婚約破棄にはわけがある
笑っていただければ幸いです。
ヴァネッサ・ブランシェとラウド・オスマンの婚約は、別に政略ではない。
ヴァネッサの父とラウドの父が学生時代の友人で、家も同格の伯爵家。同時期に結婚して同時期に子供が生まれ、ちょうどいいから結婚させるか、という、その場のノリみたいな理由で決められた婚約だ。今どき政略結婚なんてほとんどない。情勢は変わっていくし、跡継ぎならなおさら結婚相手くらい自分で見つけないとその能力が疑われる。
互いに領地で暮らしていたので逢瀬は年に数回しかなく、それでも十五歳になり王都の寄宿学校に通うようになれば恋が始まるものとヴァネッサは期待していた。精神的な成長は女の子のほうが早い。ヴァネッサはお嫁さんというものに夢見ていたし、どうせ恋をするなら婚約者とのほうが将来のためになると考えていた。
だが、ラウドは違っていたらしい。彼は同じクラスのエマニュエル・モネ子爵令嬢とどうやら恋仲であるようだ。
同じ学年であるにもかかわらずヴァネッサとラウドが顔を合わせることはほとんどなく、ヴァネッサが昼を一緒にと誘ってもエマニュエルとの先約があると断られる。あきらかに避けられていた。
友人がいるのでヴァネッサがぼっち飯になることはないが、こうもあからさまに邪険にされればさすがに思うことがある。
ちなみに最終学年にはヴァネッサの兄とラウドの姉がいる。この二人もラウドの態度には、特に兄はおかんむりだった。
「ラウドの気持ちはわからないでもないのよね」
食堂でランチを食べながら、あれはどうなの、と憤る友人にヴァネッサはそう言った。
「私たち、子供のうちに婚約してしまったから、恋を知らないのよ。私だってできることなら素敵な人と恋がしてみたいわ」
足枷を付けられた気分なのは、なにもラウドだけではない。ヴァネッサだって同じことだ。
その『素敵な人』がラウドであれば良かったけれど、あいにくヴァネッサは婚約者を無視して他の女に夢中になっている彼を振り向かせたいと思えるほどの情熱を、ラウドに抱いていなかった。
学校にはラウドより良い男はたくさんいる。婚約者のいない、フリー男子も多く、ヴァネッサと仲の良い人だっているのだ。
ラウドがいるからそういう雰囲気にならないだけ。自制が利く程度には、ヴァネッサはラウドのことが好きだった。恋の予感に胸ときめかせていたのだ。
「婚約破棄しちゃえば?」
「そう簡単にいくかしら。あちらのお父様の顔を潰さないようにするのが大変よ」
いっそのこと悲劇のヒロインムーブかましてラウドを悪役にしてしまおうか。父親同士の付き合いがあるので本当にめんどくさい。ラウドの浮気を訴えたって、どうせ男同士で「若さゆえのあやまち」だとか「嫉妬するのは恋してるから」だとか言って、ヴァネッサに折れるように言ってくる。酒が入ると特にそうだ。
ヴァネッサが悶々と思い悩んでいた、ある日のこと。
その日は授業でわからないところがあったので、先生に聞こうと教員室に向かっていた。同じところで悩んでいた友人たちも一緒だ。
放課後の校舎はそれなりにざわざわしている。貴族同士の交流として女なら茶会、男はクラブとそれぞれ活動しているからだ。
「あら?」
教員室のある校舎へと続く渡り廊下を歩いていたヴァネッサは、ふと足を止めた。
そこそこ人のいるバラの茂みに、ラウドとエマニュエルがいる。
「まあ。あの二人、また……」
友人が眉を顰めた。
見られていることがわからないではないだろうに、二人はそっと身を寄せ合うと、あろうことか口づけを交わしていた。
「っ!」
ヴァネッサは咄嗟に走り出した。友人が慌てて後を追う。
「ヴァネッサ!」
「ヴァネッサ、大丈夫? いえ、大丈夫ではないわよね」
「なんて恥知らずなんでしょう。人前であのような……」
友人の声さえ聞こえないほどショックだった。ヴァネッサは蒼ざめ、自分の体を庇うように持っていたノートを抱きしめた。
「不潔……。不潔だわ。いやっ、信じられない……っ」
