第三章
Ⅰ
「これでいいかな……」
ボクは鏡の前で自分の服を確認する。白色のチュールスカートと灰色のトップスを合わせた服装。髪には普段はつけないリボンのついたカチューシャもつけている。これでいい……よね?変なところないよね?
妙に気になって何度もクルクルとその場で回転して調べる。
(何回見ても服は変わらねえよ)
無粋なことを黒哉が言う。そりゃそうなんだけどさ。気になるものは気になるもん。
うう……こんなことなら服買うのお母さんにまかせっきりにするんじゃなかったな……。お母さんのセンスは悪くないし、むしろいい方だけどそれでも自分で買った服というものの方が納得いくことだってあるし。
「うん、大丈夫」
普段よりは少し時間をかけてメイクもしたし……。というか、化粧のりが悪いんだよな……。綺麗に化粧してみたいけど。
「白乃ー、もうすぐ時間よー」
「わ、わかってるよ」
下からお母さんが呼び掛けてくる。時計を確認すると午後4時40分。ここから駅まで10分だから約束の5時集合には十分間に合いそうだ。
「ふう……」
ボクは用意していたのバックを持って玄関に急ぐ。といっても、走りはしないけど。折角の化粧が崩れたら嫌だし。
「にしても、あの白乃がデートか」
ボクを見送るように玄関口に来て少しニヤニヤしながらから、からかうように言うお母さん。
「も、もう。そんなんじゃ無いってば。ただ、クロックタワーの近くを案内するだけだから」
「ふーん……そういうことにしておきましょうか」
「……そういうことって、そういう意味しか無いよ」
頬を膨らませて抗議する。
昨日雨澤さんにクロックタワー周辺の案内を頼まれた。その報酬の1つとして、レストランのディナーを奢ってくれるらしい。
クロックタワー周辺はデートスポットとしても有名だしかなり栄えている。変な格好で行って雨澤さんに恥をかかせるわけにはいかないから服装やメイクにも気を配るのは当たり前だし。
「とにかく、楽しんでらっしゃい。黒哉には悪いけどね」
(俺はどうすりゃいいのか……)
―――黒哉は普通にしてたらいいよ。なんだったら寝ててくれていいし。
(何となく……寝るのは嫌だ)
どこか不機嫌そうに黒哉が言う。やっぱり黒哉には悪いことしたかな?
「黒哉はなんて?」
「どうしたらいいのかって。寝るのも嫌らしいし」
「……寝るのも、ね」
なにかを察したような口調のお母さん。
「白乃。あなたはいろんな人に愛されてるのは確かっぽいわね。そうでしょ、黒哉?」
(…………)
なにも返さない黒哉。愛されてる……?意味が理解できずにキョトンとす。
あれ?そういえば。
「お父さんは?」
さっきから姿が見えないけど。
「ああ。お父さんなら今柱にくくりつけて猿ぐつわ噛ませてるわ。野放しにしてたら白乃についていきそうな勢いだし」
「あ、はは」
なにもそこまでとは思うけど、お父さんならやりかねない。
「じゃ、じゃあいってきます」
「いってらっしゃい」
ボクはお母さんに手を振って歩き出す。
今日ばかりは雨はいらない。綺麗なイルミネーションを見るには星明かりがある方がいいからね。
(……白乃)
―――なに?
さっきから沈黙していた黒哉が呼び掛けてくる。
(俺からは別になにも言わないけど……もし、傷つけられたら、俺にすぐ代われよ?)
―――う、うん……。
少し困惑しながらボクは返した。傷つけられたらって……どういうことだろう?昔みたいなことを言ってるんだろうか?
精神の奥に引っ込んで黙ってしまった黒哉にボクは言葉の真意を聞き出せなかった。
楽しそうに服をチェックする白乃。だけどそれが何となく気に入らなくて気がついたら俺は自分でも無粋だと感じるようなことを白乃に言っていた。
昨日、雨澤雪兎から電話をもらってからの白乃の行動は迅速だった。
母さんに明日の夜雨澤雪兎と共に出掛けていいかを聞いて許可が出るとすぐに自室にこもって服選びを始めた。俺に対しても出掛けていいか尋ねてきたが……あんなに楽しそうな白乃にダメだなんて言えなかった。
階段を下って母さんと会話する白乃。母さんのからかいに少し頬を膨らませているみたいだが……その仕草1つ1つが少し俺を苛立たせていた。
寝れば時間は過ぎ去る。イライラしなくなる。だが、何となく寝るのは嫌だった。
白乃の寝ておけばという提案は決して悪いものじゃない。退屈な時間を過ごさせるのは悪いと白乃が気遣ってくれているのもわかる。だけど、本当の意味で白乃とあの男を2人っきりにしたくなかった。
「白乃。あなたはいろんな人に愛されてるのは確かっぽいわね。そうでしょ、黒哉?」
そんな俺の心を見透かしたような母さんの言葉。それにはなにも返せなかった。気づいてしまったから。
ああ、このなんとも言えない気持ちはそういうことなのかと。
情けなくも俺は妹を、白乃をとられるような気がして、雨澤雪兎に嫉妬していたみたいだ。
「あっ、雨澤さん!」
駅前につくとそこには既に待ち合わせ相手、雨澤さんの姿があった。今日の服装は初めてあったときや2度目の時とは少し違った、オシャレというか大人の男性っぽい服装だった。
