二章 (2/5)
「ある一人の人間のそばにいると、他の人間の存在など全く問題でなくなることがある。それが恋というものである。-ツルゲーネフ」
「ああああああー!ああー!ああああああああああああああ!あああああああああー…!」
水面を撫でるように吹き抜ける涼しい風が、まるで細い針のように全身を突き刺しながら通り抜けていく。細い砂利道にバランスを崩され、車輪はガタガタと威勢を放ちながら回転速度を増す。
飼い主のリードに引っ張られた柴犬が小刻みに飛びかかるようにジャンプしながら吠える。俺が犬の挑戦を受けると、互いの視線は更に白熱した火花を散らす。
「あああああああああああー!あああああああああああああああー…!」
栗毛で強気な顔の柴犬にメンチを切る。それでも叫び声は絶やさず、ペダルをこぐピッチを上げながらリードを引っ張る飼い主の横を全速力で駆け抜ける。一瞬、目の端に不愉快な表情の人が映り込んだ気もしたが、きっと気のせいだろう。
10メートルほど離れたところで、犬が「キャンっ」と最後に小さく吠えた。俺は勝利の優越に浸りながら尚も叫び続ける。川岸の白く霞んだ視界。俺はためらいなく全力でペダルをこぎ進んだ。
…まあ待て、ちょっと落ち着こう。一旦落ち着こう。教室のドアの手前の廊下で立ち竦む俺。さっきトイレの個室で10分程過ごしたが、冷静に考えてみろ。
え、俺さっき何やった?なんか叫んでたんじゃね?ダサくね?キモくね?始業二日目だぞ。誰かに見られてたらどうすんだこれ。いや、ない、ありえないわ。だって川岸には誰も同級生はいなかったし。大丈夫、絶対大丈夫、問題ない。
あれでもちょっと待て。大丈夫だなのかこれ。いやでも大丈夫でしょ。見られてない。絶対見られてない。いやでも仮に見られてたとして、教室入った瞬間にクスクス忍び笑いみたいなの来たらどうするんだこれ。無視するか?いや待て。俺は元来、心配症だしな。大丈夫だって。見られてないぞ俺。問題ない。元気出してこ!
教室のドアに手をかけたところで、不意に後ろからポンと肩を叩かれた。福山先輩が爽やかな笑みで「よう、関根」と言った。
二年二組の福山浩司。サッカー部の先輩、ポジションはレフトハーフ。昨日覚えた知識を思い出しながら微笑み返す。なんか新鮮な感覚だ。高校に入学したばかりで、先輩に知り合いがいるのは何かと心強ものがある。通り過ぎていく福山先輩の後ろ姿を見送って覚悟を決める。どうせ見られてない、大丈夫だろ。
突飛で奇怪な行動に走ってしまった今朝の俺を恨みながら、ガラガラと教室のドアをスライドする。
「おっはよう!関根ー!」
教室に入った瞬間、朝っぱらから相変わらずウザイニヤけ顔の斎藤がウザイ声で叫ぶ。教室にはまだ10人程度しかいないな、と横目で確認する。
「おう、おはよ」
得意のポーカーフェイスを気取りながら、席に着く。にしてもこいつの後ろとは…。ったく、ウザイ席を引き当てたもんだぜ。
そういえばよ、と前置きして斎藤が切り出す。
「お前、朝から気合入ってるよな」
斎藤はそう言うと、おぞましいくらい無垢な表情でニカッと笑った。俺の意識が遠のく。え、ちょっと何言ってるか分かりません。ボーッとした頭で言葉の趣旨を探していると、斎藤は相変わらず気持ち悪いニヤニヤした顔つきで俺の肩を叩く。
「わかってるって。入学したてでちょっとテンション上がっちゃっただけだろ」
「いや、ちが」と口篭る俺に「あ、トイレ!」と無駄にでかい声で叫んで、斎藤は教室を出た。別に聞いてねーよ。無性に心細くなってしまった俺は、その場から立ち去ることもできずに呆然とする。
後方から、小さくクスクスという笑い声が漏れた。女子だ…。よりによって、俺のバラ色の高校生活がたった二日で閉幕の危機に瀕するとは。打開策も見つからず、ただただ恥ずかしい思いに身を揺さぶられながら俺は机に突っ伏す。死にたい…。