84, 胸を撫で下ろす。
食事を終えるころには、すでに陽は暮れていた。
涼はアニーの片づけを手伝い、食後に紅茶をご馳走になって、荷物をまとめ始める。
もう少しアニーと話をしたかったけれど、“一緒に夕食を取る”という用事はすでに済んでいる。これ以上いるのは、国民に大人気のこの絶世の美少女にとっては、迷惑かも知れない。
しかも、セレスティアル大聖堂でのあの式典を見た後なのだ。
公務で彼女は忙しくなるだろうし、多くの貴族が言い寄るのも目に見ている。
“もしかしたらアニーさんとふたりで食事をするのはこれが最後かもしれない”とさえ、涼は思っていた。
「あ、あの……」
と、玄関を出たところで、涼は言う。
“また食事に誘ってください”と言いたいが、その言葉が、喉から出てこない。
ほんの短いフレーズなのに、汗ばかりが額から流れてくる。
自分でも、なぜこんなに緊張するのだろう、とすら思う。
「あ、あの、ほんとうに、ほんとうに、多分、迷惑だとは思うのですが、……それに、おれなんかが言うのは失礼かもしれませんが……」
ここまで言っても、涼は“また食事に誘ってください”の一言が、どうしても口に出来ない。
それで、
「……少し歩きませんか」
と、ようやく、そう言葉を絞り出す。
アニーの家を出たフィヨル広原の夜景は、遠い街の明かりのほかは特に明るいものもない。
オーヴェルニュのひんやりとした冬の空気が広がっているだけで、人や動物の気配もしなかった。
アニーと無言で草原の散歩道を歩きながら、涼は改めて“なぜこれまでアニーが自分に構ってくれたのか”不思議に感じていた。
”チート“能力があるだけで、自分にはなんら特別なものはない。
アニーのように持って産まれた美貌もなければ、優れた冒険者のように勇ましいわけでもない。
もともとの自分は、ただの高校生であり、平凡な人間に過ぎない。多分アニーも、長い付き合いのなかでそのことが分かってきているだろう。
でも……、
と涼は思う。
会えなくなるのは、すごく寂しい。
(自分はアニーさんのことが好きなんだな……)
と、そのときやっと、涼はこの感情を正面から自覚したのだった。
「あの」
と、そのとき無言を破ったのは、アニーの方だった。
「もし良かったら、手を繋いで歩きませんか」
「お、俺で良かったら!」
涼はそう答えるが、思わず声が、裏返る。
そっと手を差し出すと、アニーがそれを柔らかく握り返した。
心臓が高く跳ね上がり、いつもよりもずっと身体が硬直する。
無言を乗り越えて喋ってくれたのだ。
今度は自分が勇気を出してなにかを言う番だった。
「……また食事に呼んでくれませんか」
やっと、その言葉が言えた。
「……喜んで」
「食事だけじゃなくて、もっと一緒にいたいです」
「……私も、もっといろいろ一緒にしたいです」
「アニーさんは忙しくなるでしょうし、自分に構っている時間なんてないでしょうが……」
「……涼さんこそ、私を気に掛けている時間なんてないのではないでしょうか……」
“好きです”と伝えたら、迷惑になるだろうかと涼は思う。
でもせめて、自分はもっとアニーと一緒にいたいと誠意を持って伝えたかった。
「自分は……、多分今よりももっと忙しくなるし、時間も取れなくなるとは思います。でも、アニーさんと一緒に過ごすこの時間が《《好きです》》し、大切です。どんなに時間がなくても、呼ばれれば、必ず時間を空けて、会いに来ます」
「私も……」と、アニーが話し出す。「公務に正式に復帰したので時間はないですし、忙しいとも思いますが、……涼さんと過ごす時間が、なにより《《好きです》》し、私には必要です。私も、どれだけ時間がなくても、必ず時間を空けますから、どうか、どうかまた、夕飯を食べに来てください。お願いします……!」
ふたりでなにを恐縮し合っているのだろうと、そのとき、ふいに二人は笑い合う。
それまでずっとわだかまっていたものが、急にほぐれたようだった。
「では、また食事会をするということでよろしいでしょうか」
と、アニーが微笑みながら言い、
「そうですね。……ぜひ、また」
と、涼が微笑みをアニーに向ける。
今やふたりは、向かい合って両手で手を繋いでいた。
前進したのか、もとの位置に戻ったのか。
少なくともふたりは、自分の不安が和らいだように感じ、ほっと胸を撫で下ろしていた。




