。まあ、遺跡の中じゃ弱い方だ」
「あれで?」
健二の見立てだと、あの巨大昆虫はコモドオオトカゲとは比較にならない驚異に見えた。硬質の輝きを放つ甲殻はいかにも頑丈そうだし、巨体であるにも関わらず動きは昆虫特有のキビキビとしたものだ。
特に驚異なのは、その大顎だ。クワガタの顎を思わせるその大顎は、鍛え抜かれた刃物のように鋭く、下手な鎧など簡単にかみ砕いてしまいそうである。
「ああ、あれで最弱クラスなんだ。あれに勝てなければ、この先は立ちいかない。いいか、最初は一人でやってみろ。まずければ助けてやる」
「わ、わかった」
「いいな。できるだけ引きつけて撃つんだ。距離が適正なら、その銃でも撃ち殺せる。落ち着いてやれ」
虎心王の言葉は静かで落ち着いており、確信に満ちている。それが健二の緊張を沈めるようだった。震える手を落ち着けて、拳銃を握りしめたまま角から歩みでる。
一歩、二歩、と歩みを進める。
途端、自由気ままに這い回っていたインセクトが、ぴたりと動きを止めた。一対の触覚をひくひくと蠢かせ、感情の伺えない複眼が、ゆっくりと健二に向けられる。ぴたりと動きを止めた巨大昆虫が、じっと彼を見つめている。
びく、と健二が歩みを止める。対して巨大昆虫は動かないままだ。
わずかな停滞。次の瞬間、ばね仕掛けの如くインセクトは健二めがけて一気に襲いかかった。残像が残るほどの速度で三対の足を動かし、巨体に見合わぬ軽快な動きで瞬く間に健二との距離を詰めてくる。
「……っ!」
それでも、反射的に発砲はしなかった。虎心王の引きつけて撃て、という指示が、繰り返し彼の脳裏でリフアルトンする。
引きつけて。
引きつけて。
インセクトが迫ってくる。その感情の伺えない複眼の一つ一つに健二の顔が写っているのが見える。ギラギラと金属の硬質さと生物の滑らかさをあわせもった凶器のような顎が、滑らかな歩みにのって近づいてくる。
近づいてくる。
近づいてくる。
「う……うあ……わあああ!!」
発砲。
一度引き金を引いてしまえば、後はもう止まらなかった。反動で手元をブレさせながらも、連続で撃ち続ける。射線は素人としてはまとまっており、複数の弾丸がインセクトの甲殻を捕らえた。
だが遠い。放たれた10発以上の9mm弾、その全てをインセクトの銀色の甲殻ははじき返した。火花を散らしながら、減速する事なく巨大な昆虫が迫る。
それに対して健二は引き金を引き続ける事しかできなかった。だが、弾丸には限りがある。引き絞った引き金に返ってきたのは、ガチンという無情な響き。
凍り付く健二。ここにきて、ようやく思考が理性的に活動を始めるが、もう遅い。既にインセクトは目の前に迫っている。マガジンをこの一瞬で交換するなど、素人には不可能だ。
インセクトが不意に、その四肢を大きくたわませた。しゃがみ込むようなその挙動の理由を察し、健二の脳裏で閃光のように思考が弾ける。
ハンドガンを投げ捨て、腰に手を回し。ベルトに挟み込む形で固定していたコンバットナイフを一息で抜き放つ。
それを両手で逆手に構えて、頭上に掲げる。飛びかかってくるであろうインセクトに向けて、全力でナイフを突きおろす構え。差し違えてもという健二の本心とは異なる覚悟を、熱に浮かされた頭が導き出す。ナイフの刃がわずかな明かりを受けてギラリと輝いた。
それと同時に健二の首に、ぴたりとなま暖かい金属の鋸が押し当てられる。
死の自覚に極限まで時間が引き延ばされる中で、猛烈な勢いで飛びかかってきたそれが止まっているように感じている。見下ろす先に、感情のない複眼。インセクトは、さきほどまでの疾走がまるでお遊びだったかのような速度で、かがみ込んだ状態から跳躍していた。その顎が閉ざされ、健二の命綱を断ち切らんとする。ナイフは、間に合わない。
その刹那。
「まあ、こんなものか」
