第9話
一階の薄暗い生物室の扉の前に私はただじっと開くのを待っていた
こういうとき、悪いことをしたわけでもないのにどうしても気持ちが落ち着かないのはどうしてだろう
そんなことを思っているときだった、生物室の中から一斉にイスの引く音が聞こえる
それと同時に扉が開き生徒がずらっと出てくる
少し待って中にほとんどの生徒がいなくなったことを確認して、私はそっといつも座っている席に向かう
(窓側の一番後ろ… )
近付くまでは気がつかなかったが、私の席の場所にはまだ座っている生徒がいた
(…小学生? )
…ぱっと見るとまるで小学生のような小柄で華奢な子が座っていた
自分もクラスではかなり小さなほうだけど、目の前のこの子はそんな私よりもずっとずっと小さかった
そしてもっと目を引くことは
ハーフなのだろうか…、髪の色が、白…いや銀色をしていたことだった、銀色の髪のショートボブ
ありえないほど白く透き通った肌
(こんなに可愛い子この学校にいたなんて)
「あのぅ… 」
(…瞳の色が青い )
不安げな表情を浮かべていたその少女は小さな声でそう呟いた
私の目を見たその綺麗なビー玉のような大きな青い瞳、柔らかそうな真っ白くて綺麗な頬っぺた、見れば見るほど見とれてしまう
同じ学校にこんな可愛い子がいるなんて私は全く知らなかった…
「…ぁ いきなりごめんね 実は…ここの机の中にペンケース入ってなかったかな? 」
あまりにこの子が幼く見えて、思わず子供と話すときのような口調になっている自分に自分で驚く
「ペン…ケース? 」
そう言うとその子は首をかしげ机の中をごそごそとし始めた
その仕草を見ていると本当に小学生が何かを探しているようで可愛くてまた見とれてしまう
「…これ? 」
また首をかしげながら黙って机の中から取り出したは、…水玉模様のペンケース
そう、紛れも無い私のペンケースだった
「あっ! これー 探してたんだっ 本当にありがとうね 」
「……こくっ 」
そう一回頷いて、その子は俯いてしまった
…………
お互い会話が進まない…
もともと私も人見知りだし、こうやって自分から誰かに声をかけたのもいつ以来だろう
(そろそろ…私もクラスに戻らないと )
そう思ったときだった
偶然に目に入った机の隅っこ、ちょうどさっきまで見ていた落書きがあった場所…
(…!? )
…驚いた
一時間前までは確かに私の書き込みの下には何も書かれていなかったはずの落書きに、新たに文章が増えていたからである
「…助けてください… 」
そう小さくつづられた文章…、始めの落書きに続く救難信号
「…この落書き」
私がそう言って落書きを指差したそのときだった
「…っ!! 」
さっきまで俯いていたその子はいきなりビクッと反応する
「…ぁぅ… 」
そして、さらに下を向いてシュンと縮こまってしまう
「ぁっ えっと…ごめんね 」
私はとっさに謝ってしまった
そのときだった、いきなり目の前の少女は立ち上がり、そのまま走り去ってしまった…
「ぁ…っ 」
(やっぱり… 言わなきゃよかったのかなぁ… )
…………
「あれ? 」
(そういえばあの子、教科書もノートもペンケースも置いてっちゃった…)
教科書の裏を見てみる
(…1年B組 桜月 有珠 )
同じ一年生だったんだ
やっぱりさっきのことも謝らなくちゃ…だめだよね
ペンケースの恩もあるし、帰りに届けてあげよう
…………
生物室を出て教室へ戻る
その途中だった
「ゆり~ 」
後ろを振り返ったときだった
「灯? どうしたの? 」
「ぃやー もうホームルーム始まるのにどこまで行っちゃったのかなーっと 」
「ぁぁ…別に 」
あの子とのことは言わないでおこう… 落書きのこととか…
「…?? ゆり? 」
