二章 (3/5 )
昼休み、学食の味噌ラーメンを食べながら考える。今日一日、異常に視線を感じた気がした。廊下で上級生の不良にメンチは切られるわ、通り過ぎに面識のない女子生徒がクスクス笑うわ。おかしい、明らかにおかしい。俺の悪い噂(※真実)を広げている奴がいる。
眼前では斎藤がひとつ向こう側のテーブルに振り返り、しきり誰かと話している。俺は体を硬直させたまま、斎藤の背中の向こう側を透視しようと試みる。しばらくして斎藤の背中が横に傾き、向こう側の景色が開けた。
お…女じゃねえかああ。斎藤が楽しそうに会話をする相手は驚くことにも、女子生徒だった。残念ながら食堂のおばちゃんではない。
こいつこんな積極的だったのかよ…。無表情で斎藤の背中を睨む。見覚えのある顔。うちのクラスの生徒だ。
七三に白いメッシュの入った明るいブラウンの、鎖骨まで伸びたセミロング。健康そうな明褐色の肌。肘までたくし上げたブラウスの白い袖からスラリと伸びた腕の手首にはフリルの付いた黒と白のシュシュがまかれている。
しばらく二人の笑い声がして斎藤がポケットから携帯を取り出す。え、もしかしてこいつナンパしてんのか?斎藤のくせに?心の中で更に毒づいていると、不意にその女子生徒と目が合う。口に手を当てながら目を細めて笑う女子生徒。え、こいつにもまさか既に俺の噂が?いや、待て。違う。誤解なんだ。
「よ!新入部員君」
突然、背中を押されて前歯が丼の淵に当たる。後ろを振り返ると、松島先輩と吉川先輩、それにもう一人、サッカー部三年のセンターバック、島田先輩が立っていた。
「何それ、喧嘩上等?」
松島先輩が爽やかに微笑んで、俺の背中を指さす。思わず「え?」と聞き返した。
「このステッカー、いたずらで誰かに貼られたんじゃない?」
吉川先輩が俺の背中から何かを剥がして、手渡される。喧嘩上等!、そう黒字で印刷されたステッカーだ。フーっと一呼吸置く。福山…あいつ、あの時、朝に挨拶した時だ。くそ、やられたー!もうあいつは心の中じゃあ福山先輩って呼ばないわ。ただの福山だ!あの野郎…。
「え、何それ、自分で貼ったんじゃないの?」
斎藤がおどけたような無垢な表情で問いかてくる。お前、んな訳ねえだろ。気づいてたんなら最初っからいえ。斎藤のアホさにあきれながらも、実は内心ホッとしたりもした。とりあえず今朝の登校中のことではなかったのか。
松嶋先輩たちと別れたあと、「悪い悪い、気付かんかった」と全く悪びれる様子のない斎藤に侮蔑の視線を送りながら、味噌ラーメンを完食する。(※斎藤は何も悪くないです)
カウンターに食器を戻し、席を立って教室に戻ろうとすると「あ、ちょっと待って」と後方から女子生徒の声がした。反射的に振り返ると、ついさっき斎藤がナンパしていた女子生徒がこちらを見据えている。
「キョンちゃんでしょ?」
口元を抑えて細目で微笑む彼女をまじまじと眺める。その呼び方をされるのは何年ぶりだろうか。たしかあれは…目を伏せて思考を張り巡らせる。そして幼い頃の記憶に見た微かな光景に、ふと目の前の生徒が重なった。
「え、もしかしてあっちゃん?」
常時ポーカーフェイスのはずの俺の口元がついほころぶ。本当に懐かしい…。たしか親同士の親交が深くて、物心ついた頃にはよく一緒に遊んでいた女の子。百瀬ありす。彼女が小学3年生の時に隣町に引っ越してからは、会う機会が無くてすっかり忘れていた。
「あーやっぱりキョンちゃんだあー。印象変わったから驚いたよー」
口元に手をあてながら細目で微笑む独特の笑い方。小学一年生の頃、笑うとえくぼが出来ることを男子の同級生たちにからかわれ、それから笑う時は口元に手をあてる癖がついた。笑った時に出来る涙袋がアリスの優しさを思い起こさせる。
「懐かしいねー、元気だった?」
俺はそう口に出して、ハッと口をつぐむ。いつもは低めのクールボイスで統一している俺だが、あまりの懐かしさに幼い頃のような高い声に戻ってしまった。
「あ、あの声やっぱりかっこつけてたんだあー」