内心ホッとする。これでボクだけ気をはってたら恥ずかしいし。
「白乃ちゃん、こんにちは」
雨澤さんもボクに気づいて笑いかけてくれる。
「お待たせしました」
時間を確認してみると予定通り10分前。ということは雨澤さんはそれよりも前に来ていたということになる。
「いや、待ってないよ。僕が早く来すぎただけだからね」
「なら……よかったです」
その言葉が真か偽かはわからなかった。こういう時ドラマやアニメなら落ちているタバコの数で分かったりするんだけど雨澤さんは非喫煙者みたいだし。というか、いま時タバコを地面にそのまま捨てるのはマナーがなってない。携帯灰皿持参しているものだろう。
「じゃっ、行こうか。どうぞ」
「えっ……あっ、はい」
雨澤さんにキップを渡される。遠慮をするのもおかしな話だ。ボクは好意に甘えて受け取る。
それから今日誘ってくれたお礼をしながらボクは雨澤さんと共に電車に揺られること20分。クロックタワーの最寄りの駅に着く。
「っと……人が多いね」
電車内ではそこまで感じなかったけどホームから出たら人がたくさんいることがわかる。
「そうですね……。では、どこから参ります?」
夕食にも早いしイルミネーションは8時から。それまではフリーなわけだ。
「ああ……少しこのあたり下調べしいたんだけど―――」
そういっていくつかの選択肢を出してくれる。
デパート、喫茶店、複合遊技施設、近くの波止場……。
本当は僕が決めて置いてリードしたほうがいいんだろうけど、白乃ちゃんの好みがわからなくて……ごめんね、とボクに謝る。
リードしてほしい女の子は多いみたいだけど、ボクは別にそうは思わない。せっかくだから楽しめるところがいいしね。
「そうですね……デパートでいいんじゃないですかね?デパートなら喫茶店もあるだろうし、ちょっとしたゲームセンターみたいなものもありますから」
波止場は無いけど……、海は別に好きでも嫌いでもないし。
「OK。じゃあ、いこっか」
雨澤さんに先導されて人の合間を抜ける。歩くこと2分。目的地にたどり着く。
「大きいですね」
クロックタワーを雨澤さんに推してはいたけど本当は行ったことは無かった。テレビでも一時話題になってたしボクは奥に引っ込んではいるけど学校での会話とかで聞くこともある。
「そうだね……というより、敬語やめない?」
「えっ?」
「ほらっ、年上と言っても4歳しか変わらないし。気を遣うのも面倒でしょ?」
「そう……だね」
少し迷ってボクは敬語ではなく普段の口調で返した。
「うん。よし、いこうか」
ボクに笑いかける雨澤さん。なんだか距離が近くなったように感じる。うん、確かにちょっと他人行儀すぎたかもしれないなと感じた。
楽しそうにデパートを白乃と雨澤雪兎はめぐる様子を俺は宣言通り眠りにつかずにその様子を白乃を通して見ている。
白乃が敬語を止めたため一気に親しくなったように見えた。
デパート内ではウインドウショップで色々見て回っているみたいだ。たまに歩みを止めては商品を見ている。
「似合うかな?」
「う~ん……僕はこっちのが好きかな」
「あぁ~。あっ、だったらこういうのもいいよね?」
次から次に服をとっては合わせる白乃。どうやら新しい服が欲しいらしい。
珍しいな、白乃が自ら服を買おうとするなんて……。まあ、昨日あんなに悩んでたから服がほしくなったのかもしれないが。
「う~ん……どっちにしよっかな」
白色のワンピースとデニムシャツを手に悩む白乃。
「試着してみたら?」
「そうだね」
二着を手にして白乃は試着ルームに向かっていく。
「じゃあ、ぱっぱと着替えるね」
「別に急がなくいいからね」
そういう雨澤さんに頷いてみせる白乃。まずはワンピースから試すようだ。
―――それ、買うのか?
(ん?どうだろ?それを決めるために試着するようなものだし)
―――まあ、それもそうだな。
そうじゃなきゃ試着の意味ないもんな。あっ、別にジーパンとかなら裾合わせの為とかもあるか。
(……黒哉?)
―――なんだ?
どこか遠慮がちな白乃の心の声。こんな声を聞くのは随分久しぶりだ。
(えっと……ごめんね)
―――えっ?
謂れの無い謝罪の言葉。理解しようと勤めるが出来ない。
(ボクのワガママで黒哉もクロックタワーまで来ることなったわけだし……黒哉にしてみれば暇な時間過ごさせてるし……機嫌悪くもなるよね、黒哉)
白乃の、申し訳なさそうな言葉。それに俺は衝撃を受ける。
白乃に重荷は背負わせない、迷惑をかけた思わせない……そう誓っていたのに……。
バカだ。
下らない嫉妬に身を任せて……白乃を傷つけた気がした。
それは考えすぎだというのは理解している。きっと白乃はただ単に俺が退屈していると思っただけだろう。
雨の日の池とは違う。2人で決めた、趣味は協調しあうというもの。雨の池は白乃の趣味。だけど今回は趣味で形容出来るものではない。だから、謝ってるんだとわかる。
それが、俺には許せなかった。そんな事を白乃に思わせた自分自身が。
(黒哉?)
