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『魔法の石版』

 「ひかりー、早く起きなさい!」

 まどろみの中で、お母さんの声を聞く。暖かな毛布の中でわたしは胎児のように身体を丸めた。布団を出ずとも部屋に立ち込める冬の冷気が感じられ、わたしは頭まですっぽりと掛け布団に潜り込んだ。欠伸をひとつ噛み殺して、手元に硬い感触があるのに気づく。

 「あ、そうだ。寝落ちしちゃったんだ……」

 タブレット端末、電子書籍の読みかけの画面。『小説家に俺はなる!』という小説投稿SNSにアップロードされていたアマチュア物書きのファンタジー作品だったが、読み始めてしまえば最後、ページを捲る手が止まらなかった。投稿された話数は百を超えるため、まだまだ序盤だったが、先が気になる展開と伏線の巧妙さは驚嘆するものがあった。

 「何時まで読んでたんだろう……」

 うっすらと憶えている記憶では、なんか雀がちゅんちゅん鳴いていたような気もするが、きっと気のせいだろう。とりあえず画面をホーム画面に戻して、コンセントに繋ぐ。そうでもしないと、また読み返してしまいそうだ。枕元のリモコンで暖房をかけながら、えいやと布団を跳ね除け、パジャマを脱いで制服に着替える。

 「ひかりー、遅刻するわよー!」

 「いまいきますー!」

 部屋の壁にはみっしりと本棚が並んでおり、わたしなりの緻密な計算で並べられた本の背表紙が整然と揃っている。そのどれを取っても、わたしはあらすじをすらすらと諳んじることができる。最近は本棚の容量もあり、電子書籍に頼っているところもあるが、やっぱり紙の本は別物だった。

 靴下を履きながら、ふと本棚のある本が目についた。これはわたしが何年も前から追いかけている長編大河ファンタジーで、一年に1ナンバリングしかでないことが有名なものだった。今月の新刊チェックはしたっけ……? あ、あのレーベルも。それから、あれはKindle化されたんだっけ、書き下ろしがあるらしいからまた確認しないと。

 「ひかりー?」

 あ、でもお小遣いを考えると、やっぱりKindleセールに頼らないといけないところがあるなあ。本屋さんに行くとまたアホみたいに買っちゃうから、できるだけ寄らないようにして。あ、でもでも、あの新刊は別! あれとあれは、たとえ身体を売ってでもゲットしなければならないわ――。

 「ひかり! あれだけノックしたのに!」

 「ごめんなさいぃ」

 気が付くと、ドアが開け放たれ魔王のようなお母さんが腕組みをして立っていた。わたしはといえば、靴下を履こうと座り込んだまま。何分このままで静止していたんだろうか……。我ながら情けなくなって、ため息をつきたくなる。

 「さっさと着替えて、朝ごはん! あ、食べながらKindleは禁止したからね!」

 「はーい」

 教科書を鞄に詰めながら、もちろん充電されたipadは忘れない。


 『本の虫のわたしが異世界に迷い込んだ結果』


 学校での休憩時間は、天国であり、地獄だった。

 もちろん天国というのは、堂々と電子書籍を読むことができるからだ。特に午前中に更新されるアマチュア小説も多いため(学校や仕事は大丈夫なんだろうか)、それにいち早くアクセスできるという楽しみもある。一学期は一番後ろの席だったため、授業中でもうまいことipadを見ることが出来たが、二学期になってバレてからは一番前の席にされてしまった。そのため、学校で物語に触れることができるのはいまだけなのだ。

 対して、肩身の狭さも感じることがある。休憩時間ともなれば、周りのリア充組がうるさいのだ。まったくうるさい。ウェーイウェーイ盛り上がっているのが、何が楽しいのかまったくわからない。こらそこ、プリントを丸めたボールと箒で野球をするんじゃない。

 前の席を囲んでいる女子組は、どうやら恋バナといふものをしているようだが、キャハキャハうるさい。秘密らしいが、聞こえてくるじゃないか。え、女子のほとんどってもう体験済みなの!? なにそれこわい。

 「……はぁ」

 誰にも気付かれないようにため息をついた。

 わたしには友達と呼べる人がいない。ああいう同級生とまともに話ができるとは思えないし、できれば休憩時間も物語に浸っていたい。休日も本屋めぐりか読書をしていたいし、カラオケだったりボーリングなんてものをしているわたしなんて、自分自身でも想像ができない。わたしはそれを望んでいるのだからなんでもないはずなのだが、休憩時間には疎外感を感じてしまう。『異端』という言葉に魅力を感じる年頃はもう終わってしまった。

