91,加勢。
何者かの騒ぐ声が聞こえ、それが俺たちのいる部屋の前まで近づいて来たのが、そのときのことだ。
「ここに涼さんが来ているのはわかっています。中に入れてください」
毅然と発せられたその声が、俺たちのいる部屋の中にまで響き渡る。
内密な話をしていただけに、一瞬、緊張が三人を支配するが、「……入れてやれ」というヴァレンティンの言葉で、すぐにその緊張が解ける。
ドアを開けてなかに入って来たのは、アニーだった。
「ようこそ、聖女アニー様。今日はどうされましたか」
動揺の一切見られない声で、ヴァレンティンがそう応対する。
「……涼さん」
アニーは、ちらりと視線をこちらへ向けた。
「涼さんとの約束で、夕方までに戻らなければ、ここに誰かを呼んで欲しいと言われていました。時刻はすでに夜です。ですから、様子を見に来たのです」
アニーとその約束を交わしたことは覚えている。
だが、まさか彼女本人がやってくるとは思ってもいなかった。
「ここで、なにをされていたのですか」
なにか誤解をしているのか、明らかに怒りを籠めた声で、アニーがそう問う。
「なにか誤解されているのではありませんか、アニー様。私たちはただ話をしていただけで……」
ユグリスがそう弁明するが、アニーはその言葉を遮って、こう口にする。
「部屋の周りには大勢の兵士がいました。ただのお話をするのに、これほどの兵士が必要なのですか。なにかいかがわしい脅迫があったに違いありません」
その声は激しい怒りによって震えている。
アニーのなかにこのような他者への攻撃性が眠っているとは思わなかった。だが、視線を下げたことで、それは誤解なのだと気づく。
アニーの手は小刻みに激しく震えていたのだ。
「私の大切な友人である涼さんに、何をしていたのですか。返答次第では、ただでは済ませません」
「なにもしていませんよ、アニー様、誤解です」
「では、なにを話していたのですか。言えないと言うのなら、やはりなにか脅迫があったのだと見做します」
「我々は脅迫などしていませんよ。むしろその逆で……」
アニーに問い詰められるふたりが気の毒になり、
「アニーさん、誤解です。脅迫はされていません」
と、口を挟んだ。
「脅迫は、されていない……?」
「ええ。むしろ親しく話していたくらいです」
「親しく……?」
アニーは不思議そうにふたりの顔を見回した。
「彼らは仲間です。敵ではありません」
ユグリスとヴァレンティンが、“その通り”とでも言いたげに、ゆっくりと頷く。
すると、まるで張り詰めていた糸が切れるように、アニーの目から涙が溢れた。
ユグリスもヴァレンティンも俺も、流れる涙を隠そうともしないアニーのその泣き姿に、しばし見惚れた。
女性らしい体つきの彼女が涙を流す姿が、あまりにも美しかったせいだ。
「どういうことか、説明して貰えますか。私、なかなか涼さんが戻ってこないので、とにかく心配で心配で……」
「心配されるのはわかります。ですが、とにかく落ち着いてください。なにも危険はありませんから」
ヴァレンティンがそう言う。
「涼さんは、夕方には戻って来ると言っていたのです。でも、なんの連絡もないし、きっと涼さんなら大丈夫だろうと思っていても、私、心配で、いてもたってもいられなくなって……」
「お気持ちはわかります。ですから、まずは落ち着いて下さい。どうぞ、この椅子に座って下さい」
ヴァレンティンがそう言って椅子を差し出すと、アニーは大人しくその椅子に腰かけた。
「すいませんが、一から説明して貰えますか。……では、脅迫はなかったのですね?」
「ええ。ありません。このヴァレンティンが、誓ってそう約束いたします」
「涼さんは、痛めつけられたり、脅されたりは、していないのですね?」
「していません。……それに、私たちが束になっても、この男に敵うかどうか……」