―――……別にワガママなんて思ってないさ。
(そう?)
―――ああ。やっぱり、俺は寝とくことにするよ。あっ、でもイルミネーション見るときは起こしてくれよ。折角だから俺もみたいし。
(うん。わかった)
ちょっとおどけて俺は言って胸の奥に引っ込んで眠りにつくことにした。
Ⅱ
「予約してた、雨澤です」
「お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ」
一礼してシワの無い礼服でボクたちを案内する店員。行儀が悪いとわかっていてもついつい店の内装のあちこちに目がいってしまう。
別に安いものでもないのに、なぜか先程買ったデニムシャツの入った袋が浮いてるような気がしてしうほど豪華な出で立ちだ。
案内されたのは個室となっている場所。その店員は自然に椅子をひいてボクたちをエスコートする。
「ご注文がお決まりになられましたら御知らせくださいませ」
スッと頭を下げて立ち去る。それを見計らってボクは雨澤さんに耳打ちをする。
「こ、こんな高そうなところ……いいんですか?」
時刻は6時30分。
数分前、そろそろ夕食だと思っていたら、もう予約していると言われつれてこられたのがいかにも高そうなフランス料理店。驚くなというのが無理というのはこういうことを言うのかと、何となく理解してしまう。
「言っただろ?賞金が入ったって。別に財布が痛むこともないよ」
「で、ですけど……」
「ははっ。僕にもカッコつけさしてくれよ」
微笑む雨澤さん。その顔を見て、なんだかボクもこれ以上なにか言う気力が削がれる。
いつも、不意打ちで驚かす人だと苦笑してしまいたくなる。
「わかりました」
「うん、よかった。それと、敬語になってるよ?」
「あっ、ホントだ」
驚きのあまり敬語になっていたらしい。
指摘され思わず顔を見合わせてしまう。
「……フフっ」
「……ははっ」
そうして2人そろって吹き出す。
肩の力を抜こう。
「さっ、料理を決めよう」
パッとメニューを開いてボクに見せる。
「う、うーん……正直言っていい?」
「なに?」
「どんな料理がいいのか、わかんないです」
「実は僕も」
2人して笑い合う。
何とかのなになに焼きとか、何とかのなになにスープとか……何が何やら分からない。
想像出来なくは無いけど……分からないものは分からない。ボクの知ってるフランス料理なんてエスカルゴぐらいだよ?
あれ?エスカルゴってフランス料理だよね?それすらも怪しくなってきちゃった。
まあ、どちらにしろメニュー表にものって無いし、のっていたとしても食べる気はさらさら無いけど。カタツムリって、正直どうなのと思ってしまうし。
向こうにしてみれば海藻食べるの?って感じだろうからお互い様だと思うけど。
結局は2人で話し合って色々な料理が食べられるようコース料理にすることにした。
「こちら、前菜となります」
コトっと料理を置く。
前菜はサーモンとホワイトアスパラのファルス(というらしい)、そしてエビのジュレサラダ。
「おいしそ」
ボクは思わずつぶやく。窓からは今にも沈みそう橙色の太陽も綺麗で素敵だ。
「そうだね……じゃあ、さっそく食べようか」
「うん」
いただきますとボクたちは声を合わせる。口に含む……。
「あっ、美味し!」
「うん、うまい」
2人とも声がそろう。ライムの香りにレモンの酸っぱさ……前菜から美味しい!!
(……ん?なんだ、この感じ……?)
―――あれ?黒哉も感じれてる?
(これって……うわっ、なんだココ!?)
辺りを確認してか黒哉が驚いた声を出す。
ずっと起きていたボクだって連れてこられた時は驚いたのだ……。黒哉にしてみればデパートからココにワープしたような感覚。驚くなという方が無理がある。
手を止めたら雨澤さんに不自然に思われるかもしれないので手を止めずにもう一口含む。
(うまい……)
美味しい……。
「……えっと、このファルスってやつ?これ僕好きだな」
コース一覧のメニュー表を見て言う雨澤さん。ボクはそれに返す。
「うん。ジュレサラダもエビとマッチしてて美味しいよ」
「そうだね」
(ファ、ファルス?ジュレ?)
―――いや、ジュレはわかるでしょ?