 同じ趣味の友達をつくろうとするなら文芸部だろうか。気にはなっていたんだけど、なんとなく入る機会を逃してもう12月。それに文芸部はどちらかというと読書よりも創作に重きを置いているらしい。わたしには無理だ。わたしはあんな素敵な世界は描けない。

 もう何百回目かの思考のループを終え、わたしは机に突っ伏して眠ることにした。


 ※


 結局、あまり読書が捗らなかった。

 まわりのことが気になって、物語に没頭することができなかった。そんな頭で読んでも文章が上滑りするだけで、あまりにももったいない。この小説は帰ってからゆっくりと読むことにしよう――、と言いたいところだが、運動も勉強もできないわたしには、ひとつだけ特技があった。あるKindleである。

 どうしても読書欲が我慢できないときだけ、限定解除できる術式だ。危ないとはわかっているが、小さなころから歩き慣れた道であるし、もう何度も行っているが、ひやりとしたことはあっても死んだことはまだない。致死率脅威の0%。わたしは理論より、経験を重んじるのだ。

 雪がちらつきそうな寒空の下、わたしはipadを片手にとぼとぼと歩いている。耳あてにマフラー、防寒対策は万全だ。もこもこ手袋はタッチパネル対応済み。白い息を吐きながら、たまには前を見据えながら、歩を進める。

 幼いころから通っている商店街のアーケードを抜け、街の中央にある駅をすり抜け、商店街側とくらべていまいち発展していない北側街を歩いて行く。一歩道をそれれば、あまり女の子の身では言えないような施設やお店が並んでいて、わたしはここを通るとき、いつもどきどきしている。

 さすがにこんなところでは、歩Kindleなんてできない。先が気になる読書欲を抑えながら、スリープモードにする。できるだけ誰とも眼を合わせないように歩いていると、先ほどの物語が自分の中でぐにゃぐにゃとかたちを変えていく。

 「あー」

 妄想が止まらなくなる前兆だった。ちなみに前兆と気づいても止められたことは一度もない。昨日の晩からずっと読んでいる、あのアマチュア物書きの長編大河ファンタジーの事だった。いま連載されている最新作までおよそ3分の1というところまで読み進めていた。

 異世界に迷い込んだ主人公が現実世界の知識を活かしながら様々なトラブルを解決していく物語だったが、様々な仲間たちの力を借りて、ようやく大きな敵を倒したところだった。この世界を絶望に落としこんでいた強大な存在だったが、死に際の一言で、さらなる強大な敵からこの世界を守っていたことが明らかになった。元の次元に帰る術を手に入れた主人公は、さらなる敵を倒すためこの世界に残るか、それとも元いた世界に帰るべきかの選択を迫られる。そしてそれは、異世界で出逢ったエルフの娘を選ぶか、現実世界のうるさい幼馴染みを選ぶかの選択でもあった――。

 「気になる……!」

 気になりまくる。わたしは我慢できずに、秘技、歩Kindleを再開した。ながらスマホは禁止されているが、ながらタブレットは禁止されていない。読書を再開するわたし。まったくこれでアマチュアだっていうから、すごい。『小説家に俺はなる!』というサイトにこうした存在がごろごろいるのかと思うと、まるで金鉱を見つけた開拓者のような気持ちになる。

 さて、ここからどうなるのか。できるだけ先のサブタイトルを見ないようにしてきたので、先の展開はまったくの未知。敵は多次元に影響をおよぼす存在であるため、現実世界が次なる目標になるというのもアリだと思うし、あるいはこのまま王道ファンタジーを続けるというのも正しいと思う。一番の大穴として、幼馴染みの少女も異世界に召喚されて三角関係のラブコメが繰り広げられるのではと予想しているが、はてさて。

 「楽しみ過ぎて死ぬ――」

 ひとりごとを遮るように、車のクラクションの音が聞こえ、わたしはそのとき国道のど真ん中を歩いていることにようやく気がついた。赤信号。驚いている人が向こうに見え、スローモーションのような世界で、車が迫ってくる。運転手は必死にハンドルを切ろうとしているが、きっと間に合わないだろう。わたしはとっさには動けず、脚が竦むばかりだったが、無意識のうちにipadを抱きしめるように庇っていた。

 死を想像したことがないわけではなかったが、最期にわたしが思ったことは、「そうか、もう小説読めないのか……、マジか、読めないのかよ!」という、しょうもない、けれどもわたしにとっては何よりも大切な想いだった。


