114,密かな会話。
“つぼみの間”へと入ろうとしたそのときのことだ。
服の背中部分を誰かに引かれるような感触があり、振り返ると、アニーが顔を赤らめて俯いている。
「さっきのお話は」
と、俺にしか聞こえないほどの小声で囁く。
「すべて本音です。私は涼さんに会えて救われた気がしたんです。……そのことは分かっていてください」
「アニーさん……」
アニーのその気持ちは理解しているつもりだ。
母親を亡くして以来、硬い殻に閉じこもっていた彼女を、俺がその殻から出してあげた。自惚れているわけではないが、アニー自身がそう口にしてくれたことは何度もある。だから彼女がどう思っているかは、理解しているつもりだった。
だが、
「いえ、涼さんはわかっていません」
と、アニーは思わぬ言葉をそこへ繋げた。
周りにいる仲間たちはちょうど、フラジャイルからこの白霊樹の生態についてレクチャーをされている。アニーの囁くような声は、俺にしか聞こえていない。
「わかっていない? それは、どういうことでしょうか」
「それは……」
アニーは口籠る。そしてどういうわけか、俺の衣服を引くその力は、そのとき、より強さを増した。
「すいませんが、はっきり言って貰わないと、わかりません。俺はなにか、マズい誤解でもしているでしょうか」
「誤解というか……、私の気持ちが上手く伝わっていない気はします」
「アニーさんの気持ち?」
なんのことかわからなかった。
彼女の言わんとすることがわからないだけに、不安が高まる。自分がミスをした記憶がないときほど、ミスは生じているものだ。
睨みつけるように俺を見据えるアニーにたじろぎ、俺は猛烈な勢いで自分の記憶の桶を漁った。
「伝わっていないと思うのは……、私が、涼さんのことを、好きだということです」
「はい……?」
あまりにも想像とかけ離れた言葉が返って来たので、俺は素っ頓狂な返事をしてしまった。
俺が妙な返事をしたせいで、アニーも次に続く言葉が見つけられず、ただ顔を真っ赤にして俯いている。
そして急に、アニーの言葉が俺の脳内に深く染み渡った。
”好き“と、アニーははっきりと言葉にして言ったのだ。
目の前にいるのはあの“聖女アニー”だ。あまりにもその美貌が飛びぬけているために、この国のすべての男が恋をすると言われるほどの、あのアニーだ。
その美少女が、今はっきりと俺を”好き“と口にしたのだ。これまでどことなく互いに想い合っている感じはあっても、こうもはっきりとその想いを口にされたことはない。多分アニーも、そのじれったさから、ついにこうして、ほかに取りようのない言葉を俺に投げつけて来たのだろう。
「あ、あの」
と、口の中がからからに乾くのを感じながら、俺は言う。
「今、好きと、おっしゃいましたか」
こくりと、人形のように美しいアニーが、頷いた。
「確認なのですが、それは”俺のことを“ということで、よろしいのでしょうか」
“そんなこと聞かないでくれ”というように、こくこくと、アニーは何度も小刻みに頷く。
彼女はどこか不貞腐れた子供のように、頬を膨らませて俺の服の裾をぎゅっと握っていた。
それから、真っ青な瞳をうるうると潤ませ、上目遣いに俺を見上げる。
「好きです。涼さん。この気持ちは、もう抑えようがありません」
天にも昇る気持ちとは、このことだろうか。
人生で最も美しいと思った女の子に、俺は真正面から告白を受けているのだ。これは夢だろうかと思うほどに、ただひたすらに嬉しい。
そしてアニーは再び俺を上目遣いに睨みつけ、こう口にする。
「なにか、言ってくれないのですか」
「えっと……」
アニーがどんな言葉を期待しているのか、鈍感な俺でもさすがにわかる。彼女は俺にも”好き“と言って欲しいのだ。
自分でわかっているのかいないのか、アニーはその凄まじく可愛い顔をぐいと俺に近づけ、
「言っては、くれないのですか」と、そのぷっくりとした唇を尖らせる。
俺の胸はこの身体から飛び出て行ってしまいそうなほどに高鳴っていたが、口のなかのわずかな水分を集め、それをごくりと飲み、意を決して俺は言った。
「俺も好きです。アニーさん。ずっとずっと、好きでした」
こんなにも人の顔は赤くなるのか、というほどに、アニーの顔が赤くなる。その眼は大きく見開かれ、まるで予期せぬ雷雨をみたかのように、呆然としている。
やがてその眼にみるみるうちに涙が溜まり、堪えきれないというように、
「嬉しい」
とアニーは零した。そして再び俯くと、
「涼さんの元いた世界では、こういうとき、どうなさるのですか」
と、子猫のように小首をかしげ、そう質問をする。
「どういうことと言うのは……?」
そう尋ね返すと、
「お互いに好きだと言い合ったあとは、どうするのですか。契約書でも交わすのでしょうか?」
本人は真剣に尋ねているのだろうが、小首を傾げたその顔つきは、まるで意地悪な問いを重ねる小悪魔のようだった。
あたかも俺が答えづらい質問を、敢えて問い続けているようにさえ見えた。
「俺の元いた世界では」
「世界では……?」
「こういうとき」
「こういうとき……?」
「キスをします」
「キス、ですか? それはいったい、なんなのですか? この世界にはない言葉ですが……」
「お教えしますから、目を閉じて、上を向いてください」
そう指示をすると、アニーは従順にその言葉に従う。そっと目を伏せ、つんとした鼻先を俺の方へと向けた。
あまりにも美しい顔がそこにある。まるでガラスで造った王女みたいだ。
俺はこの絶世の美女にそっと顔を近づけ、互いの唇と唇を重ねた。
桃の果肉のように柔らかいアニーの唇が、すっと俺の唇に重なる。かすかにミルクのような甘い匂いがした。
「……これがキスです」
少々キザかなと思いながらそう言うと、長い睫毛を震わせてアニーが瞼を開き、その眼を柔らかく細める。
いかにも幸せそのものというふうに、アニーは満面の笑みを浮かべて言った。
「これがキスですか。とても素敵な行為ですね。すごく、……すごく幸せな気持ちになります」
それから、そっと背後を振り返り、まだフラジャイルの説明を受けて俺たちのやり取りに気づいていない仲間たちを盗み見ると、こう付け加えた。
「もう一度してください。もう一度、お願いですから」
アニーはゆっくりと、目を閉じてその可愛らしい唇を突き出した。




