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火曜日の人         :約4500文字

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/08/30

「あのー……」


「えっ」


 ふと足音が近づいてくるのに気づき、顔を上げた瞬間だった。背中を丸めた一人の男が、おずおずと声をかけてきた。


「すみません。火曜日の人ですよね?」


「……火曜日の人?」


「あ、ああ。あの、いつも火曜日にこの公園に来られていますよね?」


「え、あー……んー?」


 おれは首を傾げ、それから周囲を見回した。

 この公園を見つけたのは先月の夜だった。仕事帰りに、いつもとは違う道を歩いてみた。その日は仕事でそこそこ大きなミスをしてしまい、まっすぐ家に帰る気分になれなかったのだ。

 小さな公園で遊具はなく、古びたベンチが一台ぽつんと置かれているだけ。周囲は背の高い雑草の伸びた空き地と、空き家らしき古びた家屋に囲まれている。街灯の光はかすかにしか届かず、人の姿はなかった。一応住宅街の中にあるというのに、そこだけ周囲から切り離されたかのようにしんと静まり返っていた。

 おれはベンチに腰を下ろし、煙草を吸い始めた。しばらくぼんやり夜空を眺めているうちに、張り詰めていた気持ちが少しずつほどけていき、帰る頃には『なんだ、いい場所を見つけたな』と、ほんの少し得したような気分になっていた。


「ほら、今日も火曜日ですし」


「あー……」


 思いのほか気に入り、それ以来、確かにたまに立ち寄るようになった。とはいえ、自分が何曜日に来ているかなど意識したことがなかった。

 おれは眉を寄せ、もう一度首を傾げた。


「来ているんですよ」


「あー……じゃあ、まあ、はい」


 男がずいと顔を近づけてきたので、おれはついそう答えた。 


「どうも。わたくし、金曜日の人です」


 男はぴしっと背筋を伸ばし、やけに誇らしげな顔でそう言った。


「金曜日の人……?」


「ええ。いつも金曜日にこのベンチに座っているんですよ」


「あー、そういうことですか」


 そう返してみたものの、やはり意味はよくわからず、おれは小さく首を傾げた。

 男はそんなおれの戸惑いを気にする様子もなく、満足げに何度も頷いた。


「いやー、いい場所ですよね、ここ。静かで。周りは空き家と空き地ですもんね。店も一軒ありますけど、この時間にはもう閉まっていますからね。これくらいの声の大きさで話す分には、誰にも気兼ねしなくていいでしょう。私なんか、たまに歌を歌ったりするんですよ。あ、別に歌手を目指しているわけじゃないですよ。まあ、昔はそういう夢を見ていた時期もありましたけどね。といっても、特に何かしていたわけではありませんけど。ははは。でも、あの頃はよく一人でカラオケに行っていました。今でもたまに行きますけど、さすがにあの頃ほどの頻度ではないですねえ。ストレス解消にいいんですよ。それに案外運動にもなるんじゃないかな? ほら、歌い終わったあと、画面に消費カロリーが表示されるでしょう。いや、歌うのってあれで結構エネルギーを使うものなんですねえ。確かに店を出る頃には疲れを感じますもんね。うん。あれはれっきとした運動です。まあ、帰りにはだいたいラーメンを食べるので、結局はプラマイゼロになるんですかねえ」