 ※


 痛みは感じなかった。

 どころか、暖かくて柔らかくて気持ちよかった。春の日向でのうたた寝を終えたあとのような、微妙な気怠さと気持ちよさ。まどろみから醒めつつある頭で、これは死後の世界なんだろうかと思いつつ、あくびがひとつ自然と出た。

 「¡ɐʇıʞǝpuuɐʞnoɥs ozɐʇısnoʞıǝsıuınsʇ 'ɥo」

 聞き慣れない妙に早口な言語が耳を突く。

 伸びをしながらまぶたを開くと、そこにあったのは見知らぬ世界だった。馬鹿みたいに大きな満月が、太陽のように照らす世界。賑わっている不思議な街。綺麗な石畳の道路は視界の続く限り伸びていて、その両側には出店が立ち並んでいた。映画で見たような洋風の建物も数多く見える。その十字路の真ん中でわたしは倒れるように眠っていた。

 生き倒れと思っているのか、さまざまな人々がわたしを取り囲んでいるのがわかった。

 「oznɹǝɐɹoɯǝʇǝɯoɥ nʞɐʎnoʎ ǝpǝɹoʞ」

 人々はよくわからない言葉(?)を喋りながら、それでもなにかテンションが上がっていることだけはわかる。わたしが座り込んでいるところには、巨大な図形が描かれており、紫めいて輝いていた。魔法陣、という言葉が頭をよぎった。ファンタジー、特にわたしが読んでいるアマチュア小説にありがちな、異世界もののテンプレ設定が脳内に花開く。

 「なんぞこれ……」

 『ɐʇısɐɯısıʞısuuıu oʍ noʎʞuɐʞoƃuǝƃ』

 キン、といまの無機質な言葉は頭に直接響いてきた。戸惑っているわたしに、ひとりの外套を纏った少年が近づいてきた。高貴な存在なのだろう、まわりの者たちはさっと左右に引いた。ふふん、といったドヤ顔で少年はわたしを見上げてくる。猫耳がぴょこぴょこしている。

 「ようこそ、我々の世界へ。歓迎します」

 「え、え、日本語喋って……?」

 「あなたの言語環境に合わせています。文化も、ね?」

 ぺこりと、その少年は頭を下げた。

 「わたしをここに呼んだ? なんのため?」

 異世界召喚ものとしては、もっと特定の技術に秀でた者(鍛冶屋とか料理人とか)を呼びそうなものなのに、真剣に何の取り柄もないようなわたしを呼び出して何の特があるのだろう。もしかして、わたしにチートのような才能が隠されているのでは。首を傾げたわたしに、少年は一点の曇もない笑顔でこう答えた。

 「暇潰しです」

 「……は?」

 「王が暇だとうるさいので、むしゃくしゃしてやりました。誰でもよかったのです。」

 「……わたしの才能を見込んで呼んだわけではない?」

 「もちろん。え、何か才能があるんですか?」

 彼の無邪気な発言に、わたしはため息をつくしかなかった。

 「あらゆる多次元世界エヴェレットに門を仕掛けました。しかし、時空間を超える技術であるためにこちらの一存で召喚することはできません。次元因果律に干渉するためです。そんな中で、異世界へのあこがれをもっとも強く抱いていたあなたが引っかかり、こちら側に呼び出されたというわけです」

 「異世界へのあこがれ……」

 ここではないどこかへ行きたい、わたしはずっとそう思っていた。学校でも、帰り道でも、家でも。物語の海に浸り、あわよくば向こう側にあるはずの物語の世界に飛び込みたいと思っていた。彼の言い様はなんだか失礼な気がして腹が立つけれど、その部分はさすがに否定はできなかった。なるほど、わたしの『ここではないどこかへ』という想いと、彼らの『誰でもいいから呼びたい』という想いが、たまたま合致したということなのだろう。

 それにしても、異世界に転送されてよくわからないことになっているというのに、いつのまにか受け入れている自分に驚いた。よくこういった夢想は眠れない夜にするものの。ちなみに、頬をつねってみたら普通に痛かった。

 「わかった……。わかってないけど、わかった。それで、わたしは何をすればいいの?」

 「まずは王へ謁見を。向こうにお城が見えるでしょう、ご案内します」

 立ち上がろうとすると、ふわっとお尻が浮いた。制服のスカートがめくりあがりそうになってしまって、慌ててそれを押さえる(クラスの他の女子たちほど短くはないはずなのだが)。

