終章 そして彼女は敗北する
どこまで行くのか。どこまで行けるのか。
誰しもが考えて、しかし答えの出ないであろうその難題。少なくとも、地球は、どこまでいっても果てなんかない。
だが、今まさに健二が見ているのは、その果てだった。
世界の果て。人生の果て。全てのたどり着くところ。
太陽も月もない。天地に広がる二つの地平が、遙か遠くで白く霞んで混じり合っている。一つは黒、一つは青。黒は今し方、健二達が墜ちてきた地底の底。光を吸い込むような、宇宙を思わせる漆黒の大地。対するは、柔らかく命を思わせる色合いの緑の大地。波打つように、風が吹いて揺れている。今や地上では失われつつある、地の果てまで広がる豊かな草原。
まるで正反対の色彩が、白い地平線を境に向かい合っている。矛盾のホライゾン。
その白い線を横切るように、漆黒の柱がそびえ立っている。人の手によるものか、それとも自然の生み出したものか。螺旋に捻れながらそびえ立つそれは、二つの大地を貫いているようにも、支えているようにも見える。
全てが圧倒的で、同時に曖昧だ。
今もこうして宙に佇んでいる健二達のように。上も下もなく頼るべき足場もない。ふとした拍子に、自分たちがどこからきたのか、どこへ向かうべきかも見失ってしまいそうだった。
「違う、世界か」
長い静寂がすぎて、健二の口からでたのはそんな言葉だった。
正直、口にした健二も何かを悟れた訳ではない。ただ、自分たちの今までたっていた常識という足場が、音をたてて崩壊していくのだけははっきりとわかった。
指が、きしりと痛んだ。指輪をはめた指が。
「椿、玲子。まあまずないと思うが、俺らが可燃性液のガスで頭をやられて幻覚を見ているっていう可能性は、あるか?」
「……今更、それ聞く? いや、どうなんだろう。ちょっと自信がないわ……」
「う、うウム……。はっ、ソウダ! 健二さんが私に熱いベーゼを交わしてクレレバ……ハウッ!? み、ミミミひっぱらないで痛いデスゥー!!」
「よし、痛いなら正気だな」
「今の発言は間違いなくトチ狂っていたと思うけど」
「今のは、うん。狂ってというより単純にかわいそうなアレだろ」
「そうね」
「ふ、二人が酷い事イウデス……。場を和ませるためのジョークでしたノニ……フエエ……」
耳を押さえてよよよよと崩れ落ちる椿を一頻り愛でて、よし、と健二はうなずく。調子が戻ってきた。
「……てことはこれ現実か。あれか、中世ぐらいにあったよな。地球の下にはもう一つの世界が広がってるとかいうアレ。あれが実は正しかったって事か?」
「それも気になるけど、そもそも私たちどうなってるのかしら、今。もしかして高すぎて実感がないだけで絶賛落下中? だとしたら困るわね」
「風圧とか感じないけど、逆に落下してないとかどういう状態だ……?」
今、健二達は崩落した岩盤と一緒に、宙に漂っている状態だ。そう、健二達だけでなく、大小さまざまな岩が、手をのばせば届きそうな位置に存在している。なかには、いまだ炎がくすぶっているのも存在している。
だが、あのドラゴンの死体はなかった。上に取り残されたのか、それともそっちは落ちていってしまったのか。機動盾の残骸も、見あたらない。
「ちょっと思いついた、調べてみる」
玲子が不意にそんな事を言い出すと、手にしていたアサルトライフルを分解し始めた。何をするのかと見守る二人の前で彼女が取り外したのは、レーザー照準器。それを黒い岩盤に向けると、玲子はメモリとにらみあいを始めた。
「どうだ?」
「ちょっとまって。あの黒い岩は光を完全吸収するから距離を測定できない……よし。あのあたりでいいか。ふむ。相対距離に変化なし……本当に浮いてるわね、私たち」
「マジか……」
さっきからおかしな事ばかりである。物理学がそろそろ息をしなくなってきた感すらある。
体感としては、無重力という訳ではない。重力らしきものは、確かに感じている。ただ、なんだかそれも弱いし、ふとした事でバランスを失いそうになるのを感じる。どちらかというと、そう。二つの重力が互いを相殺しあって、僅かに勝った重力が今健二達に上下を与えている、といったところか。
白と黒の地平。それが、この妙な状態の原因なのだろうか。だとしても、そもそもこの光景は、一体なんなのだろうか。
