第3話
***
「ふぅ… 」
学校から家に帰ってきて、ため息ともなんとも言えない言葉が漏れる。
玄関で雑にローファーを脱ぎ捨て、直ぐさま二階の自分の部屋に小走りで向かう。
ガチャッと部屋のドアを開け、制服を着替えることも忘れ、息つく暇もなくそのまま机のノートパソコンの電源をつける。
(襲われた人が魚なんかに見えた凶器は錯覚で、冷たかった腕なんて、きっと深夜だったからそう感じただけだよね)
私は内心そんなことを思っていた、というより願っていた。
パソコンの読み込みが終わり、視界にデスクトップの画面が広がる。
直接的な身の危険があるわけでもないのに、友達が襲われたわけでもないのに、この代償が悪いものでもない…はずなのに、それでも黙ってパソコンで調べずにはいられなかった、
上手くは表現できないけれど、ただ知っておくことで自分の中で小さな安心みたいなものが欲しかったのかもしれない。
カチッ…カチッ
まだお昼の十二時前、至ってのどかな月曜日。
私の部屋にはパソコンをクリックする音だけが小さく響く。
パソコンで調べ始めて三十分程の時間が経った
「…ふぁ~ 疲れた~ 」
イスに座ったままの状態で、まるで猫のように目一杯伸びをする。
結論から言うと、結局三十分もしらみつぶしに調べてみても、あのホームルーム中に携帯で調べたこと以外には目新しい情報は見つからなかった。
灯が今日の朝教えてくれたように、事件が起きたのは昨日の夜で、まだ朝のニュースでやっと出たような新しい事件だった。それをネットで調べてみても、ほとんど情報がないのも当たり前というかしょうがないことだった。
2ちゃんねるの掲示板やニュース記事全般でも、特に代償のことや異質特別に繋がるような書き込みは全くなかった。
(やっぱり私の勘違いだったのかなー )
少し冷静になり、新学期早々朝から張り詰めっぱなしだった緊張の糸が切れたのか、思わず安堵の息が漏れた。
なんだかその瞬間に客観的に思えてきて、あんなに学校で焦って取り乱していた自分にもちょっと笑えくる余裕も出来た。
現に外はこんなにも平和な夏が広がっている。
私はそのまま制服のスカートのシワも気にすることなくベットに倒れこみ、いつの間にぐっすり眠ってしまっていた。
***
………
……
何時間寝てしまっていたのだろう。
まだ半分寝ぼけた頭で目を擦りながら、もぞもぞとベットから起き上がる。
顔を上げ部屋の時計を確認すると、なんともう時刻は五時過ぎになっていた。
部屋の窓の外に広がる景色も遠くの方はすっかり夕焼け色に染まり始めて、ビルに途切れたオレンジ色の光が、私の部屋に注ぎ込んでいた。
「ん……トイレ 」
少しだけ熱のある寝ぼけた身体で、ふらつきながら一階のお手洗いに行く。
………
「お腹減ったなー」
(そういえば、おにぃは帰ってこないんだけっけ)
「はぁ、夜ご飯、私が作らなきゃいけなぃんだ」
(お肉とかお魚とか冷蔵庫にあったかな)
…お魚とか…
…魚…
頭に閃いた言葉に、足が止まった。
(あれ ちょっと待って)
なんで、こんな簡単なことにもっと早く気がつかなかったんだろう
私は完全に大事なことを見落としていた
もし昨日の通り魔が本当に凶器に魚を使っていたとしたら。
私の部屋の押し入れにしまい込んでいるものも、つまりは凶器として使えるものなのかどうかだ。
逆にもしあれがただのまぐろだったなら、凶器に使うことなんてことは不可能で、私はこの事件となんてはっきり無関係になる。
私はどうしてこんなに一番わかりやすい方法を見落としていたのだろう。
その瞬間、思考より先に反射的に身体が先に動いていた。二階にある自分の部屋に向かって階段を駆け登る。
そして勢いよく部屋のドアを開け、視界を押し入れの扉を捉える。
「…ゴクッ…」
さて、これからどうしよう。肝心の押し入れの目の前に立ってはみたはいいけれど、いざ目の前に立つと怖くて開けられない
一つは去年に隠したアレが本当にそこにあるのか、どうなっているのかという恐怖。
そしてもう一つは、もし本当に通り魔と共通する物だったときに味わう絶望感の恐怖。
………………
「はぁ…はぁ… 」
押し入れの前でどれだけの時間が経ったのだろう。
さっきまであんなに綺麗な夕焼けが見えていた窓からは、すっかり日も落ちて景色は夜空に変わろうとしていた。
私の時間だけが切り取られたかのような時の流れの中で、私は一人立ち尽くしてしまっていた。
中学生の頃にここに閉じ込めたあれは、二度と開けることのない開かずの扉なんだと思っていた。
中学生の私が衝動で閉じ込めたあれは、時間が経つにつれ本当に一度死んだ私の死体のような感覚になっていて、今の私からすれば、あれは一度死んだ私の一番辛い思い出の塊でしかない。
…‘まぐろ’…
でもこの開かずの扉を開けなくちゃだめだ、通り魔事件とのはっきりとした潔白の証明が出来るんだ。
目の前のドアを一枚開ければ、はっきりするはずなんだから。
深く深呼吸をして呼吸を落ち着かせる、確かに動く右腕がドアにかかる
左手の握りこぶしにもぐっと力が入る。
そして、意を決し、勢いよく開かずの扉のドアが開かれる
(……ッ!!)
…いた
一年間開けていなかった、そのほの暗い空間の真ん中に、湿った空気と匂いの中に、それは消えることなく中学生の私が巻いたバスタオルを今も被りながら、ホコリまみれに腐ることもない姿で眠っていた。
「やっぱり… あなたは‘魚’じゃないんだね… 」
触れて確認しなくても、普通の魚なら一年間も押し入れにしまい込んでいたら、腐りきって異様な臭いを発し、形など保てないはずだ。
しかし目の前のそれは、今尚確実な原型を誇り、私が開けるのを待っていたかのように堂々と横たわっていた。
命の恩人…‘まぐろ’…
「ごめんね、ちょっとだけ確かめるだけで終わるから」