15、埠頭を渡る潮風
15、埠頭を渡る潮風
埠頭の夕暮れ・・・
真っ赤な夕日が、幾つものクレーンの黒い陰の間を縫うようにして、ゆっくりと落ちて行く。 数羽のカモメが、鳴きながら、深い瑠璃色となった空を舞っていた。 おだやかな潮風・・・
無機質な、赤錆びたコンテナが、過行く時を見つめている。 パナマ船籍の貨物船が係留され、数字が描かれた、大きな鉄扉のある倉庫群・・・ それらが、ひっそりと肩を寄せ合うようにして建っている。
「 綺麗な夕日・・! 」
桟橋に止めた車から降りながら、あゆみは言った。
「 車で直接、桟橋まで入れるのは、この石炭埠頭だけなんだ 」
幸二も、あゆみに続いて、車から降りながら言った。
潮風に体をゆだね、深呼吸する、あゆみ。幸二を振り返り、尋ねた。
「 ね、どうして夕日って、大きく見えるのかしら? 」
夕日を見ながら、幸二は答えた。
「 昼間見た太陽と、夕方の夕日は、勿論、同じ大きさだよ。 ただ、何も無い天頂にある時と、周りの景色がある夕日の時とでは、大きさを比べられるだけ、夕日の方が大きく感じられるんだ 」
「 ふう~ん・・・ 」
「 ・・現実的な説明で、ごめん。 何か、全然、ムード無いよね? 」
あゆみは、微笑みながら答えた。
「 ううん・・ 真面目な、幸二さんらしいわ 」
あゆみの肩を抱き寄せる、幸二。 あゆみもまた、幸二の腕を掴み、寄り添った。 夕日は、更に赤みを増し、2人を照らす。
あゆみが言った。
「 ・・・幸せ・・・ 」
幸二の顔を見上げる、あゆみ。 幸二も、あゆみを見つめ、答えた。
「 僕もさ・・! こうしていられる時間の為にだったら・・ 僕は、どんな辛い事だって我慢出来る 」
じっと幸二を見つめる、あゆみの目。 あゆみの事だ・・ こんな歯の浮くセリフを言うと、いつも恥ずかしがって、顔を真っ赤にしてしまう。 きっと、今も、そのはずだろう。 だが、赤い夕日の為に、今は、それを確認する事は出来なかった。
「 ・・・嬉しい・・・ 」
一言そう言うと、あゆみは、幸二の胸に顔を埋めた。 優しく、あゆみの肩を抱く、幸二。
カモメが1羽、鳴きながら頭上を横切って行く。 工場の屋根に、半分ほど沈んだ夕日・・・
あゆみは、言った。
「 キスして、幸二さん・・・ 」
潮風になびく、少し伸びた髪をやさしく押さえながら、幸二は、つぼみのような、あゆみの唇にキスをした。
幸二は、幸せだった。
手にする事が出来ないと思っていた宝石・・・ あゆみという、掛け替えの無い宝石が、いま、自分の腕の中にいる。
夢では無いのだ。 探し続け、憧れ続けていたぬくもりが今、自分の中にある。 いつでも、その笑顔に触れ、その声に答える事が出来る。 少し手を伸ばせば、やわらかなその腕は、いつでも自分を慕って来る・・・
幸二は、幸せだった。
あゆみが言った。
「 学生時代の、講師の先生が言ってたわ。『 恋は、憧れと情熱。 愛は、信頼と絆 』だって・・ 」
潮風になびく、あゆみの前髪。 幸二は、その髪を指先で梳きながら言った。
「 随分と、ロマンチストな人なんだね、その講師の人 」
あゆみは、笑いながら答えた。
「 大学では、フランス文学を専攻していたんですって。 いつも、詩集を持っていてね。 詩を、幾つも聞かせてくれたの。 女性講師の人だったけど、ロスから来た外人講師の人と結婚して、アメリカへ行っちゃった。 今は、シアトルに住んでるわ 」
「 ふう~ん・・ 」
あゆみは、続けて言った。
「 今、先生が言ってたコト、凄く理解出来る・・ 」
足元の岸壁に、小さく打ち寄せる波の音。 その波が続く、港の外の海。
あゆみが続けた。
「 この海の続く、遥か向こうに、先生はいるのね・・ 」
外洋に目をやる、あゆみ。
夕日は、すっかり落ち、辺りには夕闇が迫って来ていた。 港入り口の海面が、薄明るい色に輝いている。 その向こうの外洋・・・ 暮れ残った空の色に反射し、空と水平線が同化している。 遠くに、貨物船の陰と、マストの先の明かり・・・