(ま、まあ)
―――雨澤さんに連れられてフランス料理店にいるんだよ。予約してたみたい。今はコースの前菜。美味しいとは思ってたけど感覚共有するほどとはね。
ボクは正解を発表するように言って見せる。
(フランス……か。しかし、高そうなところだ)
―――“高そう”じゃなくて実際に“高い”んだけどね。
なんて黒哉に返しながら雨澤さんとも話ながら前菜を食べ終える。途中から感激が無くなって馴れたからか感覚共有はしなくなったらしい。ちょっと黒哉に悪い気がするけど、入れ替わるのはリスクが高すぎから我慢してもらうしかない。
それに次の料理になればまた共有できるだろう。
前菜は食欲増進のための料理。次のスープを待ち遠しく思いながらグラスの水で口内を洗浄した。
どうでもいいけど、前菜をオードブルっていうのとお通しというのでは全然印象が違って見える。まあ、お通しと前菜はニュアンスがかなり違ってくるから当たり前といっちゃ当たり前なんだけどね。
「ご馳走さまでした」
「お粗末……なものじゃないよね。この場合何て言えばいいんだろう?」
「確かに」
店の外に出て雨澤さんとそんな会話を交わす。
日本特有の謙遜する言い方だけど、自分の手料理ならともかくこういうお店でもお粗末さまというのはなんとなく腑に落ちない。だって、店のものは粗末なものでは無いしね……。
「んー……どういたしましてっていうのもおかしいもんね」
「同年代や目下の人ならともかく目上相手にはね。やっぱり、お粗末さましかないんだろうね」
「そうだね」
なんて返すけどやっぱり腑に落ちない。だって今日の料理は全部粗末なものなんかじゃないし。現にスープも、メインもディナーも全部感覚共有が行われたんだから。といっても、全部半分くらいで馴れてしまうから共有も終わってしまうんだけどね。こればかりは仕方ない。
「まっ、いっか。そろそろ時間だね。いこうか」
「うん」
時間を確認すると7時50分……あと10分でイルミネーション開始だ。雨澤さんはバックからカメラを取り出して小さく手入れをする。
そこからクロックタワーに近づくにつれて人が多くなる。というか、やっぱりカップルが多いな……。
「はぐれないように気を付けないとね」
まるで初詣のそれ……よりはましだけど人が多いからはぐれたら大変だ。それは有象無象の他の人も同じなようで小さな子どもなんかはお父さんに肩車してたりカップルなら手をつないだり……。
「きゃっ」
人の雪崩に押し流されて一瞬雨澤さんの姿を見失う。
「白乃ちゃん?」
ボクを探すようにきょろきょろする雨澤さん。くっ……。人ごみは苦手だな……やっぱり。
「えいっ」
人の流れが途切れた瞬間を狙って雨澤さんの服の袖をつかむ。
「あっ、ごめんなさい」
「あっ、いや……こっちのがいいね。このまま行こう」
「うん」
雨澤さんの服の袖をつかんで一緒に歩き出す。しわにならないかが少し心配だけどはぐれちゃうよりかはマシだよね?
(……まあ、いいか)
―――うん?
(いや、別に。背ちっさいんだから気をつけろよ)
―――もう!余計なお世話!
黒哉なりに心配してくれてるんだろうけど……もうちょっと言葉を考えてほしいな。
もちろん黒哉とそんな会話をしているなんて知らない雨澤さんとクロックタワー付近まで来て立ち止まる。
後、1分。後1分でイルミネーションが開始する。
「もう少しだね」
雨澤さんが振り向いて背中にくっつくボクに笑いかけてくる。というか、いつまでくっついてるんだろう?少し恥ずかしくなってボクは顔をそらしてから頷く。
そのまま何となく無言で時間が過ぎるのを待つ。忙しいときの1分は一瞬だけど早く過ぎてほしいと願うときの1分はやたらと長く感じる……。
腕時計を確認する。
10……9、8、7―――3、2、1。
「0」
ボクが呟く。するとクロックタワーが綺麗に光っていく。
思わず歓声が上がる。もちろんボクも。
「すごい」
声を漏らしてボクは少しそれを見入る。
「あっ……」
だが、シャッターを押す音が聞こえてそちらに振り向く。
彼の眼は先ほどまでの柔和なものではなく初めて会った時見た時間を切り取るカメラマンの目に思えた。
無言でシャッターを切る雨澤さん。その様子に何となく見入る。時折首をかしげてはカメラをもちかえたりアングルを少し変えてみたり……試行錯誤している様子がよくわかる。
「……あっ、ごめん。つい夢中になってた」
苦笑いをしてボクに詫びる雨澤さん。それに笑って返す。
「ううん、気にしないで。なんだかカメラを握って写真を撮ってる雨澤さん、かっこよかったし」
「あ、はは。ありがと」
また苦笑をもらしてカメラを握りなおして写真を撮り始める雨澤さん。その様子を見ていたら急に左腕が熱くなる。まさか!
(マジかよ)
黒哉も感じ取ったようで嫌そうな顔をする。昨日ラグナロクがでたからでないものと勝手に決めつけていた……。だけど、よく考えたらラグナロクの襲撃に定期性があるわけではなく半月やってこないと思ったら三日連続でやってくるなんてざらにある。
『いよっ、キミたち』
二宮博士の声……。キミたちって誰と誰を指してるんでしょうか?名前を言っていただけませんかね?