「……まあ、前から不思議には思ってたんだ。色々とさ」
「たとえば?」
「例えばって、ほら。都市は三角州の上にたってんのに、あんなでっかい遺跡がある事とかさ。地下通路すら無理なのに、あんな巨大な地下構造物が地下深くまで延びてるとか、あり得ないし。そもそも冷静に考えれば、怪物ってなんだよ、遺跡の産出物ってなんだよ。なんでそんな特殊なものが、あの遺跡の中っていうピンポイントな部分に集中してるのか。いや、そもそもだ。Zunftは遺跡の内部構造を徹底的に秘匿してたし、冒険者の間でもほとんど話題がなかった。あれってやっぱ、情報を封鎖してたって事だよな。……これが外にばれないために」
「その。30階層までなら、私達長年遺跡に潜ってる人間の間になら、情報が僅かに出回ってるンデス。でも、それ以上となると、全ク……。前は単に到達者が少ないからと思ったんデスガ」
「まあ、口止めするわな、これを見たら。……外の世界に知れたら、大事だ」
この中で唯一、都市が出来てから数年間、外がどんなスタンスだったかをよく知っている健二はさもありなん、とすんなり納得していた。
何せ、突如として地方都市が死病に覆われ封鎖されたかと思うと、どこぞの国が国連の看板を利用して事実上の軍事介入を行った挙げ句突如として遁走、逃げた先でさらに死病をばらまいたのだ。その後一年もしないうちに希少物質の輸出が始まったのも、外の人間からすれば不穏な流れにみえたのは言うまでもない。
ただでさえそんな有様なのに、ここで都市の地下には実は謎の空間が広がっていました、なんて万が一真に受けられたら何が起こるか分かったものではない。
普通に考えれば、口封じした所で限界はあるだろう。だが……この、あまりにも常識を逸した光景を前にして、それを見ていない他人に語れるものか。30階層まで到達した人間が、そのような浅慮であるはずもない。
しかし、それはそれとして。この光景は果たして一体何なのか。疑問はそこに戻る。
「まさか異世界だなんてそんな事は。待てよ、そういえばさっき拾ったアレって……うん? あれ? あれれ?」
「どうしました、健二サン」
「いや、その。無い。さっきのシールドメイス、どっかに落とした」
「落としたって」
手早く見渡すが、周囲に漂っているのは岩と鉄くずだけで、あの不可思議な力場を生み出したメイスの姿は見あたらない。どうやら、あの崩落の時、あの武器だけはそのまま落ちてしまったと見るべきだろう。
「うわあああああ……。勿体ねえ……」
「だ、大丈夫デスヨ! 後で一緒に探しマショウ!! ネ?」
「探すって、このどこまで広がってるか分からない地平から? それよりもあんた、上でどっかにぶっ刺さってるままの刀はどうすんのよ」
「アウ、そうデシタ」
「こらこら、こんなとこまできてコントするなよ……。お前ら、ほんっといつでもどこでも変わらないのな……。なんか安心したけど」
「俺に言わせればお前さんも同類だがな」
「そんな失礼な。って、ん?」
会話に交じってきた第三者の声。聞き覚えがあるその声に、我に返った三人がはっと振り返る。
「よう後輩。なんでここにいるんだ?」
振り返った健二が目にしたのは、慣れた様子で虚空に佇む一人の中年の探索者の姿。片手に保持した巨大な盾がトレードマークのその人物は。
「……虎心王……さん?」
「おうよ。いやまあ、色々こっちもそっちも言いたいことはあるだろうけど、まあついてきな。ここにいると色々と面倒だ」
それからはあっという間だった。
虎心王に従って二色の世界を後にした彼らは、そのままあの塔のような建造物に移動。そしてそこにあった魔法陣、そう、床に描かれた特徴的な円形の図形でまさしく魔法陣としか呼びようがない文様の上に立たされ、気がついた瞬間にはZunft本部再奥の取調室に放り込まれていた。
訳が分からない。それでも断片的に理解できた情報はあった。
あの、宇宙のような闇に覆われた階層こそが30階層。Zunftの言葉を借りれば、こちら側とあちら側を隔てる最後の壁。
あちら側、と呼ばれている31階層から先は、物理法則がねじ曲がった文字通りこの世のものではない世界であり、予想通りにZunftが情報封鎖を行っていたという。