あゆみは、それらの景色を見つめながら、呟くように言った。
「 先生・・・ 私は、信頼と絆を見つけました。 これが、幸二さんです。 見えますか・・・? 」
幸二は、あゆみを抱き締めた。 あゆみもまた、幸二の胸に顔を埋める。
幸二は言った。
「 その信頼に・・ 僕は、どのくらい応えているのか分からない。 だけど、世界中で一番、誰よりも君を愛している・・! たとえ君が、不自由な体になっても・・ 僕は、君を愛し続ける・・! 世界中を敵にまわしても・・ 君が、僕を見つめ続けてくれる限り、絶対に、僕の方から君を離したりはしない・・! 」
あゆみは、無言で、幸二の背中に手を回し、その大きな背中を抱き締めた。 あゆみの肩が、小さく震えている。 その震えを止めるかのように、幸二は、やさしく、強く、あゆみを抱き締めた。
あゆみが、小さく言った。
「 ・・幸二さん、日なたの匂いがする・・! 私の、幸二さん・・! 」
いつも、屋外で仕事をしているからなのかもしれない。 だが、幸二は嬉しかった。 日陰者から、日なた者へ・・・
まともな人間に・・ あゆみを愛するに、相応しい人間になれたような気が、幸二には思えた。 あゆみもまた、干した布団のような、ほっとする幸二の匂いを、気に入っているようである。
あゆみの何気ない言葉に、救われたような気持ちを覚える、幸二であった。
係留されている貨物船に、明かりが灯される。 海から渡って来る潮風が、心地良い。 抱き合ったままの2人に、夕暮れは止まったようにやさしい時を投げ掛ける。
幸二は、あゆみの髪に埋めていた顔を上げ、少し間を置くと、あゆみに言った。
「 ・・君に、渡したいものがある。 受け取ってくれるかい・・? 」
幸二の胸の中から、ゆっくりと顔を起こす、あゆみ。 しばらく幸二を見つめた後、小さく笑いながら言った。
「 私に・・ 幸二さんの受け入れを、拒む理由があります? 」
幸二は、ズボンのポケットから、小さな箱を取り出した。
フタを開け、幸二は言った。
「 ・・結婚しよう・・! 」
幸二を見ていた、あゆみの表情が、ぱあっと明るくなる。
「 安物だけど・・・ 」
エンゲージリングを、手に取って見せる幸二。 小さな、あゆみの手を取ると、そのやわらかな指先にリングをはめた。 あゆみは、じっと、幸二の目を見つめたままだ。
はめ終わり、幸二は、あゆみの顔を見て言った。
「 ・・サイズ、ピッタリだよ? 」
幸二を見つめたまま、ポロポロと大粒の涙をこぼす、あゆみ。 初めて、自分の手を顔の前に立て、はめられたリングを見つめる。
「 ・・・・・ 」
少し、手を回しながら、リングを何度も見直す、あゆみ。
「 ・・私・・ 幸二さんの、お嫁さんになれるの・・? ホント? ホントなのね・・! 」
あゆみは、更に、涙をこぼした。 幸二は、指先で、その雫を拭きながら言った。
「 新婚旅行は、あのボロ車で国内だよ? ごめんね 」
何も言わず、再び、幸二の胸に顔を埋める、あゆみ。 幸二もまた、あゆみを抱き締めた。
あゆみが言った。
「 ・・この指輪・・ 幸二さんに、はめてもらった指輪・・ 私、一生・・自分じゃ、外さないから・・! 結婚指輪にする時も・・ 幸二さんがしてくれなきゃ、ヤだからね・・! 」
幸二は、指輪を確認するあゆみの指の動きを、背中に感じていた。
あゆみの頭をやさしく撫でながら、幸二は言った。
「 いつも、一緒さ・・! 」
すっかり暮れた、埠頭の桟橋・・・ 幸二とあゆみは、いつまでも抱き合っていた。
穏やかに、そして優しく渡る、埠頭の潮風。
外国航路の貨物船が、汽笛を鳴らした。 港に響き渡る汽笛は、2人を包む帷と相まって、どこまでも遠く響いていった。 2人の、ささやかな幸せを、祝福するように・・・