「あ、雨澤さん」
「う、うん?なに?」
「ごめんなさい、少し電話が来たんで出てくるね。たぶんこの場所には戻れないと思うんから撮影終わったら連絡して」
「そう?わかった」
雨澤さんは微笑んでボクに移していた目をまたクロックタワーに向ける。それを確認してから少し足早に人ごみをかき分けていく。
『キミたちって、誰と誰を言ってるんだ?』
この声は……椎名さん。
『白乃クンと夏藍クンだよ』
博士の声を聞きながらスッとビルとビルの間の路地に身をひそめる。
「博士……今、ちょっと忙しいんですけど」
少し息を切らしながら告げる。因みにボクの声は骨伝導で拾われている。
『うん?白乃、外にいるのか?』
時間的に外にいることを少しおかしく思ったのか椎名さんが尋ねてくる。
「はい……、すみませんだから今日は」
とにかく欠席したい。
『ふむ、そのようだが……白乃クンの近くでラグナロクが出たんじゃが?』
「はい?」
その言葉の意味が一瞬つかみかねて茫然とする。
すると、人々の悲鳴。まさかと思って路地から顔だけ出して確認するとそこには金色に光る大きな鳥の化け物―――ラグナロクの姿。
(上空にいたから気が付かなかったのか)
雲がかかっていないとはいえ夜だし遠くまで見えるはずがない……。そんな。って、雨澤さん!!
なんとか探してみるが当然のように見つからない。
ミッドガルドができてからラグナロクの被害は少なくなった。だけど、ゼロではない。今でも大けがを負ったりたまに死者がでるときだってある。特に人が多い地域なんかに出たら人がドミノ倒しを起こすことだってある……。
「わかり……ました。今出ます」
『お~、ではよろしく頼むぞい』
『私もすぐ行く。ラグナロクを牽制しといてくれ』
「はい」
通信を切って変身をしようと二の腕に触れる……直前に携帯が鳴る。電話の相手は……雨澤さん。そっか、心配してくれて……。だけど、気にしている暇はない。ボクは雨澤さんに心の中で謝罪をして変身する。
「灰のトール、変化完了」
ボクは呟く。金鳥に目を奪われてこんな路地に目を向ける人なんていないから変身は比較的安全に行えた。
ここからすぐに飛び立つことはせずにまずは近くのビルの屋上にワープする。
(ホワイト、まずはラグナロクの注意を引け)
「了解……」
ビルから飛び出てラグナロクの前に現れる。
「倍加の力帯、破壊する槌!」
そして大きな発光の元いつもの装備を召喚して身に着ける。
「ほらっ、こっちだよ」
ラグナロクの翼を狙うようにミョンニルを振るう。もちろんかわされるがこれでターゲットはボクに絞られたはずだ。金鳥に追いつかれないように飛行スピードを上げて距離をとる。
「雷鳴戦車を引く者」
体全体に雷をまとわせる。そして光速の速さで金鳥の周りをくるくる回る。ボクの飛行の後ろには黄色の輝石が残る。
下の人たちもボクの存在に気付いたのか逃げることを止めて呆け始める。できれば、安全な場所にまで行ってほしいんだけどな……。
「トール!」
「あっ、オーディン」
姿を確認してくるくる回るのを中断してオーディンに近寄る。さて、どうするか。
(よし、オーディンはワルキューレの召喚準備をお願いします。ホワイトは引き続きラグナロクの牽制を。敵の動きが止まったところで……)
「「了解」」
戦闘に従事しない分司令塔としてボクたちに指示を出すブラック。たしかに今回の敵は動きが早い。これがいいだろう。
「いくよっ」
ボクは再び雷をまとって金鳥を惑わしにかかる。金鳥もやられっぱなしでなくくちばしで攻撃にかかるけど、それより早く逃げ回る。そうしているうちに鬱陶しくなってきたのかくちばしによる攻撃を止めて羽を大きく広げる。はばたいて風を送るつもりみたいだ……。でも、その開けた瞬間は無防備。
「最大パワー……落とす巨人!」
ボクは右手で持っている大きなハンマーを高速で移動しながら羽を狙う。もちろん避けられるはずもなくラグナロクに当たる。
フェェェー。
金鳥の悲鳴が響く。動きが止まった瞬間を見逃すわけがない。
「戦士を連れし者!」
辺りに9人の少女が現れる。ボクは殴った勢いそのままワルキューレ達が金鳥を囲む前に離脱する。
「天上の宮殿!」
例の刃物が現れる。そして一気にラグナロクに突き刺さる。
悲鳴を上げる間もなく羽がばらまかれ絶命する金鳥。
「極寒の死世界」
オーディンが呟いてラグナロクを吸収する。よし……なんとか討伐完了……か。
呆けていた人たちの顔が気色に満ちたものへと変化し歓声があがる。さきほどまでクロックタワーに向けられていたんだけどな……。
「それじゃあ、博士のところいきますか?」
ボクはオーディンに尋ねる。雨澤さんの事が少し気になるけど……とんぼ返りすればなんとか……。
「いや、私だけ行こう。ラグナロクも私の元にある」
「で、でも」
「私から何とか言っておく。それに誰かと一緒にいたんだろう?ならそちらを優先しろ」
「……わかりました。ありがとうございました」
「かまわないさ。かわりにいつかホワイトとブラックの裸を両方ともスケッチさせてくれれば」
「させませんよ!?」
(させないですよ!?)