もう耐えられない。ヴァネッサは所用があると友人たちに断ってその場を離れ、寮に戻るや父に手紙をしたためた。
隠す気のないラウドとエマニュエルのことは、すぐに学校中に知れ渡った。
娘から婚約を破棄したい旨の手紙を受け取った父のブランシェ伯爵は、兄とラウドの姉にも確認を取り、やむなしと判断してラウドの不貞による婚約破棄を決めた。一時の気の迷い、若さゆえのあやまちでは済まされない理由があったからである。友人の息子とはいえこれでは、と父も諦めざるを得なかった。
友人から婚約破棄を突きつけられたラウドの父は頭を抱えた。
言いがかりだと否定したくても目撃者が山のようにおり、しかもその一度きりではなくその後もラウドは堂々とエマニュエルといちゃついていた。ヴァネッサが軽蔑するのは無理もないこと。オスマン伯爵だって自分の息子でなければとっくに見捨てていただろう。
父親に王都のゲストハウスに呼び出されたラウドとエマニュエルは、ラウドとヴァネッサの婚約が破棄されたと聞いて狂喜した。
「父上! ではエマニュエルとの結婚を認めてくださるのですね!」
「認めるよりないだろう! この恥知らずめがっ!!」
喜びに大きくなったラウドの声よりさらに大きな声で、オスマン伯爵が怒鳴り返した。
すぐにハッとなってラウドの顔色を窺い、静かに言い渡す。
「……伯爵家は婿を取って姉に継がせる。お前はどこへなりと行くがいい」
これにはラウドとエマニュエルが驚いた。女子しかいない場合はしかたがないが、男子がいれば男子が家を継ぐのが慣例なのである。ラウドはエマニュエルと結婚して伯爵家を継ぐつもりだった。
「そんな、なぜですか? ヴァネッサにはたしかに悪いことをしましたが、彼女だって私を繋ぎ止めようともしなかったのですよ?」
「わ、私が子爵家の娘だからですか……?」
焦るラウドと目に涙を浮かべるエマニュエルに、オスマン伯爵は蔑みの目を向けた。
「モネ嬢の身分など関係ない。ヴァネッサは、お前の趣味にとても付き合えないそうだ。……私も、とても認めてくれなんて頼めない」
ラウドにはなんのことだかわからなかった。エマニュエルもだ。
顔を見合わせる二人に、オスマン伯爵は深いため息を吐いた。
「お前たちの露出趣味のことだ。……まともな令嬢なら屋外で事に及ぶなど、とても耐えられるものではないとわからんか!」
「な……っ?」
「えっ!?」
我慢するのも馬鹿らしいと思ったのか、オスマン伯爵がまくしたてた。
「そのような趣味の持ち主が伯爵になるなど恥を振りまくだけだ! 社交に出たところで笑い者が関の山だろう! お前の趣味を見抜けなかった私にも責はある。だが、お前が伯爵だと!? ふざけるな! オスマン伯爵家の顔に泥を塗る気か!」
「お、お待ちください!」
「私がどんなに恥ずかしかったかわかるか!? 長年の友人に、こんな男には娘を任せられない、と半笑いで言われたのだぞ!!」
「誤解です!」
「何が誤解だ! 学校で、人目もはばからず口づけを交わしておったそうだな!? 見られて興奮する男女、と評判だ。姉の結婚にも関わる! こんな男が私の息子だとは……!!」
事実なだけに反論できないラウドも、これだけは言わなければならなかった。
「見られて興奮などするわけないでしょう!」
「そ、そうです! そんな、はしたない……!」
エマニュエルもとんでもない誤解だと懸命に言い募る。フン、とオスマン伯爵が鼻で笑った。
「ではなぜ『わざわざ人前で』口づけした?」
わざわざ人前で、を強調されたラウドがトーンダウンする。
「それは……ヴァネッサに、私を諦めてもらおうと……」
「本気で想いあっているのなら、きちんと順序を踏み婚約を解消してから交際するものだ。ヴァネッサにも、モネ嬢にも瑕疵となる手段を取ったのは、見られたかったからだと言われても否定はできまい」
「…………」
見せつけることが目的だったのは間違いない。ただし、相手はヴァネッサ一人で、周囲に人がいることが頭から抜けていたラウドの落ち度だった。