今回の事件において、Zunftが真に警戒していたのは、遺跡内の怪物の無秩序な移動ではなく、あのトンネルが31階層につながってしまう事だったらしい。それこそ健二達がそうであったように。何かの手違いで多数の冒険者が地下の事実を目の当たりにしてはもう口封じはできないし、そちら側の怪物が万が一地上に出てきたらもうどうしようもない。査察の事など、理由の一つでしかない。
そして、健二達はそんな禁を犯してしまったのだが、幸いな事に、おとがめはなかった。状況からしてしょうがなかったというのはZunftも同じ認識であったらしく、口止めだけに終わった。ただ、同時にそれ以上の真実を語られる事はなかったし、あの場で失った椿の太刀やシールドメイスについても、30階層に自力でたどり着いて回収しましょう、という話だった。
しかしそれはそれとして、白トカゲ及びにその変異したドラゴン討伐に関してはZunftからは深く感謝された。彼らとしてもあの出来事は完全にイレギュラーだったらしく、31層からの逆流に備えて最精鋭をそっちに配備していた為にもし健二達が白トカゲ及びドラゴンを排除できなければ、誰も奴を止める事ができず都市に壊滅的な被害が出ていたのは絶対だった。その事が、何も得る事のなかった今回の闘いにおける収穫といえよう。
とはいえ謎は深まるばかりで結局、なぜZunftが健二達の動きを把握して虎心王を救助によこしたのかとか、あの世界はなんだったのか、遺跡は実際のところ何なのか、そういった事は全く分からないままだ。ただ、あのような非現実的な世界が関わっているのなら、そこから想像できなくはない。
結局のところ命があるだけマシと納得せざるを得ないのだろう。最後に「もし喋ったら?」と問いかけた健二に黒フードが返した意味深な笑みがそれを物語っている。興味がないと言えば嘘になるが、健二にとっては命あっての話だ。
そしてようやく取り調べが終わり、治療を受けてベッドに倒れ込んだ彼は、そのまま三日三晩眠り続けた。
目を覚ました時には、すでに非常事態宣言は撤回されており、査察も終了。街は日常に向けての復興を始めていた。
それを健二達も手伝い、そして。都市に日常が戻ってきた。
「あ、ドローン」
ある昼下がりの事。昼食をとって店先のベンチでくつろいでいた健二は、空を飛ぶ小型ヘリコプターのような機械を見つけて声を上げた。となりに座っていた椿と玲子も釣られるように顔を上げる。
「ああ、ほんとね。こないだの査察がらみかしら」
「たぶんな。まあでも大丈夫だろ、この復興具合だと」
「ネ、ネ。あれ、TVに写ってるんデショウカ!? 手、振ってみてもイイデス!?」
「まあ、好きにすればいいと思うけど……」
「デハデハ! オーイ、故郷のミンナー! 私はファインですよ、センキュウー!」
「……なんでこの子、生粋のアメリカ人なのにこんなエセ外国人っぽいのかしら、口調とか」
「さあ……?」
げっそりとした半眼で仲間を見やる玲子に、健二も苦笑を浮かべて相槌をうつ。そんな彼らを気にもとめず、椿は手をせっせと振ってアピールしている。天真爛漫といった風の彼女は身に纏っている新しい椿色の着物と相まって、煌めくような印象を見るものに与えることだろう。
そう、今の彼女は怪しさマックスの被り物をやめ、サングラスと付け髪で素性をごまかしている。確かに瞳と髪の色は誤魔化せるが、思い切ったものである。
そこに至るまでにどんな葛藤があったのか、健二に推し量る事はできない。ただ、彼女が己を過剰に偽らなくなった事を健二は好ましいと思うし、その事で周りの目が不穏なものになった事も、だからどうしたという話だ。
少なくとも、自分達は椿を見捨てないし、椿は自分達を見捨てない。その大前提が崩れないなら、それでいい。そしてそれから、少しずつ周りと打ち解けていけばいいのだ。一人じゃないなら、そういうやり方だってある。
「なんか顔を隠すのやめてからさらにアーパーになった気がするわ……。周囲の視線もなんかなま暖かいし……いちゃもんつけられるよりはマシだけど」
口調は相変わらず、というよりよりきつくなっている感じの玲子だが、健二に言わせれば口元に笑みを浮かべている段階で照れ隠し以外の何者でもない。容赦なく言い合える関係、という奴だろう。
