テオの右耳
〈さあらばよ冷茶余せる秋は來ぬ 涙次〉
【ⅰ】
そろそろ秋も彼岸。尾崎一蝶齋は先祖傳來の墓に參つてゐた。(理由あつて* 道場を畳みましたが、私の目の黑い内に必ずや再興致します。暫くのお待ちを)と、尾崎は合掌しつゝ念じた。弟子たちは散りぢりになつたが、師範代の上総情だけは、尾崎に影のやうに寄り添つてゐた。理由を訊くと、「士は二師にまみえず」とだけ答へを返した。
* 当該シリーズ第80話參照。
【ⅱ】
その上総が勤める某大新聞社で、季節外れの配置替へがあつた。上総も辞令を受け取つた。だうやら、文藝欄主筆から社會部の特命記者となるやうに、との事。要は社の上層部は、折角カンテラ一味と近付きになつたのだからと、上総を「今週のカンテラ一味」と云ふコラム担当に任命したのだつた。發行部數を伸ばす為には、彼らは何でもするのだ。
【ⅲ】
上総、* トレードマークのカウボーイハットとウエスタンブーツを脱ぎ、久し振りに脊廣に腕を通した。そして第一彈の記事は「カンテラの側近、天才猫のテオ、我が子を失つてからの每日」。云ふまでもなく、** 文・學・隆・せいの兄弟たちの末つ子、せいを、テオが亡くしたと云ふ、喪の記事であつた。
* 当該シリーズ第29話參照。
** 当該シリーズ第66話參照。
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〈きんきんに冷えた珈琲ぐいと飲む夏逝くゆゑに我は生き得て 平手みき〉
【ⅳ】
色々波紋はあつたが、特筆すべきは、「大猫宗・猫山」と名乘る、まあ一種の宗教團體の教祖が、テオの許を訪れた事であつた。「私どもは非業の死を遂げた猫ちやんたちの靈を弔ふ為に様々な活動をしてをりまして」。ところがテオは大の新興宗教嫌ひだつた。(だうせカネをふんだくりに來たんだろ)ぐらゐにしか思はず、齒牙にも掛けなかつた。たゞ猫山が抱いてゐる雄猫が、異様な目の輝きを見せて、テオを凝視してゐる事だけは記憶に留めた。
【ⅴ】
その猫がテオの夢に出て來た。かう云ふ‐「天才を鼻にかけて我が宗祖様を邪険に扱つた罪、許せぬ。貴様には地獄に落ちて貰ふ」そして矢庭にテオに飛び掛かつて來た。それは、テオがかつて體驗し得た、どんな猫の動きよりも俊敏だつた。この攻撃で、* テオは右耳を嚙み千切られてしまふ。テオ・ブレイドを急ぎ装着出來たのは、不幸中の倖ひだつた。あつと云ふ間に、その猫は消え去つた。
* 当該シリーズ第74話參照。
【ⅴ】
テオが目醒めてみると、周囲が血まみれになつてゐる。「これは...【魔】か...」さう、テオは實際に右耳を失つてゐた。文・學・隆、そしてでゞこはすやすや眠つてゐる。テオはその足でカンテラ事務所を出ると、*「愛人」の市上馨里のマンションに向かつた。貧血でふらつきながらも、だうにか市上の一室に迄辿り着いた。その後の記憶は、ない。
* 当該シリーズ第82話參照。
【ⅵ】
駆け付けた石田玉道の冷靜な処置と、市上の必死の看護で、大事には至らなかつた。市上「テオちやん、一體誰がこんな酷い事を...」‐テオ、無理をして「片耳でよかつたよ。兩耳やられてたらドラえもんになつてたところだつた」と、笑ひに紛らわさうとした。
【ⅶ】
すぐにこの事件は、上総の知るところとなつた。彼はコラムで、叛大猫宗キャンペーンを張る事を宣言した。被害者はそこかしこにゐた。テオ(あの「【魔】猫」め、仇はカンテラ兄貴とじろさんに、必ずや取つて貰ふぞ!)。テオは本当は自分で仕返ししたかつたのだが、さうするには、自身の能力の限界を知り過ぎてゐた。
上総が猫山の云ふ、「靈處」を突き止めてくれたのが、功を奏した。じろさんがまづ猫山を血祭りに上げ、カンテラが「【魔】猫」を斬つた。「しええええええいつ!!」
【ⅷ】
そして、カネ。取材料として上総がポケットマネーから支拂つてくれた。彼は責任を痛感してゐた。「自分がコラムに、せいの事を取り上げなければ、この事件は起きなかつた...」だがテオは、「さう氣に病まず、これからもじやんじやん書いて下さい」。
右耳の事については、「何、男の勲章つてやつですよ」。市上に甘える口實が出來て、事實テオは得した氣分・笑だつた。
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〈藝術はと祖の規定した秋や來ぬ 涙次〉
お仕舞ひ。