無音の世界で、火花が散る。前足の間接に弾丸をめり込ませたインセクトが、弾かれたように回転しながら健二を逸れて、4mほど滑空した後に壁に激突する。
銃声は遅れて響いた。いや、この距離で銃声と着弾に差がでるはずもない。死を前にして極限まで加速された知覚がそう感じさせたのだ。
それを自覚した瞬間、健二の視界がぐるりと平衡を失った。上下を見失って倒れ込む彼を、たくましい腕が抱えて支えた。
虎心王だ。
「なかなかガッツがあるビギナーだ。ナイフを抜く判断がちょっと遅かったな」
「う……」
「取りあえず銃の扱いは見ての通りだ。中途半端に撃っても効きはしない。撃つなら二つだ」
虎心王が健二の銃を取り上げると、刹那の早業でマガジンを入れかえる。だがその視線は、壁に激突したインセクトから離れない。
インセクトは壁に激突した後、そのまま仰向けに倒れ込んでいた。まるで死んでしまったように動かないが、そんなはずもなく。不意にゼンマイ人形じみた動きで体をはねおこすと、苛立ったようにその場で足を踏みならし、そわそわと体を動かした。ひくひくと震える触覚が、虎心王の方に向けられる。ぐっ、とその節足がたわめられた。
「じゃあもう一度やるぞ。銃の使い方で、遠くでも通じる方法は一つ」
ガキン、とマガジンがロックされ、チェンバーに最初の弾丸が送り込まれる。カチリ、という牙の収まる音。その気配を悟ったのか、それにあわせるようにインセクトは再び跳躍した。それこそ弾丸のように、銀色の巨体が虎心王めがけて襲いかかる。
それを、虎心王はなんら気負ったことのない様子で、拳銃で迎撃した。放たれた弾丸はインセクトの甲殻を貫くことはなく、代わりにその突き出された節足の継ぎ目を再び狙い撃った。距離が遠く、貧弱な9mm弾丸は甲殻どころかその間に張り巡らされた皮膜すら撃ち抜けなかったが、その衝撃でインセクトはバランスを崩しめり込むように地面へと叩きつけられた。
唖然とする健二に、虎心王は手の中で拳銃をもてあそびながら解説する。
「こうして、相手の攻撃に合わせてぶち込んで隙を作るってのが一番だ。特に空中にいる時なんか狙い目だな。踏ん張りが聞かないから、拳銃程度の衝撃でもおもしろいようにバランスを崩す。ま、間接とかねらえってのは酷だが出鱈目に撃ってもあててさえいれば効果は見込める。本気で特化するならショットガンとかいいがそうすると今度は、遠距離攻撃してくる相手にどうしようもなくなるからな。お勧めはしない」
「……もう一つは?」
「なあに、簡単だ」
地面に叩きつけられたショックでひくひくと痙攣しているインセクトに、虎心王はゆったりと歩みよると、容赦なく踵を落とした。強烈なスタンピング、それにインセクトは電気を流されたかのように跳ね起きると、その足首を狙った。気絶などしていなかったのだ。
その頭に、虎心王は予定調和のように弾丸を叩き込んだ。今までと違い、至近距離からの有効弾がインセクトの堅い甲殻を突き破り、内蔵を破壊する。きっちり四発撃ち込んでから、最後に虎心王は巨大昆虫の胸部を思い切り踏みつけて叩き潰す。
「こんな風に接近戦でぶちこんで貫通させる。いくら怪物っつっても生き物だからな、皮膚を貫通して内蔵を傷つけられたらダメージは受ける。とはいっても、よほど急所を的確に狙わない限り人間みたいに即死って訳にはいかないが」
「それ、銃が役立たずって事なんですか? 早い話が」
「いや、これはあくまで俺らみたいな軍事訓練を受けた事のない奴の話だ。探索する奴の中には元自衛隊員とかいるんだが、そいつらは普通に中距離から弱点に徹底的に集弾させて撃ち殺すなんて芸当をしてみせる。ようは武器も道具だからな、使い手次第って事だ。まあ、なんていうのか」
虎心王はふとそのあたりに落ちている石ころを拾い上げると、ぐっと握りしめた。数秒ほど握りしめたそれを解くと、手の中には少量の砂が積み重なっている。