「私もヴァネッサに、お前の趣味を理解しろとは言えん」
当然である。露出なんて高度な性癖に付き合える人材などそうそういないだろう。
「何がきっかけかは知りたくもないが、お前は私の息子だ。籍は残しておいてやる。まあ……自分で趣味の合う女性を見つけ出せて良かったな」
どうにも投げやりにオスマン伯爵が祝福の言葉を投げた。
「違うんです……」
ラウドは力なく否定した。父は笑うだけだった。
ちなみに腹を痛めて産んだ息子のまさかの趣味を聞いた母親は倒れて寝込んでいる。
「姉が伯爵を継いでも好奇の目に晒されるだろう。卒業まではいてもいいが、姉のことを思うならなるべく早く家を出ていくように」
そう言ったオスマン伯爵は魂が飛び出たような虚ろな顔をしたエマニュエルに、非常に複雑な、自嘲とも嘲笑ともつかない笑みで言った。
「モネ嬢、ラウドを頼む。では二人とも、せいぜい仲良くな」
話は終わった。放心したまま二人は学校に追い返され、そこではじめて自分たちが『そういう目』で見られていたことを自覚した。
そういえばラウドに苦言を呈していた友人はいつのまにか一人減り二人減り、今では話しかけても迷惑そうに用件を聞くだけでさっさと離れていってしまう。うるさく言われなくなったのをわかってくれたかと解釈していたが、あれは友人をやめられていたのだ。同類と思われたくないのだろう。
エマニュエルも、それまで気を惹こうと話しかけてきた男子生徒がまったく近づかなくなり、ようやく露出狂の変態だと思われていることを知った。
誤解だと言えば言うほどなぜか信憑性が増していき、ヴァネッサに弁解しようにも顔を見ただけで悲鳴を上げて逃げられる。姉は姉で「変態性癖はせめて人様に迷惑をかけないように」と萎びたきゅうりみたいな顔で忠告してきた。わりと良い仲だった男性に、そういう趣味の弟がいるのは、とフラれてしまったらしい。ラウドは罪悪感に潰れそうになった。
二人が別れても、次の相手は見つからないだろう。とんでもない性癖の持ち主と周知されてしまったラウドとエマニュエルはもはや別れることもできず、ぎすぎすしたまま交際を続けている。
あんなところでキスなんかするんじゃなかった。周囲の意味深な目から逃れるように、ラウドとエマニュエルは閉じこもっていった。
ヴァネッサは潔癖症ではない。ラウドがきちんと手順を踏んで、エマニュエルと結婚したいと婚約解消するなら了承するつもりだった。しばらくは学内で色々言われるだろうが、むしろ学内にフリーになったことが伝わるのでちょうど良い。むしろ失恋した女という評判を最大限利用して仲の良い男子に慰めてもらい恋をはじめよう。それくらいしたたかに考えていた。
ラウドとエマニュエルの露出性癖をさも事実のように肯定して広めたのは、ちょっとした意趣返しだった。浮気を見せつけて傷つけるだけならまだ我慢してやれた。しかしあの時、バラの茂みでキスをした二人は優越感を見せつけてきたのである。ヴァネッサにはこんなことをする相手などいない、と見下してきた。それがヴァネッサの怒りに触れた。
そうか、そちらがそのつもりならこちらも遠慮はすまい。幸いキスシーンを見ていた生徒はいっぱいいた。なに一つ嘘を吐く必要もない。ヴァネッサは、その事実を客観的に解説してやっただけである。
「ヴァネッサ」
「なぁに?」
「その……手を繋いでもいいかな?」
ヴァネッサは見事に仲の良かった男子と恋人になった。奥手の彼はヴァネッサを大切にしようと決めているらしく、いちいち許可を求めてくる。その度に頬を赤くしてしまうヴァネッサを、愛しくてたまらないという瞳で見つめてきた。
この反応は計算ではない。自分が意外と初心であったことにヴァネッサは驚きつつ嬉しくなった。初恋は踏みにじってしまったけれど、この恋はどうか本物でありますように。
おずおずと指を絡めてきた彼に微笑みながら、ヴァネッサはうっとりと浸った。
ヒロイン()が見せつけてくる話あるけど、普通に考えたら気持ち悪いな……とふと思って書きました。