ちなみにそんな玲子は、椿とは逆に最近はラフな格好を取りやめ、きっちりとした野戦服のようなものを身に纏うようになった。以前は見えるがままにしていた全身の傷跡も、もう首もとや手首のしか見えない。椿の思い切りは、彼女にもよい影響を与えたのだろう。
なお健二は、まあ割とふつうである。肩を金属で補強してあるゲームの主人公みたいな皮ジャケットにジーンズ、ある意味では都市の探索者のイメージそのものな格好だ。
「ま、顔を隠すなんて後ろ暗い事がありますよ、なんて主張してるようなもんさ。素のアイツを見て、それでも裏切り者の外国人だ、なんて言える奴がいたら見てみたいよ」
「そうね。あの脳天気なアホっぷりは見習いたいわね」
「ふ、二人がまた酷いことイッテマス……」
「あら、もういいの? 母国の皆に挨拶してたんじゃ……」
「よく考えれば、一般公開してるはずがない訳デス、査察ナンデスシ。見るのは脂ぎったオッサンバッサンな訳デシテ……そう考えると、こう、ガックシと」
「あらそう? Zunft的には良い感じだったと思うけど……冒険者が皆あなたみたいに脳天気だと思いこめば外も安心でしょう」
「ヒドイー!? 最近、玲子さんちょっと口悪くナイデスカ!? 前はもうちょっと、クールで物言い考えてたと思いますヨ!?」
「あら、ごめんなさい。つい考えた事を口にしてたわ」
「あ、イエ。その、別にそれが悪いと言ってる訳デハ……」
「はいはい、そこまで。仲が良いのも結構だけど、仲間外れは寂しいぞ」
ぱんぱん、と健二が手を鳴らして仲裁にはいると、椿と玲子はすぐに矛を納めて黙り込んだ。この二人は仲がいいのだか、時折それゆえに遠慮がなさすぎて口論みたいになる事がある。正直、健二にはちょっと羨ましく思える事すらある。同じ仲間なのになんだか一線引かれてる気がするのだ。
「まあいいや。俺はそろそろ注文してた盾を引き取りにいくから、二人とも喧嘩せずに仲良くしてろよ? なにせ30階層はまだ遠いんだ、椿の太刀を取り戻すためにも、これからもがんばっていかないと」
「「ハーイ」」
本当に分かってるのかなあ、と思いつつも、健二は席を離れる。
通りには、今日も多くの人が行き来している。
洋服を着て、剣を鞘にいれて腰から下げている下級冒険者。スーツを着てカバン片手に道を急ぐのは、Zunft関係者だろうか。道を数人固まって歩く、フルプレートメイルの集団は手にアサルトライフルを構えている。そんな彼らに警告を飛ばすのは、冒険者上がりの人力車の引き手。荷台には、ゆったりとした黒衣に身を包んだ人種も性別も不明な怪しい人物。
時代も何もかもが、無茶苦茶な都市の人々の文化。そんな彼らの流れの中に健二も滑り込むようにして混ざり込む。最初は異様にしか見えなかったこの光景も、見慣れてしまえばただの日常だ。そして今や、健二自身もまた、紛れ込めば違和感がないほどなじんでしまっている。
そう、これが今の健二の日常。平凡で、しかし愛すべき、守るべき物だ。かつてとどんなに変わってしまっても、それだけは変わらない。一度失ったからこそ、その価値が分かる、なんて言うつもりはないけども。
彼の名前は向坂健二。
かつては平凡な高校生だった。夢もなく才能もなく、漠然と日々を生きる若者の一人だった。
今は奇怪都市に生きる唯の冒険者である。勇者でもなく英雄でもない。これからもそうであるかは、まだ分からない。
彼は、これからも自分の目指すべき場所を探して、生き延びるために戦い続けるだろう。その果てに何が待っているかなんて、それこそ神にだって分からない。
人生とは、そういうものだ。
そして彼はまだ気がついていない。
次なる戦いの息吹は、すぐ近くで芽吹いている事に。
「で? ほんとにいっちゃう訳?」
「ハイ! 私の計算では、帰り道ちょうど夕日が差し込んで絶景になる所のハズデス! そこで、乾坤一擲、大勝負にデマス!」
「まあ、頑張ってね。どう考えても今日はマズイと思うけど(ボソリ」
「? 何か言いマシタカ?」
「いいえ? 頑張ってね」
「ハイ!」
付け足すならば。
彼は、熱狂的な盾信者である。
これにて、本編は終了です。