「では、涼さんは、どこも怪我をしたりはしていないのですね?」
「ええ、していません。……もし疑われるのなら、どうぞ、ご自分の目で確かめてください」
ヴァレンティンは半ば皮肉でそう言ったのだろうが、狼狽したアニーにその皮肉は通じなかった。
アニーはおもむろに椅子から立ち上がると、どこか虚ろな様子で俺の前まで歩いて来た。それから涙をぽろぽろと零したまま、慎重な手ぶりで俺の全身を手で弄ってゆく。
「ちょっと……! アニーさん……!?」
「怪我はありませんか、涼さん」
「ありません……!俺なら、大丈夫です……!」
「……本当ですか?」
「本当です、本当に、なにもされていません」
「見えない箇所を殴られていたり、血が流れている個所はありませんか」
「殴られても、血が流れてもいません……!」
「痛いところがあれば、私の”ヒール“で癒してさしあげます。どうか、遠慮せずに仰ってください」
「痛いところはありません。アニーさん、俺は無傷です……!」
するとアニーは、俺の首元に触れていたその手を離し、俺の両手を握り締めた。
それから、その手を離し、ゆっくりと俺の身体にその全身を預けた。
「では、なにもされてはいないのですね? 本当に本当に、心配したのですよ、涼さん」
俺の肩に頭を乗せて、アニーがそう囁く。
「すいません、すっかり話し込んでしまい、約束していたことが頭から抜け落ちてしまったのです」
「昼頃から、ずっと涼さんの連絡を待っていました。……公務があったのですが、私はそれもすっぽかしてしまいました」
「それは申し訳ないことをしてしまいました。……深く謝罪します」
「涼さんが無事なら、それで良いのです。……私なんかに、謝らないでください」
「ええ、でも、心配させてしまいごめんなさい」
「良かった。本当に、良かったです」
俺の首に顎を乗せたアニーが、耳元で啜り泣く。
彼女の俺を抱きしめるその力が、若干痛いほどだ。
これほど取り乱しているアニーを前にして思うことではないのだろうが、絶世の美女である彼女に抱き着かれていることで、俺はかすかに浮かれていた。
俺を抱きしめたアニーは全身から素晴らしい匂いがした。まるで大きな一輪の花を直接抱きしめているみたいだ。そしてその抱き心地は、まるで巨大なスライムを抱いているようで、ひたすら柔らかかった。
なにより、これほどの美女に泣かれているという事実が、堪らなく嬉しかった。
「……そこを通せ、さもなくば斬るぞ」
とそのとき、部屋の外でそんな物騒な声が聞こえて来た。
しばし騒ぐようなやり取りのあとで、ガチャリと部屋のドアが開く。
「涼、無事か。加勢に来た。……こいつらがお前を脅している敵か? 武器はあるか? さあ戦うぞ。ここから出るぞ!」
アニーにも増して取り乱しているエレノアは、すでに臨戦態勢に入っており、部屋の奥にいるユグリスとヴァレンティンを厳しく睨みつける。
「……涼さんが危ないと、エレノアさんに報せてから来たのです」
と、アニーが涙を拭って、そう言う。
「エレノアさん、誤解です。俺はなにもされてはいません。彼らも敵ではありません」
「……涼、アニーさんは任せたぞ。こいつらは私がどうにかする」
と、取り乱したエレノアには俺たちの言葉は届いていない。
この様子を見ていたヴァレンティンがはあ、と深く嘆息し、半ばあきれた様子でこう零した。
「やれやれ。君は一体何人の美女に求愛されているんだ? ……いずれにせよ、簡単には君を打倒すことが出来ないことは良くわかった。もっとも、我々は君と敵対しようなんてこれっぽっちも思っていないがな。……さあ、エレノアさん、武器をしまってくれ。落ち着いて話をしようじゃないか」
なだめるように俺が小刻みに頷くと、エレノアはその眼を左右に二、三度振り、少し恥ずかしそうに咳払いをして、剣を鞘にしまった。