 男はきょろきょろとあたりを見回していたかと思えば、胸を張ったり、腕を組んだりと忙しなく動きながら喋り続けた。


「あのー……それで、何か用ですか?」


 一向に話が終わる気配がなかったので、おれはたまらず口を挟んだ。すると男は「あっ」と小さく声を上げ、照れくさそうに笑った。


「すみません。つい喋りすぎてしまって」


「いえ、まあ、はい」


「いや、実は一つご相談がありまして……」


「相談……」


 先ほどまでの軽い調子から一転、男は真剣な表情になった。

 ただならぬ雰囲気を感じたおれは座り直し、わずかに身構えた。


「その……火曜日を譲っていただけないでしょうか」


「え、火曜日を譲る?」


「はい」と男は神妙な顔で頷いた。


「いやー、実はですね。もともと火曜日の人がいたんですよ。でもその方、インフルエンザで休んでしまいまして」


「いや、休むって……」


「そこへあなたが割り込む形になってしまったんですよ。それで、かわいそうに思った水曜日の人が――」


「水曜日の人!?」


「ええ。水曜日の人が自分の曜日を譲って、代わりに空いていた日曜日の人になったんですよ」


「日曜日の人って……休日にわざわざここへ来るってことですか?」


「ええ、日曜日の人ですからね。当然でしょう」


「は、はあ……」


 どういう理屈なのか理解できず、おれはただ息を漏らした。さっきから何の話をしているのか、まるで飲み込めない。この男、頭がいかれているのか。


「え、じゃあ、月曜日の人や木曜日の人もいるってことですか?」


 ふと疑問に思い、おれはそう訊ねた。


「もちろんです。当たり前じゃないですか! はははは!」


 男は大きく背中を反らし、声を張り上げて笑った。


「当たり前って……」


 おれは眉をひそめた。だが思い返してみれば確かにこの公園に立ち寄ると、ほぼ毎回誰かがベンチに座っていた気がする。


「え、それで? 火曜日を返せってことですか? いや、火曜日を返すってなんなんだ……」


 おれは頭を掻いた。話を聞けば聞くほどわけがわからなくなっていく。夢でも見ているような気分だった。悪夢寄りの。


「いえいえ! とんでもない! 火曜日はあなたのものです。どうか自信を持ってください!」


 男は首を激しく横に振ったあと、おれの肩をばんばん叩いた。

 おれはその勢いに思わず身を引き、腕を手でぐっと押さえた。危うく手が出るところだった。


「いや……別にいいですよ。返します」


「いや!」


「声でかいな……」


「あなたは火曜日の人です! ……人です!」


「なんで二回言うんですか……というか、人が来ちゃいますよ。『なんか騒いでるな』って」


 近所の家だろうか。どこかで窓が開く音がしたような気がして、おれは声を潜めた。


「あなたは火曜日だ」


「わかりました、わかりましたから……酒でも飲んでいるんですか」


 おれは額を押さえ、ため息をついた。


「ただね……」


「なんですか」


「話は戻りますが、火曜日を譲っていただきたいんですよ」


「は?」


「いや、申し訳ない! 怒る気持ちはよくわかります。火曜日はおれのだ、おれの曜日だ」


「いや、そんな執着心はありませんけど。はあ……結局返せばいいんですね」


 そういえば譲ってほしいとか言っていたが、では今までの話はいったいなんだったのか。もう頭がどうにかなりそうだった。


「いやいや、違います。元火曜日の人は水曜日で満足しているそうですから。実はですね、新たに火曜日の人になりたいという方がいまして」


「なんですか、火曜日の人になりたいって……」


「今度、土曜日の人が引退する予定なんですよ。ですので、あなたに土曜日の人になっていただけないかと。何卒よろしくお願いします。何卒……」


 男は腰を折り、直角になるほど深々と頭を下げた。


「ええ……いや、別にいいですよ。なんとなく来ているだけですし」


「え、よろしいんですか! 本当に!?」


「いや、そんなに驚くことじゃないでしょ」


「でも、せっかく火曜日の人になったのに……ああ、なんて優しい人なんだ! やっぱり木曜日の人が言ったとおりだ。この公園が好きな人だからきっといい人だって。いや、実はね、土曜日の人にも相談してみたんですけど、無理じゃないかなあって言われたんですよ。あれはねー、たぶん嫉妬ですよ。彼、今度遠くへ引っ越すから、それで引退になったんです。本人はたまに通おうかなあ、なんて言ってましたけど、それはちょっとねえ。ははは。あ、元土曜日の人か。これからはあなたが土曜日の人ですもんね。今から慣らしておいたほうがいいですよ。一度、日曜日の人と顔を合わせておくのもいいかもしれませんね。さっき話したとおり、元水曜日の人ですし、この件にも関わりがありますから。少し話しておいたほうがいいかも」