 ちょっとジャンプすると、ふわっと身体が浮く。アポロ何号かの古い映像を思い出した。

 「ああ、重力の調整もしなければなりませんね。大気の組成は問題ありませんか?」

 まくれあがるスカートを押さえながら頷くと、例の少年は何事か唱えながら手を中空にかざした。わたしが召喚されたときに床に描かれていたような魔法陣が空間に刻まれて、不思議な色合いで発光を始める。すると、ぐん、と身体が重くなったような気がした。わたしの知っている、わたしが慣れ親しんでいる環境の重さだ。

 「うん、大丈夫」

 「では、参りましょう。おっと、お名前を伺うのを忘れていました。わたしは『知恵の従者』コクマー。以後、あなたの世話役となります」

 「小猫なのに小熊?」

 「は?」

 場を和ませるための決死の発言だったのだが、彼はいたって真面目な顔でわたしを見上げてきた。

 「すみません、意味がわからなかったのでもう一度。できれば説明をしていただければ」

 「……殺す気か」

 「いえいえ、滅相もない!」

 慣れない中世の街並みのなかを、かばんを抱えて歩いて行く。しばらくして、遠くに見えていたお城の外観が確認できるようになってきた。小さなころ、童話か何かの絵本で見たようなお城だった。

 「わたしは、ひかり」

 「ひかり、いい名前ですね」

 「……そんなことないよ」

 歩きながら、わたしが学生として存在していた世界のことを思い返して振り返ってみたが、特にあの世界に帰りたい理由も思い浮かばず、「どうしたのです?」と問いかけるコクマーに「ううん、なんでもない」と追いかけたのだった。


 ※


 「ところでコクマー、わたしはいいんだけど、あなたはこの重力で問題ないの?」

 「大した問題ではありません。我々は重力子グラヴィトンを完全制御できますから」

 「……あなたたち、いったいなにものなの?」

 コクマーは悪戯げに笑った。

 「では、あなたは『あなたはなにものなのか?』と問われて何と答えるのです?」


 ※


 ガーゴイルが左右を守る門をくぐり、ふかふかの絨毯を上をキョドりながらついていった。右に左に視線を揺らしていると、こういう異世界からの客は珍しいのか、兵士やメイドたちの視線を感じた。ほどなく玉座の間につき、わたしを案内してきた者たちがひざまずいた。

 「我らが王、連れてまいりました」

 荘厳な王座の間で謁見というやつだった。絵本かゲームかで見たことがあった。豪奢な椅子に座っているのは、黄金の冠を被った少年だった。灰色の髪と猫耳が特徴的な、まだ10歳くらいの可愛いショタ。『王』といえばメダル収集癖のある髭を蓄えたおじさんを想像していたわたしは、完全に言葉をなくしてしまった。王様。王様。えらいひと。不意に頭のなかに水戸黄門のイメージがよぎり、頭が高いと思うも、そもそも相手の頭がかなり低いので、とりあえず土下座してみた。

 「……ひかり、そんなに畏まらなくていいですよ?」

 コクマーに耳打ちされて、真っ赤になりがら顔を上げた。王冠の少年と目があった。彼の耳がぴょこんと跳ねる。

 「はじめまして! ボクはケテル、遠い世界からはるばるようこそ!」

 思った以上にフランクで、コクマーのいうとおり土下座する必要はなかったことに気づいた。

 「あれ、理解子シンパシトン制御うまくいってない?」

 「そんなことはありません。ひかりは王のあまりの威厳に驚いているのでしょう」

 「そっかー、仕方ないよね」

 王様と従者の会話。だが、わたしからしてみればまるで小学校の学芸会の舞台に迷い込んだかのようだった。もとより年下の少年には性癖的な意味で目がないわたし。あのSNSでもそういう小説は優先的に読んでいた。いやあ、なんと幸せな世界に迷い込んだのだろうか。しかも猫耳までついているなんて。

 わたしは口を開く。

 「わたしはひかりと言います。よろしくお願いします、王様」

 「王様なんて言わなくていいよ、君は客人だ。ケテルと呼んでよ、さぁ、一緒に、ケ・テ・ル!」

 「ケ、ケテル」

 「よろしい!」

 それからいくつかのやり取りをケテルとコクマーがしていた。客人たるわたしの処遇なのだろう。さっきはわたしでも理解できる言葉で喋っていたが、いまは最初に聞いたような異言語で事務連絡をしているようだった。なにかわたしに聞かれてくないことでもあるのだろうか。それを待っているあいだに、様々な職種の人々が王の間に集まってきた。いずれも少年少女と呼ばれるべき年齢で、みなに猫耳がついていた。その可愛さ、パなかった。