「ぁ ううん なんでもないっ」
「なんかゆり …私に隠してなぃ? 」
「ぇ…!? 全然…っ 」
「……そう? 」
そのままなんとかホームルームには間に合った
外を見れば今日も夕焼け空がオレンジ色に教室を照らしている
ホームルームが終わって直ぐさま教室を出る
「どこ行くの? 今週私たちが掃除でしょ? 」
「昨日 灯だってサボったんだから今日は私を見逃して 」
「ゆりがサボるなんて珍しいね 急ぎの用でもあるの? 」
「ぅーん…ちょっと かな 」
「なにー ちょっとって~♪ 」
また頭をわしゃわしゃされる
「ぅぅ…灯には関係ないことっ、じゃあ また明日ね 」
「……そっか ぅん、また明日 ね」
私はそのまま1年B組のクラスに向かった
教室に着いてドアから全体を見渡す
しかし、あの子の姿はどこにも見当たらない
(帰っちゃったのかなぁ… )
(ぁ…生物室に忘れたこと思い出して取りに行ったのかな )
そう思い、一階の生物室に行こうと階段を降りようとしたそのときだった、階段の上であの子の姿が見えた
…純白の少女
後ろから光る夕焼けの逆光が眩しくて顔は暗くて見えないけれど確かにさっきのあの子だった
「ぁ… さっき…」
向こうも気付いたのだろうか、私が声をかけようとしたときにはまた走り去ってしまった
「ぁ ちょっと待って…っ」
そう言ったときにはもう階段を上っていってしまった
…………
「はぁ… 」
(…?? なんだろう…これ )
ふと目をやると、さっきまであの子の立っていた辺りになぜかチョークの粉が落ちていることに気付いた
(チョークの…粉? )
…理由なんてなかった
溢れ出しそうなよくわかんないような気持ち、背中をぐっと押す衝動
ただ、とっさに私も衝動で追いかけた
「はぁ…はぁ 」
斜めった階段を一階から最上階の屋上まで全速力で駆け登る
気がつけば私は屋上へと続く扉の前に立っていた
扉のドアノブに手をかけたときだった
「ぅ…っ…っ…ヒクッ 」
(…!? 泣き声…? )
誰だろう、涙をすする音が私のところにまで聞こえる
耳をすまさなくても、確かにこの扉の向こう側には誰かが泣いている
(あの子… なのかな)
開けるべき…なのだろうか
昨日、ひよりの横で涙を浮かべていた私はひよりに助けられた
でも私には…
そんな力もなければ経験もない
開けて…どうにかできるのだろうか?
…私に
だって…、私だって今傷ついた痛みを嫌というほど抱えている人間なのだから…
大丈夫だよ、安心して、またがんばろう、…今の私は他人からそんな言葉をかけられたら、きっとその人のことを嫌いになる…
誰かの痛みを誰かが知ることは同等の痛みを知らない人間にはできないことだから
人間なんて、経験して初めてやっと一つ痛みを知ることのできる生き物なのだから
屋上へと続く古ぼけた扉の前…
ちっぽけな勇気すら持たない私にこの壁を開けるだけの勇気はない
(明日 …でいいよね…)
教科書とノートと返すだけなのに、こんな過酷な状況、私には無理だよ…
私だって、痛いんだから…毎日
粉々になるほど痛みを抱きしめて生きてるんだから…っ
「ぅ…っ…っ…グスッ… 」
逃げるための階段を一歩踏み出したときだった…
…………
「…だめ…だよ… 」
…自分にそう呟く
いつだって私はさ迷う風のように逃げるためだけの言い訳ばっかり
そんな自分の不器用さが嫌い…、でも今みたいに器用に立ち振る舞おうとする自分はそれ以上にもっと嫌い…っ
だから、やっぱり…開けよう
負けそうな階段を蹴り帰り、振り返る
左手の握りこぶしに爪が肌に食い込むほどの力をいれて、右手に込めた最大限のちっぽけな勇気をそのドアノブに目掛けて放つ
そしてそのドアを…開けた