「はっはっは……冗談……にするつもりはないからな」
そういって笑いテレポートするオーディン。ボクは、もう、と呟き下の人たちに対して小さく手を振ってからテレポートする。テレポート先は変身したあの路地。
「ふう……」
一息ついて二の腕に触り変身を解く。落ちた荷物を拾う。早く雨澤さんの元に行かなければ。
気がつけば携帯には雨澤さんからの着信が5件あった。心配かけさせちゃったな。
ボクは雨澤さんの携帯にかけなおそうとリダイヤルを押そうとする。そのとき……。
「白……乃ちゃん?」
「っ。あ、雨澤さん」
後ろから声をかけられてびっくりする。ボクは笑みを浮かべて近づく。ごまかさなきゃ……。
「人ごみに押されて電話とるにとれなくて……ごめんなさい」
あり得そうな嘘をつく。これで納得してくれればいいんだけど……。
「雨澤さん?」
驚いたようなどこか困ったような顔の表情をいぶかしく見る。
「白乃ちゃん……僕、みた……見たんだよ」
「見た?」
どういう意味かと思い鸚鵡返しに尋ねる。そして、雨澤さんが発したのは。
「トールが君に……白乃ちゃんに変身していく様を」
彼の言葉にボクは不自然にひきつった笑みのまま止まらざる得なかった。
バサリとデニムシャツの入った袋が落ちた音が聞こえた。
Ⅲ
「すみませんでした」
俺は赤崎さんに謝る。椅子に座らされて事の経緯を説明していた。
「いや……今までもこういった事例がなかったわけでは無い。気にするな」
「……はい」
赤崎さんの言うとおり世界各地に展開しているミッドガルドにおいて変身がばれた事例は存在していた。今回もその事例の1つにすぎない。しかし、まさかそれが自分たちの身に降りかかるとは。
白乃とは俺が半ば無理やり入れ代わった。あいつの事だ。責任に押しつぶさせたくはない。
「彼は?」
俺は尋ねる。今、ここはミッドガルドの基地。動揺する白乃を落ち着かせミッドガルドに連絡……そして雨澤さんをここまで連れてきた。余計な詮索をせずに黙ってついてきてくれた彼には感謝している。
「今、職員の者が説明と外部へ情報を漏らさぬように頼んでいる最中だ」
「……もし、承諾しなければ?」
「彼には悪いがここに軟禁することになる」
そんなことは無いとは思うが一応聞いておく。
(どうしよ……)
―――大丈夫だ。あの人なら素直に納得してくれるさ。
(だとしても……折角誘ってくれたのに……最後には)
―――悪いのはラグナロクだ。白乃は悪くない。
(確認を怠ったのはボクだよ)
―――俺も注意するよう言っておくべきだった。
白乃を励ましながら時間が過ぎるのを待つ。数十分後……疲れがピークに達していた体が眠気をアピールしてくる。それを唇を噛んで耐える。
「赤崎副所長。雨澤氏をお連れしました」
「ああ。ありがとう」
職員の男性が扉を開ける。その音に反応して俺も後ろを向く。
―――白乃、代われるか?
(……うん)
返事を聞いて白乃と入れ代わる。無理そうなら俺が代わりに白乃を演じるつもりだったが……大丈夫だろう。
職員の後ろから姿を表した雨澤さんが辺りを確認するように恐る恐る入室してきた。そして俺……というか白乃を見つけるやいなやホッとした表情を見せる。
「失礼します」
一礼して職員が去っていく。それを見てから白乃は立ち上がって雨澤さんに向かって思いっきり頭を下げた。
「ごめんなさい!!変なことに巻き込んで」
「あっ、いや……僕は別に。気にしないで」
それに対して笑いながら宥める雨澤さん。そのやり取りを見てから赤崎さんは喋り出す。
「雨澤雪兎さんですね」
「あっ、はい」
「私はミッドガルドの副所長の赤崎恵美。この度は職員のミスによりあなたに迷惑をかけたことをここに謝罪いたします。申し訳ありませんでした」
「あっ、あ……いや、その。頭をあげてください」
困ったように声をあげる雨澤さん。
「ありがとうございます」
また軽く一礼してから体を正す赤崎さん―――いや、副所長。
「先程職員の者からお話があったとは思いますが、ここでのことは外部には」
「はい。漏らすなんてことは致しませんよ」
「ご協力、感謝致します」
また軽く頭を下げる。
そのまま2、3必要事項を告げて口止め料としてある程度のお金が入った封筒を渡され雨澤さんは職員に連れられて外に出た。まるで流れるような動作だった。
「ふう……物わかりのいい青年で助かった」
赤崎さんが息をつきながら呟く。
「はい」
「君も送ろう。夜も遅い」
「……ありがとうございます」
白乃はふらりと立ち上がりミッドガルドを出る。デニムシャツの入った袋が妙に邪魔に感じさせる。
厄介なことになったな。
俺は胸中で呟いてこれから先のことを考え始めた。
白乃が立ち去る姿を見送りながら恵美はため息をついて先ほどまで白乃の座っていた席につく。
既にこのミッドガルドの所長である二宮博士には連絡済みだが経営や対外関係などは副所長である恵美に一任されているのでなにもしてくれはしないだろう。
「ミッドガルド事態には問題がないが……」
持ってきたノートパソコンで今回の事例の報告書を打ち始める恵美。