 「それでは、ひかり。涎を拭ってよ、ひかり。いい? まずはボクたちという存在について説明をしたいところなんだけど、君のいま持っている、あの世界の概念で理解するのは非常に難しい。かといって噛み砕いて説明をすると、平気で数年経過してしまう。だから、端的にボクたちのことを伝えようと思うんだ」

 『重力子グラヴィトン制御』『理解子シンパシトン制御』、聞き慣れない単語。前者はSFであったり、いろんな創作で見る用語であったが、後者に至ってはまだ一度も聞いたこともない。言葉を聞くに、彼らがわたしの言語と文化を理解した要因なのだろうけど、どのように作用しているものなのかまったく想像ができない。

 「ビナー、来てー」

 王様ケテルがそう呼ぶと、黒衣に身を包んだ少女が現れた。ビナーと呼ばれた彼女は小柄で、たおやかな動きでわたしの前に歩み出てきた。よく見れば、真珠に似た宝石のネックレスをしている。

 「『理解の姫君』ビナーと申します。以後お見知り置きを」

 ビナーの瞳、猫のような特徴的な瞳孔がきゅっと細まったと思うと、地面の石畳に複雑な文様が現れた。魔法陣。わたしがこの世界に呼ばれたときに見たものとよく似ていた。見えないペン先が右へ左へ円を描いていき、最後に一筆書きのように最初の線と繋がった。線上に紫色の光が溢れる。

 「わたしたちはとある使命を帯びて、この多次元世界エヴェレットに存在しています」

 ビナーの言葉に従うように、魔法陣の上に立体的な映像が映し出される。古いSF映画で見たような、ホログラム映像みたいだった。巨大な球の中に、無数の泡が詰まっている。中央付近で動いている光点がこの世界なのだろうか。まるで海に漂う小舟のように、泡の世界を漂っている。

 「多次元宇宙エヴェレットは書き込み不可の領域が非常に多いため、ほとんどのことがままなりません。我々の使命を果たすため、ある世界のある時点に接触するためには、もうしばらく刻を待たなければなりません」

 「なるほど、たしかにこの光ってる点は自分の意志で動いてない感じがする」

 このあいだ化学の時間で習ったブラウン運動を思い出した。ふらふらと右に左に動いている。目的地があるとはいっても、これではたどり着くためには偶然に頼らなければならないだろう。

 「ええ、どうしても時間がかかってしまうのです。そのため、王は暇なのです」

 多次元世界エヴェレットとやらを映し出していた映像はさっと消え去り、代わりにケテル君がだらだらしている映像が次々と映し出された。お城の中、玉座の上で欠伸をしている姿。赤い絨毯の上でごろごろと眠っている姿。他にも王様というにはあまりに威厳のない姿が、わたしの前に映し出される。その向こうで、ケテルが「えへへ」と言わんばかりに頭をかいていた。ビナーは無表情に凛と魔法陣を見つめている。

 「だからあなたが呼ばれました。さ、王の暇を潰すため、滑らない話をしてください」

 「無理です」

 わたしの即答に、彼らはさも意外そうな顔をした。

 「え、無理なの?」

 「無理です」

 「君のいた世界の話ならなんでもいいんだけど」

 「話すことなんてありません。完全に人選ミスです。なんでわたしを選んだんですか」

 「だから、強い異世界へのあこがれがないと召喚できないんだって。ボクたちだって選んだわけじゃない」

 そうだった。だからといって、このムチャぶりは荷が重すぎる。だいたい面白い話をしてと言われて、面白い話をできるやつなんているわけがない。それは置いておくとしても、わたしでは無理だ。わたしはあの世界に何の思い入れもない。楽しいこともなかった。求められることもなかった。語りたいことも、語るべき友人もいなかった。

 困ったような顔を浮かべてわたしを見上げるケテル。その姿は非常に可愛らしかったが、残念ながらわたしにはどうしてやることもできないのだ。わたしの生い立ちなんて喋ってもつまらないだろう。集まってきた者たちもみながっかりしてうなだれている。

