なろう批判の私的見解 描写を削る
なろう批判やそれに対するカウンターについてはあきらかな人格攻撃を除いて、議論を交わして対話出来ているならば、問題ないと思います。
感想という名の罵詈雑言、人格攻撃は絶対にダメです。
言葉は人を殺せますから。
なろう批判やそれに対するカウンターに関する話しは正直、何番煎じなんだってくらい今更なんですが、私が読み専だった当時から、何となく思っていたことを明文化してみようかと。
なろう批判は的外れだっ、とか、批判に対するカウンターが感情論になってはいけないっ、ってあたりは私より余程優れた方々が書いていますから、そちらで読んで頂いて、ぐだぐだな駄文にお付き合いお願いいたしますm(_ _)m
では、本文。
いきなりですが、表現において意図的に描写を削るのは難しいです。文筆だけでなく、絵を描いている方もわかるとは思うんですが、必要最小限まで情報を削り落として表現として成り立たせるのは大変困難なんですが、然りとて、あまりにも情報量が多すぎては作品としては冗長なりすぎたり、描写が煩く、主題の見えないものになりますから、作者とは表現すると同時に常に描写を削り落とし、削ぎ落とされて剥き出したものをさらけ出して衆目に晒す役割も持っていると思う訳です。
で、なろうにおけるテンプレ作品では読み手、書き手双方の利便性から共通言語化されたストーリーの下地が削られていったと思うんですよ。
異世界転生、転移なら、無職転生なんかは亡くなるまでの描写が伏線にもなっているため、生前の人間性や死までの詳細が丁寧に描写されていましたが、複数の何番煎じを重ねる中で省略され、物語に入るための枕言葉、常套句として「自分は前世があるらしい、でも名前や人間性は記憶にない」ともはや異世界転生である必要性が便利な知識とご都合チートの土台としてしか存在していません。
昨今、流行りのざまぁ系に至っては其処から更に起承転結の転のあたりまで端折って結末だけを見せるスタイルです。
私はそれが悪いと思っているわけではなく、なろうという環境の中で効率的に読み手に情報を伝えて読んで貰うための進化だと思っています。
しかし、なろうを見続けたり、なろう作品に多く触れていない、初めてなろう作品を読んだ方はなろうテンプレートはずいぶんな手抜きに見えるでしょうね。
水戸黄門もテンプレとしてわかっているから、面白いんですよね、最後にはカタルシスがあるとわかって、お約束を楽しむエンターテイメントですから、其処に野暮を言うのは筋違いなんです。
でも、テンプレを理解していなければ、楽しみ方がわからなければ、それは伝わらないんですよねf(^_^;
なろうにおいては無駄に描写が多いとなる部分もありますが、ネット投稿小説独特の文化で一話ごとの投稿である程度は暇潰しになりつつ、満足感が得られるボリュームにするため、作者様方の努力の結果で、一冊にまとまったものを一気に読むのが当たり前の前提では齟齬があっても仕方ないんですね。
マンガ雑誌なんかの週間連載でも、一話づつ読むと、だらだらしてつまらなく感じるけど一気読みすると面白い作品とかありますよね。
結局、スタンスの違いで、何処を削り、何処を盛っているか、読み手のターゲットを何処においているかなんだと思っています。
まぁ、だから、なろうの中の人も外の人もお互いを理解して相手のスタンスに立って見るべきなんですよね。
自分には理解出来ないから、低レベルだと断じるのも、理解出来ない方が低レベルだと断じるのも、鏡の裏表でしかありませんから。
色々知って、楽しむ方が万倍いいはずなんです。
誰かを傷つけるだけの生き方より。
過激な内容にはなってはいないと思いますが、若干的外れなことを、書いている気もしますf(^_^;
ただ、文化を殺すのは無理解であり、言葉は人を殺せるのは間違いないと思っていますから、相手を尊重し慮る心は持っていたいものです。