時間はもどらない
古びた喫茶店は、まるで世界から切り離されたように静かだった。外の騒音がほとんど届かず、ただ時折風が店の古びた窓を揺らす音が響くだけ。午後の柔らかな陽光が窓から差し込み、色あせたテーブルと椅子を優しく包んでいた。
男は店の隅にある席に座り、ぼんやりと窓の外を眺めていた。年齢は30代半ば、少し疲れた表情が印象的だ。乱れた髪と無精ひげは、彼が最近あまり身だしなみに気を使っていないことを物語っている。左手には古びた本が握られており、ところどころに折り目がついたページがその本が何度も読まれてきたことを示していた。
彼の前には、湯気の立たない冷めたコーヒーと、食べ残されたナポリタンが置かれていた。彼はしばらくそのまま座っていたが、突然、長いため息をついた。
「…こんなところに、いつまで座ってるんだろうな。」
誰に向けたわけでもない独り言が、静寂の中に溶け込んでいった。男は再び本を手に取り、ページをめくろうとしたが、手が止まる。彼はそのまま本を閉じ、机に置いた。
心の中には、取り返しのつかない後悔が渦巻いていた。
かつて、彼の傍には一人の女性がいた。明るく、笑顔が絶えない彼女は、彼にとって心の支えだった。しかし、仕事に追われる日々の中で、彼は彼女の存在を次第に軽んじてしまった。連絡が途絶え、約束がキャンセルされ、そしていつしか彼女は彼の前から去っていった。彼女が最後に残した言葉が、今でも耳の奥にこびりついている。
「あなたに私は必要ないみたい。」
その言葉を聞いたとき、彼はただ黙っていた。忙しさにかまけて、彼女の気持ちを受け止める余裕がなかったのだ。だが、今となってはその言葉が彼の胸に鋭く刺さり続けている。
「何を失ったのか、今になってようやく気づくなんて。」
彼はふと、上着のポケットに手を滑らせた。そこには、小さなガラケーが入っている。画面を開くと、彼は彼女の名前が表示された古いメッセージをぼんやりと眺めた。最後のメッセージは、何も返事をしないまま放置されていた。
『また話せるといいな』
彼はその短い言葉を何度も読み返した。もう二度と彼女からのメッセージが届くことはないと知りつつも、まだどこかで期待している自分がいた。それがどれほど虚しいことかもわかっているのに。
冷めたコーヒーを口に含むと、その苦みが彼の喉をゆっくりと通り抜ける。味わうことすら忘れ、ただ無心に飲み干す。
「この喫茶店も、ずっとここにあるんだろうか。」
男は窓の外を見つめ、静かに呟いた。外の景色は変わらない。通りを歩く人々も、車の音も、喫茶店の外では確かに時間が進んでいるのだ。しかし、彼の中では、まるで時間が止まったように感じられる。
この店には何度も来たことがある。彼女と一緒に座ったテーブル、彼女が笑っていた場所、そして今、彼が一人で座っている場所。彼女の姿はもうどこにもないが、その記憶だけは、彼の中で鮮明に残り続けている。
「時間が戻せたら…」と、彼は思う。しかし、そんなことができるはずもない。彼はそれを十分すぎるほど理解していた。
男はゆっくりと立ち上がった。そして、テーブルの上に古びた本を置いたまま、何も言わずに店を出た。まるで過去を置き去りにするかのように。