 「王、どうしましょう。帰すにしろ、他のものを呼ぶにせよ、時空間的にしばらく位置が悪い」

 「しばらくここにいてもらうしかないわね、王」

 左右の二人にそう言われ、ケテルはひとつ頷いた。

 「わかった。無理をいってごめん。時期が来たら君の世界に帰してあげるから、もうしばらくだけ待っていてくれないかな。何か欲しい物や、環境的な不満があったら、遠慮なく言って欲しい。客人には礼を尽くすものだ」

 「……そっか。しばらく帰れない?」

 「どれくらいになるかはちょっとわからないけど。ごめんね」

 ともあれ、『面白い話をしろ』なんて無茶すぎる任務は解かれたようで、一安心だった。ここが異世界の謎の国だということを忘れて一人で過ごせばいい。わたしは一人で時間を潰すことにかけてはプロフェッショナルだった。将来はこの特技を活かせる職に就きたいとも思っている。自宅警備的な意味で。

 まだ読みかけの物語はたくさんある。鞄の中からipadを取り出して――。

 「あ、」

 「どうしたの、ひかり」

 「面白い話、できます……」


 ※

 

 わたしはipadにダウンロードしていた『小説家に俺はなる!』の物語の中でもっともお気に入りの短編を朗読した。朗読という行為は苦手だったけれど、相手は少年少女なのだからと自分に言い聞かせて、ぎこちないながらも完遂することができた。

 ほんの10分程度のことなのに、手は震えるわ、喉は渇くわ、体感時間にして三時間はかかったと思う。背中にびっしょりとかいた汗の感触を感じながら顔を上げると、少年少女たちはきらきらした眼でわたしを見つめていた。特に王冠のケテルが飛び跳ねんばかりにテンションが上がっていた。

 「すごい! 面白い世界に棲んでいるじゃないか、ひかりは!」

 「え、いや、これはわたしの世界のお話じゃなくて……」

 「ん? ひかりの世界の話じゃない話を、なぜひかりができるのだ?」

 「え?」

 「は?」

 その後、数分のやり取りの末に、ようやくわたしはこの会話のすれちがいの原因に気がつくことができた。

 『物語』

 わたしたちの世界の根幹を為すその概念が、この世界には古今東西存在していなかったというのだ。実験主義を重んじるこの世界では、『話』と言えば、事実の伝達らしい。空想を語り、事実を騙る『物語』というものは必要なかったそうで(わたしには考えられないことだが)、フィクションだという言葉の意味を伝えることさえ苦労をした。

 「……ん、それで嘘の話をしたのか、ひかりは?」

 「まぁ、ざっくり言えばそうだけど。でも、面白かったでしょ?」

 ケテルは大きく頷く。姫君も従者も彼ほど無邪気ではなかったが、同様だった。価値観の食い違いはあるが、物語を語り終えたあとの感触を見るに、この『物語』という概念は歓迎されているようだ。わたしはタブレットの電源を切り、鞄の中にしまった。

 「緊張して疲れちゃった、少し休んでもいいかな?」

 「ちょっと待て、ひかり。その石版は何なのだろう。君はそれを読んでいたように思えるが?」

 ipad。『小説家に俺はなる!』というアマチュア小説投稿SNS。その読み専という立場。ついさっきまで『物語』という概念すら知らなかった少年少女たちには、どれほど言葉を尽くしても伝わらないような気がした。ここに来たころに言われた言葉を思い出す。『君のいま持っている、あの世界の概念で理解するのは非常に難しい。かといって噛み砕いて説明をすると、平気で数年経過してしまう』というのはまさにこのことだ。彼らの世界は科学と事実とで発展し、わたしたちの世界は物語と空想で進化したのだろう。

 さて、四方八方をきらきらとわたしを見上げる少年少女の瞳に囲まれて、わたしは説明を端折るため、ついついこんなことを言ってしまった。

 「そう。この『魔法の石版』に念じると、考えた『物語』が浮かび上がってくるの」

 「ほうほう、それはすごい! ということはいまの面白いお話はひかりが考えたのか!?」

 「え、あぁ、そうだけど?」

 とっさにそう答えてしまって、やばい言い直そうと思ったときには、拍手喝采がわたしを囲んでいた。こんな期待に満ちた眼を向けられたことはなかった。もう何年も会っていない父はもちろん、夜の仕事で忙しい母もわたしにこんな眼を向けることはなかった。学校でももちろん味わったことはない。物語の中に逃避するだけの人生である本の虫、それがこんな価値を見出されているのだ。虫は明るい方向へと飛んで行く。わたしは完全にこの嘘を撤回するタイミングを失っていた。

 引き攣る頬の感触を感じながら、わたしはモーセのように石版を掲げていた。



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