「近接武器も悪くないが、最低限これぐらいできないと力負けするしな。最初は銃をつかっとけ」
アドバイスを続けながら、虎心王はインセクトの生死を確認した。靴先でけっとばして仰向けにさせ、念入りに確認を行う。
「……よし。生死はきちっと確認しろよ。死体の真似して奇襲なんぞ、あたりまえだからな。んで、しとめたからにはお宝タイムだ。俺達が遺跡に潜る最大の狙いは、当然遺跡から発掘されるレアメタルその他だ。だが、そいつらは別に鉱脈を捜し当ててツルハシをふるわなきゃいけないって訳じゃない。こいつの腹を踏んで見ろ」
「腹を……?」
虎心王が差し出す拳銃を受け取りながら、健二はインセクトのでっぷりとした腹部に足をかける。銀色の甲殻はつるつるしている上にすさまじく堅かったが、その中に隠されている腹そのものはぷにぷにとした感触だった。
それを踏みしめると、ぐにゅりと潰れた腹の中で何か硬質な感触があった。石ではない。
「これは……」
「遺跡にいる化け物どもはな、どういう訳かレアメタルの類を腹に納める傾向がある。俺達が化け物と交戦するのは、命を守るためってのもあるがそういった奴らの宝物を得るためって側面もあるのさ。でなきゃ、ちょっとワリに合わないってもんだ」
「だから新米にナイフを……?」
「そうさ。武器でもあるが」
「それならそうで、最初にいってくれれば……」
げんなりと肩を落とす健二に虎心王はやれやれと肩を竦めてその考えを咎めた。
「それはな、おまえさんの落ち度だ。命をかける、むしろ死ににいくような遺跡潜りで、事前に情報を十全に集めない方が馬鹿だ。週に一度は、物好きが初心者に考察も垂れてる。いくらでも情報を得る機会はあった。おまえさんはそれを得る努力を怠った、それだけの事だ」
「う……」
「さて、本来はこうやって獲物を物色するのすら急がないといけないんだが。なにせ、化け物同士でも食う食われるの関係がある以上、腸をぶちまけた新鮮な死体なんぞ化け物ホイホイだ。ま、今回は俺が見張っててやるから、存分にかっさばけ。サービスだ」
「その。分け前とかは」
「ルーキーが気にするな。ほれ、早く早く」
「は、はい」
ごくりと息をのんで、死体を前にナイフを構える健二。いくらなんでも、こんな大きな生き物を解体するなんて初めての経験だ。取りあえずは当てずっぽうで、腹の柔らかな膜にナイフを押し当ててみる。つぷり、と鋭い切っ先が腹部に潜り込み、弾けるようにして内容物が異臭と共にあふれ出す。どろどろに溶解した黄色と青の内蔵をかき分ければ、その奥から、複数の鉱石のようなものが見えてきた。粘液の糸をひくそれをつまみ上げてみる。
サイズは8cm四方ほどの多面体。油膜のような複雑な昏い七色に光る色合いで、無数の空包をスポンジのように含んでいる。手に握った感触は非常に硬質だが、同時に頼りないほどに軽い。
間違いなくレアメタル、外界に存在しない遺跡からのみ産出する秘宝だ。
「……クォークス鉱石」
一度だけ目の当たりにした事のあるそれを、実際に目の前にして健二は不可思議な気持ちになった。アルミニウムより軽く、鋼鉄より堅く。今や、国産飛行機の重要素材となったそれは外の一般市民でも名をよく聞く遺跡産のレアメタルだ。飛行機の素材になるほど産出しているのだから相対的に価値は低いのかもしれないが、それを今、自分の手の中にしているという感慨が健二に望郷の思いと、それが適わぬ事への絶望を呼び起こす。
心に忍び寄ってきた陰を、頭をふって払う。とにかく手早く回収してしまおう、と残りの欠片に手をのばした彼は、ふと無数の小さな鉱石の欠片の中に、一つ形のまとまった物がある事に気がつく。
手を伸ばして、とろけた内蔵からすくい上げるようにしてそれを拾う。それは鉄色に輝く、金属の輪っかだった。リングの一点に小さな台座が溶接され、その中央に怪しげな輝きを放つ宝石のようなものが収まっている。
「……指輪?」