雪兎との書類を通して契約で情報漏えいは防がれているが白乃個人の問題は別だ。
白乃は誰かに認められることによって心のバランスを保っている節がある。それは彼女らから聞いた過去の話からすると当たり前のようにも感じさせる。
それが今回の事で白乃は誰かに大きく迷惑をかけたと思うかもしれない。それだけが心配だった。
報告書作成の手を一時止めて白乃のカルテを開く。
ズラリと並べられる彼女の精神状態。ミッドガルドの戦闘員となり必要とされない存在から必要とされる存在に変わり大きく変わったのは明白。
しかし、それは謂わばトラウマの反転でしかなかった。
誰かに迷惑をかけることが嫌いな彼女。誰かに認められるというのは迷惑の正反対に位置する。後ろ向きなトラウマが前向きなトラウマに変わったに過ぎない。根本的に迷惑をかける行為を容認出来るようになったわけではないのだ。
この見解を白乃が眠っているときに黒哉に伝えていた。
妹思いの彼ならば白乃をフォローするだろうとは推測できていた。
「迷惑か……」
人は誰かに迷惑をかけなければ生きていけない。それは私が身をもって経験している。もし、あんなことがなければ白乃がこうなることは無かったのでは?いや、だとしたら白乃と関わる機会が無くなる。それは白乃の精神治療に関わらない事となる。だから結局は……。
そこまで考え恵美は頭を降る。過去の事象にifはない。タイムマシンでも開発されれば話は別だが相対性理論では過去に戻ることはあり得ないとされている。もちろん、相対性理論が間違っていないなんて言い切れる保証は無いが恵美からみても相対性理論の計算式は美しいものに思えて仕方がない。
大切なのは過去じゃない。未来だ。そして未来に繋がる今だ。
カルテを直して報告書作成に勤しむ。
現状打破出来る手段を今は持っていない。白乃本人、黒哉やご両親、そして雨澤雪兎の協力が必要不可欠だろう……恵美が導きだした結論はこうだった。
ミッドガルドを出た雪兎はまだ少し現実ばなれした気持ちを感じていた。
そもそも自分の20年と少しの常識を破るラグナロクという存在。運よく雪兎はラグナロクと出会っていなかったがその非日常の存在に不謹慎ながら心を踊らせた。
もちろん最初からそうだったわけじゃない。ラグナロクが初めて現れ、自衛隊による砲撃、アメリカ空軍による空爆でも耐えたケルベロスという名のラグナロクには畏怖を示した。ケルベロスは連合国による攻撃で倒したが半月にわたる戦いに雪兎は世界の終わりを感じていた。
しかもそれだけではない。ケルベロスに続くラグナロクとしてヘルやヨルムンガルドと呼ばれる化け物も現れた。
これからもラグナロクが現れれば連合国による攻撃で沈静化させるがそのたびに人は死に、政治家は責任を押し付け合うだろう。
雪兎は―――世界の人々は悲観していつ死ぬか分からずに怯える日々を過ごしていた。そんなときに颯爽に現れたのはミッドガルドの戦闘員だった。
世界がやっけになって戦っていた敵をものの数分で倒したのだ。犠牲も今までに比べ大分少ない。
その様はアニメやドラマのような非現実だった。現実ではありえないヒーローがいたのだ。だが、それと同時にこれはやはり画面を通した存在でもあるのだ。
存在する芸能人や著名人に実際問題どれだけ会えるだろうか?それらにあこがれを抱くのと同じ。結局は雲の上の存在なのだ。その存在が目の前にいたことに興奮を覚えないわけではなかった。
「あの……白乃ちゃん―――灰垣白乃さんについて聞いてもいいですか?」
雪兎が乗る車を運転するミッドガルド職員は少し考えた後口を開く。
「私が答えられる範囲ならお答え差し上げられます」
「ありがとうございます」
少し考えてから口を開く。
「灰垣さんは灰のトール……なんですよね?」
「……そうです。御存知かもしれませんが彼女は約1年と3ヶ月前からメンバーとなりました。それにより現状の現役日本の戦闘員色は4人となりました」
「カラー?」
「ああ。カラーというのは私どもが使っている隠語のひとつのようなものでミッドガルド戦闘員の事を指します。といっても、普段は戦闘員というのがベターになってきておりすが」
カラーという名を使うのは、私のようなミッドガルド創設期からいて言葉の変化についていけない、頭の固い人間だけですと付け加え小さく笑った。
「なるほど……では、灰垣さんがトールであることはご家族は知っているんですか?」
「どうしてその様な事をお知りになりたいと?」
「ああ、いや……邪な考えはありませんよ。ただ、気になっただけです。それに、灰垣さん宅とは交流が少なからずあるので誤って知っているものと勘違いし、ポロリと言ってはいけないなと思いまして」
「なるほど……私も全て把握しているわけではありませんが、規定で少なくともカラーの両親、それにいれば兄弟や夫、子どもへは開示するようにしております。それ以外の親戚への開示につきましてはカラーの家族で話し合われ開示したいとしるされ、ミッドガルドでそれが認められれば、となります。ですので私は灰垣を担当しておりませんので確実に言えるのは両親は知っているということだけですね」