独特の母音を伸ばす喋り方も相変わらずだ。本当に懐かしい。見た目はちょっと派手になったが、中身はあの頃のアリスのままだ。いや待て、今のはちょっと失礼じゃないかな…。
「あ、そうだ」
拳で手のひらを打って思い立ったようにアリスが席を立つ。ポケットから可愛らしい黒猫のストラップが付いた特徴的なケータイを取り出した。
「メアド教えてよ」
そう言って小首を傾げたアリスをじっと見つめ、何故かモヤモヤした感覚が心臓の辺りを駆け巡った。アリスがタッチパネル式のケータイを手に取り、俺も反射的にポケットからケータイを取り出す。俺のケータイを手に取ると、アリスは手馴れた手つきで赤外線通信を使ってアドレスを交換した。
「あ、私、用事あるからさー。またね」
二三分ほど他愛ない話をした後、「またね」と返して踵を返す。またもや甘えたような声になってしまった。表情を引き締めて前を見据える。幸い誰も気にしていないようだったが、少なくとも俺は気にする。
「マジかよー。なんでお前だけアドレス貰えんだよー」
斎藤が珍しく不愉快な顔で不平を嘆く。
「え、つかお前、メアド訊いてたじゃん」
「ん、訊こうと思ったけど勇気がなかったし。でもやっぱり百瀬だったかー。ま、俺はすぐ気づいたけどね。」
そうですか…。後で百瀬に聞いといてやるよ、と言うと斎藤は「マジでー!さすがキョンちゃん!」と調子に乗ったので、前言撤回した。斎藤は「あ、嘘です。嘘でした。すみません。関根様」と従順になったので、二度目はないぞ、としっかり忠告して許してやった。
放課後のホームルームを終え、通学鞄に今日貰った教材を詰めていると、アリスが音をたてない歩き方でしずしず近づいてきた。丸見えだけど。既にクラスのほとんどは帰宅している。
「やっほー」
あの独特の笑みで小首を傾げるありさ。アリスが後ろ手にしていた右手を差し出すと、細くて長い指の間に青い紙切れが挟まっている。
「はいこれえー、うちの今の住所。知らなかったでしょ?」
アリスの手から受け取ったピンク色のハートシールが貼られたメッセージカードには家の住所が書いてある。同じ市内の隣町だ。うちの高校から割と近いところにある一軒家のようだ。
「おお、ありがと」斎藤が見ている手前、いつも通りのクールボイスで答える。横目でちらりと見ると、斎藤が沈黙しながら殺意を込めた眼差しでこちらのやりとりを傍観している。
「あ、そうだ」
アリスがハッとして目を見開き唇から微かに並びの良い白い歯がのぞく。
「キョンちゃんさあ」
そういってアリスは独特の微笑みを浮かべた。
「今日って、もしかして暇?」
今日は水曜日だが、幸い部活は休みだ。理由は、月一のグラウンドの清掃日で部活ができないから。俺が「うん」と小さく頷くのを見ると、斎藤はフンと鼻を鳴らして「じゃあ、俺先に帰るねー。じゃあねー、キョンちゃーん」とふてくされながら足早に教室を出ていってしまった。生意気な奴だ。
「今日行きたいとこあるんだけど…、付き合ってくれない?」そう続けたアリスの提案を断る理由は見つからなかった。
二人で昔話に花を咲かせながら玄関口を出ると、「お、京介君発見っ」という透き通った声と共に宮木が一人で立っていた。「あのさー」と話しかけてきた宮木が後方から付いてきたアリスに気付いた。
「あれ、お邪魔だった?」
宮木がキョトンとした顔で小首を傾げる。心臓がドキッとした。何度も見ていたはずなのに、以前よりこの仕草にモヤモヤする。
「キョンちゃん、どうしたの?」
そんなアリスの質問が聞こえなかったように宮木は続ける。
「今日は用事あったんだけど、雪ちゃんが先に帰っちゃったから京介君に付き合ってもらおうと思ったんだ…でもまあいいわ、一人でも行けるしっ」
宮木は凛とした声で一方的に言い放つと、「いや、ちが、これは…」と口篭る俺をしっかり無視した
「また明日ねー。キョンちゃーん」と去り際に一言残して…。
下駄箱から響く不特定多数の生徒たちのざわめきに混ざって、「マジかよー」という斎藤のウザイ声が、雲ひとつない晴天を成層圏まで突き抜けた気がした。