「曜日、曜日うるさいな」


「あ、それと、これからは、わたくし金曜日の人がお隣になりますから、何か困ったことがあったらいつでも相談していいですよ」


「しませんよ……え、隣同士でしか干渉できないルールなんですか? いや、どうでもいいですけど」


「あー、本当にありがとうございます! いやー、頼んでみるものだなあ……断られたらどうしようかと思いましたよ。いよしっ」


 男は身体を反らせ、大げさにガッツポーズをした。おれは深くため息をついた。


「断りませんって。どうせもう二度と来ませんから」


「え! それは困りますよ」


 男は勢いよく振り返り、目を見開いて迫ってきた。


「あなたはもう土曜日の人なんですから」


「土曜日はまた帰宅時間が変わるんですよ。だから来ませんて」


「ダメです。ダメですよ。ダメだダメだ、ダメに決まっているじゃないですか! あなたは土曜日の人なんですよ!? もう、ぜんっぜんわかっていない! なんだったんですか、これまでの話は! 自覚が足りないと思ったんだよなあ! まったくもう! ああ、じゃあもうわかりました! 金曜日をお譲りしましょう!」


「いりませんよ」


「い、いい、いらない? じゃあ、何曜日ならいいんですか! 月曜日ですか!? それとも、ま、まさか、水曜日を狙っているんですか!? 元火曜日の人である彼をまた狙って奪うつもりなのか! な、なんて残酷なんだ!」


「狙ってませんよ。なんだ、狙うって……」


 おれは慄き、尻をこするようにしてベンチの端まで逃げた。だが男は間髪を入れず隣にぴたりと腰を下ろしてきた。


「何曜日がいいか教えてくださいよ。金曜日がダメなんて信じられない! 月曜日ですか? 水曜日ですか? 木曜日? それともやっぱり、そんなに火曜日がいいんですか! あああああああああ! 月曜火曜土曜日曜金曜火曜水曜水曜金曜火曜土曜土曜土曜」


「怖い怖い怖い。通報されちゃいますって。捕まったら曜日も何もないですよ」


 おれはベンチからずり落ちそうになり、慌てて背もたれを掴んで身体を支えた。


「も、もうわかりましたから」


「わ、わかっていただけましたかぁ、あ、あ、あはあ……」


 男は身体を震わせておれの手を両手で握りしめた。おれは顔を歪め、ベンチから立ち上がった。


「ええ、はい。土曜日のこの時間帯にここへ来ればいいんですね。わかりましたよ」


「ありがとうございます! ありがとうございます! ぜひ、おくつろぎになってください! 土曜日の人!」


「はい、はーい」


「ちゃんと来てくださいね……見てますから」


「全然くつろげないじゃないですか」


 すっかり気分が萎えてしまい、もう二度と来たくはなかったが、とりあえず何週間か足を運ぶことにした。もし自宅まで押しかけられて、またあんな調子で迫られたら発狂するに違いないからだ。

 そして、火曜日の夜。

 おれはなんとなく新しい火曜日の人が気になり、仕事帰りにあの公園へ寄ってみた。

 あれだけ大騒ぎしたのだ。一目顔くらいは見てやろうと思ったのだ。場合によっては皮肉の一つでも言ってやろうか――そんなことを考えながら、あの公園の前まで来た。

 すると――おれは思わず息を呑んだ。

 ベンチに座っていたのは、目を疑うほどの美女だったのだ。

 そして、その周りにはあの男――“金曜日の人”がいた。さらに数名の男の姿もある。おそらく、月曜、水曜、木曜、日曜の連中なのだろう。全員、どこか緊張を滲ませながらも嬉しそうな笑みを浮かべて彼女を取り囲んでいた。


 どうやら、曜日感覚は完全に崩壊したらしい。

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