そういえば彼は自分を戦闘員管理部門の人間だと自己紹介していたことを雪兎は思いだした。担当というのは恐らく戦闘員の体調等を気遣う人のことだろうと推測できる。その担当までは、恐らく教えてくれないだろうし聞くきも雪兎には無い。
ただし、少し気になることが雪兎にあった。
「少なくとも両親はって……灰垣さん、双子の兄がいましたよね?彼には黙っているということですか?」
「えっ?何を言って……知らないはずが無いでしょ?」
食い違う話。それもそうだ。雪兎はあくまでも灰垣白乃と灰垣黒哉は普通の双子だと思っている。しかし、いくら担当が違うとはいえ白乃らの特異体質を知らぬ人間などミッドガルド日本基地にはいない。彼は白乃と黒哉は2人で1人だと知っているのだ。そして、彼が勘違いをしていたことも話の食い違いを加速させている。
雪兎は灰垣白乃、黒哉の特異体質を理解していると思い込んでいるのだ。少なからず灰垣家と交流があるという言葉のせいで。
「……白乃ちゃんの秘密が全て黒哉くんに流れるわけではないんじゃ」
雪兎はなんとか彼の言葉を組み立て納得いく解釈をしようとする。雪兎が考えたのは双子だから秘密を作れないと彼か思い込んでいるというものだった。その解釈がさらなる誤解をうむ。
「いやぁ……どうなんですかね?秘密にするのは難しいんじゃないですか。だって、2人で1つの体を使ってるんですから」
「えっ……?」
彼がこれらの言葉が失言だと気づくのはポカンとした表情を浮かべる雪兎をバックミラー越しに見た数秒後だった。
白乃がぐったりとしているのを感じてまた俺が代わりに表にでる。その瞬間のしかかったのはなんとも言えない不快な感覚―――ストレスだ。俺は精神的にはそこまで感じていなかったが白乃は感じていたらしいことはこの体が表している。
理由は分からないがなぜかむしゃくしゃするような感覚といえば分かりやすいのではないのか。
気持ちを押し静めようと大きく身を沈める。車の振動に少し身を任せてみた。
―――白乃?
こんなストレスを心身ともに感じていた白乃が心配になる。久しぶりに感じる……この感じは。
(ごめんね……黒哉。みんなにも迷惑かけたかな)
―――そんなことはない。あれは事故だ。始末書の1枚2枚は書くことになるかもしれないが……その程度だ。
(でも……)
―――気にするな。もう今日は寝とけ。
(でもっ)
―――いいから。なっ?
(……わかった)
白乃が答えると胸の内に消える。何度も経験しているはずなのになぜか白乃がどこかにいなくなってしまうような錯覚を受けた。
しばらくすると体のストレスは減っていき、明らかに害を及ぼすほどでなくなった頃には家についていた。
俺は送ってくれた礼を述べる。
「ありがとうございました」
「気にするな。今は黒哉君だろ?」
「えっ……あっ、はい。よくわかりましたね」
「君がウチに来てすぐ俺が担当になったんだ。分かって当然だ」
そういってニヒルに笑う南野さん。必然的に会う博士、先生、他の戦闘員メンバーを除くと一番関わっているミッドガルドの人かもしれない。
「それと、白乃ちゃんは眠ってるんだろう?というか、黒哉君が眠らせたんだろ?」
「どうしてそれを」
少し驚く。まさかそこまで言い当てられるなんて。
「実は俺、エスパーなんだよ」
「ふざけないで下さいよ」
「ははっ、まっ、何となく黒哉君ならそうすると思っただけだ。正直当てずっぽう」
「なんだ……でも、正解です。白乃は俺が眠るよういいました」
「だろうね。黒哉君らしい」
「ですかね。それでは」
「ああ。じゃあな」
俺は車を見送って一息つき鍵をあける。
「ただいま」
「おかえり……黒哉ね」
「うん」
車の音が聞こえていたのか母さんが俺を出迎えてくれた。
母さんたちには今回の件についてはすでに連絡をしていた。心配そうに母さんが俺を見る。
「白乃は?」
「眠ってる」
「そう……。黒哉は大丈夫そうね」
「まあ……俺は別に何ともないし」
ちらりと時計を見ると11時。結構長い間ミッドガルドに拘束されていたらしい。そんな風に考えている真っ先に飛んできそうな人が来ていないことに気づく。
「あれ?父さんは?」
「アンタから連絡が来てすぐミッドガルドに乗り込みに行きそうだったから私が“眠らせた”」
「あっ、そう」
またフライパンで殴ったのか?俺も白乃を眠らせたとはよく言っているけど……意味が違いすぎる。
「黒哉も今日は寝ちゃいなさい。お風呂は明日朝一にでも入ったらいいわよ」
「わかった」
俺は小さく頷いて階段を上っていく。その途中、メールが届く。こんな時に……と苛立ったが送信者の名を見てその苛立ちが消える。
送ってきたのは雨澤雪兎。彼に対して苛立ちを募らせるのはお門違いだということは理解はしているから苛立ちは無い。ただ、彼が変身現場を見ていなければと思わざるは得ないのだ。
メールを展開する。
「えっ……」
そこに書かれている内容に絶句して携帯を落としそうになった。